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第二章10 風下

 僕にとって、遥か天上の彼方とも言い得る部活終わりの女子高生たちによる爽やかな団欒だんらん。その中心で燦然と、しかし淑やかに輝いている人間が、躊躇うことなく、すれ違った僕の名を呼んだ。

 ——要するに、運動部リア充女子グループの中心人物が、僕の名前を口にしたのである。

 見紛うはずもない、綾織さんだ。


「や、やっほー」


 と、やまびこのような挨拶で彼女は声をかけてくれた。アルプスの住人なのだろうか。

 確かに、水瀬のような病的な白さではなく、あくまで健康的、かつ適度に日焼けした綾織さんの白い肌と顔立ちなら、ヨーロッパ圏の住人と言われても違和感はない。


「あやねんの友達?」「先輩が言ってた同じクラスの人ですか?」「…………」「意外とフツメンだあ」


 一緒に歩いていた同じ部活の皆さんが一斉に喋り出した。僕は聖徳太子ではないので、何を言っているのか解らない。


「ちょっ、みんなうるさい! いらんことまで喋るなあ!」


 綾織さんは、僕と女子ズの間に割り込み、ぶんぶんと手を振って遮る。ほとんど絶叫に近かった。


「照れてます。あやねん照れてます」


 女子生徒の一人が言う。綾織さんは歩道の上をあたふた動き回り、黙るよう人差し指を立てる。


 さておき、今すぐにでもペダルに足をかけ逃亡したかった。単純に、女性の集団が怖い。否、数人から一度に話しかけられかねない状況が怖いのである。


「さ、みんな空気読んで解散するよ……!」

「そだね、邪魔しないようにしよ」


 さながら試合直前のように、綾織さんを抜きにして円陣を組んだ彼女らは、ひそひそと何かを相談したのち——


「それでは、先輩。今日は歓迎会ありがとうございましたっ!」


 と、声を揃えて挨拶し一斉に走り出した。

 ただ一人、キャップを深くかぶった子だけが数回ほどこちらへと振り返った。けれど、すぐに全員が角を曲がって消えてしまった。


 綾織さん一人が取り残され、気まずい沈黙を繋ぐのは道ゆく車の走行音だけだ。


「え、えっと。こんばんは」

「……こんばんは」


 僕は自転車に乗ったまま、ゆっくりと彼女から離れる。

 ラーメンをキメているから大蒜ニンニクでアウト。それ以前に、一日家に帰らず、風呂にも入っていない状況である。

 水瀬はともかく、綾織さんに「臭う」などと言われたら立ち直れない。思われるだけでも嫌だ。


「こんな時間に……会う、なんて、不思議だね」

「そう、だね」


 顔を赤らめ、俯きながら彼女が話し出した。

 言葉を選んでいると言うよりは、予想外の事態にお互い困惑して、辿々《たどたど》しい会話になっていた。


 思い返せば、綾織さんが一方的に僕へと連絡先を渡して去ってしまって以来なのだから——普通は、僕が帰宅後、ドキドキしながら電話をかけるのがラブコメの定番である。

 しかし、予想外の形で再開を果たしてしまったものだから、互いに気まずい。


「ごめんね」

「んえ?」


 変な声が出た。


「なんか、うるさいっていうか、元気な子たちだから。細田君の喋るスキを奪っちゃったみたいで……」

「いやいや、大丈夫。なんでもない。綾織さんが謝ることじゃない……と思う」


 あの人数に驚いたのは勿論だが、口を開けば大蒜。いずれにせよ喋ることはできなかった。

 制服に、臭いとか、付いていないだろうか。大丈夫だろうか……。


 幸いにも、僕は海沿いの古書堂——水瀬の家からやってきた。潮風の風下にいる。

 とりあえず、一定の距離さえ保っていれば大丈夫なはずだ。


 他の通行人の邪魔になってはいけないし、僕は自転車から降りた。


「ちょっと待って、それ以上近づかないで」


 綾織さんは両手のひらを僕へと向けて、少し後退りする。

 まさか、臭うのか⁉︎ マズい、非常にマズい——


「部活の新入生歓迎会って言ったじゃない?」

「え、あ、はい」

