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第二章12 時の氏神

 湿った髪越しに、耳へと当てた携帯からは水瀬の焦った息遣いが聞こえる。遠くで水瀬の姉——店長と誰か男性の声も聞こえた。会話をしているようだ。


「細田、もう一回訊くぞ。責めたりしないから、正直に答えてくれ」

「えっとわ、わかった……」


 しばらくの間を置いて「原稿を持っていないか?」と水瀬は質問してきた。

 原稿、とは何の原稿だろうか。こんなにも焦っているのなら、只事ではないだろう。しかし、何の話をしているのか全く分からない。


「原稿って、水瀬——彩月潤作品の原稿か?」

「違う。わたしのじゃない。もっと具体的に質問するぞ、いいか?」

「あ、ああ。いいけど」


 淡々と、しかし怒気にも近しい熱量を含んだ水瀬の声は、普段の飄々《ひょうひょう》とした態度とは正反対だ。気圧されて言葉に詰まってしまう。


「細田が書いた原稿、細田のポテンシャルをはかるために書いてもらったやつ。あれを知らないか?」

「知らないか、って……全部、水瀬の家に置いてきたよ」


 ラーメン屋にて『姉が順番を整理している』と水瀬本人が言っていた。

 書いた本人である僕ですら、今朝、古書堂で叩き起こされて以降触ってもいない。


「もしかして、何ページか抜けがあったのか?」

「いや、違う——」


 彼女は、重大な秘密を打ち明けるかのように、声を潜める。低く、重い声で、


「無くなったんだ。全部」

「全部⁉︎」


 水瀬は言った。

 言っている意味がわからない。いや、文章として理解はできる。が、絶対にあり得ない、と脳が意味を拒絶しているのだ。

 そんなとき、電話の向こうの話し声から『住居侵入』『不審者』という単語を、かすかに耳が拾った。

 まさか——


「なあ、水瀬。今向こうで店長と話しているのは誰だ?」

「警察だよ。警官が数人来てる」


 空き巣が入ったみたいなんだ、と彼女は小さな声で言う。


「もっとも、姉は古書堂から細田を見送るとき以外は一歩も出てないし、わたしもずっと一緒に本屋スペースに居た。巣を空けてないから、泥棒になると思うんだけど」


 違和感。


「ちょっと待て。泥棒に入られた、って現金が盗まれたりしたわけじゃないのか? それに、二人とも無事なのか⁉︎」

「大丈夫。お金は無くなってないし、わたし達は無事だよ。怪我ひとつ無い。そもそも、泥棒に入られた事自体、ついさっき気付いた」

「え、それじゃあ……」


 姉妹が僕を見送ったあと、ずっと二人で本屋スペースに居た、と水瀬は言った。そして、泥棒に入られた事自体についさっき気付いた——

 つまり、泥棒の姿は見ていないということだ。それでも『何者かに侵入された』と言い切れるということは、


「うん。ほとんど、わたしの部屋だけが荒らされていた。階段を上がってから気付いたんだ」

「…………」

「現場はそのままに、っていうのがミステリーのお決まりだから、部屋は散らかったままで警察を呼んだ。でも、わたしの財布も制服も下着も……ブラもパンツもニーハイも、全部無くなってる様子はない」


 後半の情報は要らん。

 しかし、決定的なことはまだ言えないけれど、金品が目的なら、一階の本屋スペースのレジを襲うのが自然。

 作家彩月潤——水瀬の私物を狙ったとも考えられる。が、その辺りが無くなっている様子は無い、と彼女は言う。

 つまり、現状。


「それじゃあ、本当に……」


 僕の原稿だけ、無くなった。


「そう。だから、真っ先に細田に電話をかけたんだ。わたしに小説読まれるのが恥ずかしくて、わたしの部屋をめちゃくちゃにしてでも取り返したかったのかもしれないし」

「そんなわけないだろ!」

「冗談だよ。だから、責めないって言っただろ。むしろ、そんな冗談であって欲しかった」


 それは、同感である。

 こんな馬鹿な話が——不気味な話があってたまるか。

 

 しかし、実際に警察まで動いている。これは現実なのだ。現実として、何者かが僕の落書きにも近しい原稿を。『拙い小説』を持ち去ったのである。


 僕は、風呂場を出て、タオルで水分を拭うのもほどほどにジャージへと着替えた。


「細田、君まさか……お風呂中?」

「今、上がったよ」

「なんか、ごめん」


 水瀬は素直に謝った。普段から、これくらい素直であって欲しいものだ。

 僕はタオルを被ったまま、携帯を耳に当てて自分の部屋へ向かって移動する。冷たいフローリングを裸足で進むと、緊張ゆえか、いつも以上に爪先が風を感じた。 


「でも、細田が無事で良かったよ。君の身に何かあったらと考えると……」

「なんだ、心配してくれてるのか?」

「興奮する」


 最悪だ。変態だ。

 けれど、それで不気味な気持ち悪さというか——ひとまず、怪我人がいないことを喜べるまでには精神が安定した。

 警察と共に荒らされた部屋を前にしながらも、落ち着いてこちらの精神を気遣ってくれるとは……。

 やはり、水瀬は只者ではないとつくづく感じた。


「なんか、ありがとう」

「いえいえ」


 僕は、自室の扉を開ける。


 開かれた窓から風が流れ込んでカーテンが膨らむ。本棚が倒されていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 綾織さんが今のとこ怪しいけど 主人公とのやり取りのあとに実行って難易度高すぎて無理そうだしどうなんだろ……
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