第二章13 Deus
「マジかよ……」
僕の部屋も、荒らされていた。本棚が倒れて小説や教科書が床に散乱している。窓は開かれ、風が吹いてカーテンが暴れ回る。
「細田? 細田、大丈夫か⁉︎」
繋がったままの電話の向こうから、焦燥に満ちた水瀬の声が聞こえた。
僕は携帯を机の上へと置き、スピーカーモードへと切り替える。
「大丈夫。いや、大丈夫じゃないのか?」
「どういうこと」
「僕の部屋も……散らかされてる。うちも空き巣に入られたみたいだ」
電話の向こうの水瀬が「冗談だろ」と、声を漏らした。僕だって冗談だと思いたい。
「怪我はないのか? ち、近くにヤバそうな人間とか……とにかく、大丈夫か?」
「わから——大丈夫」
ほとんど強がりだった。しかし、何と言っても不安を煽るような気がする。沈黙しても心配されるだろうし、どうすれば良いのか。
「とにかく、僕は無事だ。窓が開いてるから、もう逃げていったんだと思う」
「それなら、いいけど……いや、よくないけど。気を付けてくれよ」
「うん」
一度、整理しよう。
綾織さんと別れ、家に帰ってきた時——すなわち、風呂に入る直前まで、部屋はこんな有様にはなっていなかった。
ということは、何者かが水瀬の部屋を荒らしたのちに僕の家までやってきて、僕の部屋からも何かを持ち去ったということだろうか。
空き巣に入られた、という水瀬の言っていた事実——それが、僕の目の前でも起きた。『泥棒』という概念が肉体を持ったように思われて、甚だ不気味だった。
足の踏み場を作るべく、倒れた本棚へと手をかけた。が、現場はそのままにしておくべきだ、という水瀬の言葉を思い出して手を離す。
風が冷たい。せめて、窓は閉めても良いだろうか……と、小説を踏まないように移動する。
舞い上がるカーテンを手で払い、窓を絞める——
「うわっ⁉︎」
「え、なに。今度はどうした?」
『-・-- ・- -・-・- ・--・ -・・・ ・-・ ---・- ・-・』
閉めたガラスには、赤い塗料で点と棒が無数に描かれていた。血液……ではなさそうだ。
見覚えのある図形というか、配置だった。目を凝らし、僕は息を呑む。
「いや、大丈夫だけど。あのさ」
「なんだい」
「そこにまだ警察はいるか?」
「うん? いる……けど」
僕の考えていることが解らないのか、あるいは僕の緊張が伝わってしまったのか、彼女の言葉は曖昧だった。
仕方のないことだろう。こんな状況において冷静でいられる方がおかしい。
「間違いなく、僕の家にも警察を呼ぶべきではある、と思うんだけど……」
『-・-- ・- -・-・- ・--・ -・・・ ・-・ ---・- ・-・』
窓には、モールス信号でそう書かれていた。命令や警告と言ってもいいだろう。
「窓に赤ペンで『警察話すな』って書いてある」
「…………」
ごくり、と水瀬が言葉を飲み込む音が聞こえた。
咄嗟に、僕は机上の携帯を手に取り、窓の符号に向けて数回シャッターを切る。筆跡、もクソもないけれど、犯人の残したものであることは間違いない。
「もし仮に、警察に話したとして——」
「いや、待て待て。ダメだろ。話すなって脅されてるのに、従わなかったらどうなるか……」
「仮に、の話だよ」
もし仮に、警察に話したとして。
二人の家へ(犯人が何人かは判らないけれど)同時多発的に空き巣が入った。被害者の二人は友人関係であり(犯行がいつ行われたのかも正確には判らないが)直前まで一緒に居た。
目撃者ゼロで、怪我人ゼロ。金品強奪の形跡はなく、盗品はおそらく『僕の原稿』のみ。
「これ聞いてどう思う?」
「わたし達二人の自作自演を疑う」
水瀬は即答した。僕と全く同じ結論である。
「……だよな。こうなることが犯人の狙いっていうか、想定なのか?」
「わたしに訊かれてもわからない。情報量が多すぎて、悪いけど今あれこれ考えるのは無理」
深い嘆息とともに「もうすぐ、警察の人に呼ばれるかも」と彼女は付け加えた。
「とにかく、細田が無事ならそれでいいんだ。原稿が——」
「あれ、水瀬?」
ブツリ、と音を立てて電話が切れた。本を踏まないように、机まで腕を伸ばして携帯を手に取る。
暗転した画面はただ僕の顔を映すばかりで、ボタンを押しても反応しない。バッテリー切れのようだ。
「タイミングだろ……」
僕は頭をかいた。水瀬の前では堪えて燻っていた怒りが、音を立てて熱を発する。
どうしてこんなことになったのか、さっぱり解らない。誰かから嫌がらせを受けるほど、他人と関わってきた記憶はない。だから、犯人の検討はつかない。
僕は充電台へと携帯を押し付け、歯を食いしばって本棚を起こす。金属の骨組みだけのような本棚なので、起こすのは容易だった。
しかし、刊行順に揃えた漫画が次々と流れ落ちていく様には苛立ちを隠せない。
「何考えてるか知らねえけど……」
ふざけんな。ひたすらにそう思った。
戻すのが面倒臭い。捨てられずにいたコミックスやアイデアを詰めたノートを見ると、嫌でも、漫画家を目指していた当時を思い出してしまう。
いい加減割り切れよ、と自分に対して言いたくなる。
いや、割り切ったはずだ。僕は水瀬の弟子になり、同人誌を発行して小説家を目指す。そう誓ったはずだ。
己の過去に向き合い、共に戦ってくれる師匠を見つけた。
けれどそんな最中、本棚の奥底に仕舞っていた、夢を諦めた痕跡を見せつけられた。
そして、それを未練がましく仕舞っている情けなさを突き付けられた。
「どこの誰かも知らねえし、八つ当たりだけど……」
ふざけんな。
僕の師匠に要らん不安を植え付けたこと、過去を振り払って歩き出そうとした僕の足を掴んだこと——それら全部、許さない。
お前が血反吐を吐き、赦しを請うような物語を書いてやろうか。情けなく涙を流して頭を垂れる様ならば、いくらでも描写できる。そんな小説を書いて、生きている限り忘れられない呪いを植え付けてやろうか。
ため息をつく。こんなことを考えたって仕方がない。喧嘩に負けたあとで、相手を打ち負かす妄想を膨らませる子供と変わらない。
落ち着け。お前が不安定になれば、彼女の心まで蝕んでしまう事になる。それだけはダメだ。
僕は、久しぶりに自分のベッドへと寝転がった。ずっと昔、目覚めた時に整えたままだった。
携帯が充電され、電源がついた。この状況で突然、電話が切れれば不安になるだろう。水瀬へと電話して無事を知らせ、それから眠ろう。
外は雷雨だった。いかにも劇的だ。
春の夜の、悪い夢であればいい。はやく醒めればいい。
決して疲れを癒すためではなく——この不安を振り払うために眠ろう。




