第一章2 悪魔
「それはBL?」
放課後。新学期特有の緊張が解けて、連絡先の交換で忙しい教室の片隅。
真新しい教科書一式を机の中に置いて帰ろうとしていた僕に、彼女は小さいながらもはっきりとした声で言った。
耳を疑った。
鬼の形相で掴みかかろうとしてきた昼休みの終わり。それから沈黙を決め込んでいた人間の第一声がこれだろうか?
「違う」
とりあえず否定した。これはBLじゃない。「ふーん」と、水瀬もとりあえずの相槌を打った。納得していないようだ。
「ほんとかなあ、中を見せてよ。そしたら信じたげるからさ」
「無理だ」
「なんで……?」
僕の手のライトノベル、彼女の視線はずっとそれに向けられている。
頭の上に持ってきて左右に動かすと——彼女の瞳孔は開き、餌を前にした子犬の如くラノベを追った。
もし眼前の女に尻尾でもついていたら、はち切れんばかりにブンブンと振り乱しているのだろう。可愛い、とは思えなかった。むしろ生理的嫌悪、ドン引きだ。
「ほいっ、見せられないような……とうっ、ものなのか?」
水瀬は、変な掛け声と共に小ジャンプを繰り返してラノベを掴みにかかる。
見せられないようなもの、これは正解である。けれど、ここで羞恥心に負けて下手を打てば僕の秘密がバレる。
手札はある。反撃しよう。
「どの口が言ってるんだ。一人で小説読んでニヤけてたくせに」
「や、やっぱり見たのかあ!?」
声を上擦らせながら小ジャンプを中止し、僕の学ランの胸ぐらを掴んだ。水瀬の眼鏡に僕の顔が映る。
「見て——」
ない。はっきりとは見えてない。けれど、ないと言ったら不利になる。
けれど僕は確かに、今にも絡み合わんとする二人のイケメンの絵らしきものを見た。間違いない。あれは(かなりハードな)BLだ。
「——たよ。見えてた」
「ここで死んでくれ」
物騒な物言いと共に接近するのは水瀬の二本指だ。眼球へと迫る指先、咄嗟にラノベで受ける。
「ぎゃあ」水瀬が怯む。突き指寸前の中指を押さえ、彼女は数歩ほど後退した。
俯いた黒髪の隙間から、ギラリと目が光る。
「こうなったら……お前の秘密を寄越せ」
水瀬は全力で背伸びして本を掴みにかかる。僕も背伸びをして躱すので中々届かない。
確かに、その一挙一動には小動物的ないじらしさが付いてくる。しかし、
「えちえち小説を寄越せえ!」
この女は紛れもない変態。騙されてはいけない。
「馬鹿かお前! 嫌だよ」
絶対に負けられない戦いがここにある。この小説を奪われれば僕の青春が終わる。
しかし激戦の最中、ほんの少しだけ希望が見えた。
おそらく、この女は本気で『いかがわしい作品だから見せられない』と勘違いしている。
僕の危惧する最悪の展開には至っていない。
「乙女を弄ぶなよ。ここにヘンタイがいるぞー」
「どの口が言ってる。変態はあんたの方だ」
「散々、他人の横顔を舐めるように眺めておきながら変態ではない、そう主張するのは苦しいんじゃないかな」
変な声が漏れそうになる。バレていた。しかし怯んではいけない。僕にはまだ常識と体格差という武器がある。
「……ていうか、これはあんたが思ってるような内容じゃない」
「なるほど、薔薇園であると」
「BLじゃないか」
遠くから視線が集まるのを感じる。
全く口を開くことのなかった女が、唐突にBLだの薔薇園だの言い出したのだから、それもそうだろう。
周囲の群衆からすれば、僕が小動物を弄んでいるように見えるのだろうか。ふざけんな。
遥か遠くで綾織さんが呆然とこちらを見ていた。珍獣を見る目である。
「あ……」
春休みが終わってから、初めて彼女と目が合った。
誰に対しても笑顔を絶やさない彼女の顔は、困惑の頂点に達していた。
——違う。違うんだ。そんな目で見ないでくれ。
「仕方ない」
そう言って、ぴょんぴょん飛び跳ねるのを止めた水瀬。スカートを整えて眼鏡の位置を直している。
いい加減、周囲の視線に気が付いたのだろう。そうだ、それでいい。諦めてくれ。
「耳」
「はい?」
口元に手を添えて、水瀬は声を潜める。そして、
「貸して」
僕の学ランの襟に指をかけて、背伸びしながら僕の耳に顔を近づけた。僕は制止しようと口を開く。が、言葉が出ない。水瀬の髪が頬に擦れる。
「普通の人間は、読んだ小説に付箋でマークしたり、文章に赤線引いたりしないよ……それがどんな小説であれ、ね」
「え」
寒気がした。
胃の奥から何かが込み上げてくる。全部、バレているのか?
「大事なんでしょ? これ」
言い終わった水瀬は二、三歩後ろへ下がる。んんっと喉の調子を確かめるように、ひとつ咳払い。
「んーあー、あー」
謎の発声練習。第一声は低く、二つ目の『あ』が異常に高い。まさか──
「かーえーしーてーくーだーさーいーっ!」
まさに蒼天の霹靂、裸足にレゴブロック。
その場で小ジャンプを繰り返し、両手を振り回しながらあざとい声音で、それもわざわざ大声で言った。被害者側へ回ったのである。
「ひどいですよ……」
猫が顔を撫でるような手付きで、流してもいない涙を拭うような仕草。
ざわつく教室。クラスメイトの視線。水瀬の視線。綾織さんの視線──
多分、僕は今、ゾンビのような顔色だ。血の気が引いていくのが分かる。
新学期で自らの鬱屈としたキャラクターを一新すると共にアルバイトで一儲けし、綾織さんを振り向かせる——
かくして、そんな僕の野望は砕け散った。
春休みの努力が、走馬灯のように流れていった。
目の前でぺろっと小さく舌を出し、呆然と肩を落とす僕の手からラノベを奪い、意気揚々と教室を後にする水瀬。
縁結びの神が実在しているのなら今すぐ出てこい。「最悪の女と引合せやがって!」心からそう叫びたかった。けれど、叫ぶことはできなかった。未だに僕の奥底にチキン根性が居座っていたからである。
水瀬が去り、今がゴミ拾いの時間であったことに気付く。
皆がそれぞれ仕事をこなしていく中、ただ一人、綾織さんだけが——むすっとした顔で僕を見ていた。