「それで焼肉食べ放題に行ったんだけど——私、本当に食べ放題しちゃったから、ダメ。だからダメ」


 絶対ダメ、と彼女は強調して繰り返す。

 つまり、綾織さんも僕と同様に、臭いを気にしていたのだ。僕が臭っていない、という確証が得られたわけではない。が、一時的な不安は去った。


「や、焼肉ね。い、いいと思うよ……」

「やっぱり臭うっ⁉︎」

「臭ってないです!」


 即答した。言葉尻にかぶせて即答した。


「ほ、ほんとに?」

「もちろんです」


 それでも、彼女は両手で自分の口を覆っている。顔の半分は隠れているけれど、その耳は真っ赤だ。

 どうにかして、綾織さんの不安を取り除きたい——


「その、僕もラーメン食べたから。おあいこだと思う」

「むう……」


 口を覆った手がわずかに膨らんだ。頬を膨らませて何かを考えているのだろう。なにそれ可愛い。

 ニヤけそうになるのを堪えて、僕も片手で口元を押さえた。


「でも、細田君がラーメン食べてたとしても、私の臭いは変わらないよね?」

「どうして冷静になっちゃうんだ……」

「だって!」


 そこで彼女は本当の意味で、文字通り口をつぐんだ。

 僕とて馬鹿ではない。より正確に言うのなら、この展開を読めないほど鈍感ではない。

 というか、この展開はラブコメ系の漫画で読んだことがある。この後に続くのは、


『細田君に臭いって思われたら私、私……』


 みたいな感じだろう。

 しかし、もし本当に彼女がそう考えていたとしても、脳内でこんなことを考えている自分が情けない——話題を変えよう。


「ところで、どうして綾織さんは海の方へ? 家に帰る方角とは反対だと思うんだけれど……」

「え、それ、聞く? 聞いちゃうの?」


 あれ、おかしい。反応が予想外。こんなはずじゃなかったのに。


「訊かない方が良い、ですかね」

「……いや、別にいいけど」


 やはりおかしい。明らかに態度が冷たくなった。

 なんだ、なにがマズかった? わからん。どうすればいいんだ……。訊いていいなら、訊いてみるか?


「えっと、それじゃあ。お友達と『海公園』にでも行こうとしてたの?」

「…………あほ」


 綾織さんは両手の中で小さく何かを呟き、そっぽをむいてしまった。そして、


「細田君はあほや! ここまできて何でわからんのっ⁉︎」

「ええ⁉︎」

「あほ、おたんこなす! もう知らん!」


 拳を握って、目尻に涙を浮かべながら彼女は叫んだ。「あっ……」と弱々しく声を漏らし、再び己の口を押さえて俯く。


「……ごめん、もう行くね」


 ほとんど掠れた溜め息のような、声にもならない声を残して、彼女は走り去ってしまった。

 口を押さえていた指先が、目元へと伸びていたように見える。


 追いかけるべきなのか、水瀬に自転車を奪われた時とは逆。今、漕ぎ出せば間に合うだろう。

 けれど、彼女を呼び止めて何を言うのか。そもそも、何が彼女を傷つけたのか——


 彼女が走っていった先は海、家路とは逆、僕が来た方角ではある。僕は水瀬の家、古書堂から来た……。

 何かが引っかかる。以前、綾織さんが古書堂について、何か言及していたような気がする。


 しかし、それ以上思考は進まず、記憶は蘇らなかった。僕は、鈍感だった。

 ラブコメ系の漫画を読んでいて、主人公の行動に感じていたはずの気持ちが、今はよく分からない。


 この展開は、読んだことがない。読んでいたとて、教科書にはならない事が身に沁みて解る。


 彼女を追いかける、彼女が走り出す前に呼び止める、手を掴む、そもそも質問をしない、不穏な空気を察して質問をやめる、彼女が海の方へ向かっていた理由を思い出す——選択肢は、無数に存在していた。

 その中でも、より最悪に近い選択をしてしまったことだけが確かだ。


 自分が今まで書いてきた、()()()()や漫画のように、何度も書き直せたらいいのに。


 吹き付ける海風の中、強く強く思った。

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