第二章11 浴槽の小説家
僕は、一人。湯船に浸かっていた。
読みかけの小説を持ち込んではみたものの、一ページも読み進める事ができない。
ただ携帯の発信履歴を眺めていた。
家族の名前意外に、ただ一つ。一番上には目に新しい番号が残っている。綾織さんの番号だ。
「綾織さん、すごい怒ってたよな……」
普段、誰の前でも温厚で、淑やかな微笑みを崩さない彼女が——どうしてなのか。
どうして、とは言っても、原因が僕にあるのは明白である。けれど、それが何なのか判らない。
そして、幻聴のような気がしなくもないけれど、訛りが出ていたような。綾織さんは関西出身だったのか?
さておき、
「謝るなら、俺から。絶対そうだ」
誰もいない家の風呂場で一人、あえて口に出して確認する。
現在の時刻は八時を回ったところ。電話をかけても大丈夫だろうか。いつも深夜まで起きている僕には、その辺りの常識が欠けているように思えた。
そもそも、夜になってからクラスメイト——それも女子に電話する経験自体が初めてだ。
こんな時、咄嗟に相談できる女友達がいれば良いのに、と思ったところで水瀬の顔が頭を過ぎる。
しかし、
「あいつの連絡先知らんし……」
もし、仮に連絡先を知っていたとしても、彼女に綾織さんのことを相談するのは、何か違う。
水瀬は、僕が綾織さんを好きであることを知っている数少ない人物である。綾織さんが僕の好意に気付いていないとすれば、唯一の人間だ。
だが、水瀬と僕は弟子と師匠。変態作家とギャップに戸惑うファン。天才と凡才。隣席と隣席——それ以上でも、それ以下でもない。
何故か、ずっと昔から知り合いであるかのように軽口を叩き合っているだけで、何でもない。
だから。
つまり、水瀬とは師弟。綾織さんとの関係とは割り切っておきたい、棲み分けておきたいのである。
翻って、僕が創作の話をしているときに、水瀬が彼氏の話題を振ってきたら……言葉がなくなる。
それは嫉妬や独占欲のようなものとは程遠く、ただ単純に、
——創作なんかじゃなくて、色恋に興じていれば良いだろう。
などと、性格の悪いことを考えてしまうからだ。勿論、そんな言葉を、本人を目の前にして吐くほど愚かではない、つもりでいる。だから、言葉が無くなる。
水瀬の恋人の有無は置いておいたとして、やはり、彼女と色恋どうこうを話すべきではない。
彼女から話を振られようとも、僕からは絶対に話すべきではない。
今更ながら。
彼女——とは女性に対して用いる代名詞であり、恋人を示す普通名詞でもある。ここでの『彼女』とは間違いなく前者の意味である。
「結局、振り出しに戻った……」
湯船に浸かって、相当の時間が経っている。足の指はシワッシワになっているだろう。
インターネットで調べたところ、朝九時から夜九時までの間に、電話での用事は済ませるのが常識とされているらしい。
学校のインターネットリテラシー講習での教訓を無視し、その情報を鵜呑みにするならば——
刻一刻と、非常識は近づいている。
今すべきことは、第一に綾織さんへの謝罪。そのためには、なにゆえ彼女を怒らせるに至ったのか、を整理しなくてはならない。
何の考えもなしに、いきなり電話をかけて、ひたすらに謝ったところで……
「いや、待てよ」
あるいは、僕に欠けているのは『いきなり電話をかけて、ひたすらに謝る』精神なのではないか?
こうして理屈をこねくり回している間にも、綾織さんの怒りは深さを増すばかり。彼女を傷つけたまま放っておいて良いのか?
「ダメだ。それだけはダメだ」
それなら、さっさと電話をかければ良いだろう。明日、学校で綾織さんに謝罪する度胸があるのか?
「…………」
こうして自問自答し、己に論破されている時点でちょっとどうかと思う。
けれど、脇道に逸れてはきたものの、ここまでの思考は間違っていないはずだ。
僕に欠けている精神。つまり、僕に必要なのは、
——僕は君の言う通り阿呆だから、君をどうして怒らせてしまったのか見当もつかない。けれど、とにかく謝りたいんだ!
これじゃないだろうか。
格好良くもないのに、格好をつけるべきではない。そういった行為はイケメンのリア充がすることだ。
僕は、まだリア充じゃない。陰キャである。
それならば、泥臭く誠意を見せるしかない。
「よっし……!」
僕は、両手で己の頬を叩き、大きく息を吐いて気合を入れた。通話履歴の一番上、綾織さんの連絡先へと指先を伸ばす。さあ、いざ——
画面が切り替わった。
暗転し、己の顔が映る。何かを触ったわけではない。
驚きの声を上げる間もなく、携帯が震え出した。
「えっ……?」
全く知らない番号。身に覚えのない数列。
携帯は震え続ける。思わず手から滑り落ち、浴槽の蓋の上で低い音を鳴らして暴れ回った。
綾織さんの方から、かけてきたのか?
しかし、綾織さんの番号を全て暗記しているわけではないけれど——この番号は知らない。
誰だ。
その瞬間、家のどこかで重い音が響いた。何かが倒れるような、あるいは倒されたような音だ。
「何だよ……何なんだよ!」
パニックに陥りそうなところで、それ以上重い音が鳴ることはなかった。
代わりに、蓋の上で携帯が震え続けている。
赤いボタン、緑のボタン。
僕は携帯を手に取り、震える指で緑へと触れた。
「…………もしもし」
息を呑み、端末を耳に押し当てて声を出す。ガサガサと、何かが擦れるような音がしばらく響いたのち——
「もしもし細田、全然出なかったけど……今、大丈夫か?」
水瀬の声だった。
「み、水瀬。お前、水瀬か?」
「そうだよ。急にかけてごめん。びっくりさせたかも」
電話越しの彼女は、少し息を切らしているようだった。何があったのかは判らない。何をしている最中なのかも判らない。
「ほんと、ほんとだよ。びっくりした」
「うん、ごめん。それでな、訊きたい事があるんだけど」
「何だよ、こんな時間に」
とは言ったものの、まだ非常識な時間ではない。
単刀直入に訊くぞ、と水瀬。何だ、何を言われるんだ——
「原稿……どこへやった?」




