第二章8 同人誌
水瀬の言っていることが、しばらく理解できなかった。よほど僕が呆けた面をしていたのだろう、彼女は正面で笑いを堪えている。
「失礼ですが、水瀬さん。今なんとおっしゃいました?」
「同人誌出すぞい、と申し上げましたけど?」
君はばかなのかな、とでも言い出しそうな顔だ。そして、記憶と口調が一致しない。キャラを守って欲しいものである。
もしかして、水瀬の言った『小説の書き方を教えてやる』という言葉の頭には、BLが隠れていたのではないか?
「いや、ちょっと待ってくれ。商業に進出するために、手段を選んでいられない立場なのは理解してる」
「うん?」
「けれど、同人誌って、二次創作とかエロいやつだろ。それこそBLとか。ちょっとハードルが高いかなあ、と」
夢を追うために、まず捨てるべきものがプライドである、と頭では理解している。二次創作やアダルトコンテンツならば、一定の購買層が見込めるのも理解できる。
しかし——ヘタレと言われてもいい——断言する。僕は、男子高校生。すなわち、思春期のど真ん中である。
水瀬がBL要素をふんだんに織り込む作家である段階で、何となく、こんな展開は想像していた。けれど、ハードルが高すぎる。
「阿呆、たわけ、チェリーボーイ」
水瀬はキッパリと言った。
昼下がりの猫みたいに欠伸をして、気怠さを隠そうとしない。チェリーボーイに関しては余計なお世話である。
「あのな、我が愛しき愚かなる弟子よ——」
「やかましい」
「まずは、作品がなきゃ始まらないだろ。芥川龍之介の『鼻』パターンだよ。あれが漱石の目に留まったんだろ?」
ああ、そうか。そういうことか。
ようやく、水瀬の言いたいことが理解できた。彼女の言った『同人誌』はエロや二次創作という意味ではない。
「個人出版か……」
「そう、そゆこと。芥川の『鼻』は同人誌『新思潮』に参加した形だけど、やろうとしていることは大体同じ」
口の端を持ち上げ、眼鏡を直した水瀬の瞳がギラリと光る。
「うちの高校に文芸部があれば楽だったんだけど、まあ、無いし。わたし達でやるしか——」
突然、水瀬はメニューを立てて机に伏せた。隠れるような姿勢で「店員さんがこっち見てる。圧がすごい……」と小声で言う。
「圧って何だよ」
僕は水瀬がメニューを立てた方向——厨房へと視線を向けた。
確かに、鋭い視線を感じる。腕を組んだ坊主頭の店員は、まさしく僧兵のような覇気を振りまいていた。
今は夕飯の時間帯、稼ぎ時だ。食べ終わってなお居座られたら迷惑だろう。
「続きは歩きながら。行くぞ。ご馳走さまでした」
「う、うん……。ごちそうさま……」
そう言って、僕の背に隠れるような形でサンダルを履く水瀬。頼もしそうな雰囲気を出した瞬間にこれである。
水瀬が(お姉さんのお財布で)会計を済ませ、暖簾をくぐるまで、僧兵はずっとこちらを見ていた。
「おっかねえ……武蔵坊弁慶の生まれ変わりか何かじゃないのか?」
「あの、そろそろ離れてくれないか」
店を出ても、彼女は僕のシャツの背を握りしめていた。引き伸ばされていた、と言っても間違いではない。
「あ、すまん、弟子よ。胸が当たってたな」
「当た(るような胸をお前は持)ってない。大丈夫です」
自虐ネタをスルーされたことが悔しかったのだろう。水瀬はジトーっと僕を睨んだのちに脛を蹴った。これは弁慶も泣く。
「おら、行くぞ」
「は、はい……」
勇ましく彼女は歩き出す。僕はリュックをかごに入れ、自転車を押して隣へと急いだ。満腹だったので、小走りでも少し辛かった。
「どこまで話したっけ? 弁慶に全部持っていかれた」
押される自転車の少し先を歩く彼女が、肩越しに振り返って問いかけてきた。
「文芸部が無いから、完全に個人で出版するしかない……みたいなところまで」
「ああ、そうそう。そうだった。それでね——」
と、羽織っていたジャージを脱ぎながら彼女は前置きする。
「現実的に、無名の細田が一人でいくら声を上げても、出版社は相手してくれない。それはわかってるだろ?」
「もちろん。そんなに自惚れちゃいない」
その辺りの要らんプライドは、インターネットで漫画を公開していた時に全て焼かれた。
「それならよし。今回は、細田がまだ『無名であること』を逆手に取った作戦で行くぞ」
「無名を、逆手……?」
「うん。無名の素人が一人で勝手に出した同人誌、っていうのがミソ」
水瀬が何を考えているのか——その全貌を察するに、僕はあまりに知識不足だった。
ただひたすら、潮風を受けながら少し前を歩く彼女の言葉に、僕は耳を傾けるしかない。
「日本において、基本的に本は委託販売だから——委託される側の書店も、信用のおける出版社の本しか発注したくないわけだ。細田の同人誌を好き好んで置きたい本屋はありません」
「うん、まあ……そりゃそうだな」
「でも、わたしの家はボロいけど本屋です。拠点としてモノを売れる場所があります。通販もできるし、これで委託販売の問題は解決」
段々とわかってきた。
出版社が絡めば、そもそもの資金が桁違いだから、より大規模に広告を打ち出したり、初版自体を多くできる。
しかし、僕が今やるべきことは、出版社に企画を提示するために——出版社抜きで実際に売れたサンプルを用意することだ。
「そんでもって、タイミングを見計って彩月潤のSNSで拡散する。他の出版社の息がかかってない個人の企画だし、編集に怒られることもないと思う」
「なるほどな……。むしろ、彩月潤のアカウントが第一発見者になれば、唾をつけるのと同じ。水瀬が世話になってる出版社としては、声が掛けやすくなる——」
「そゆこと。わかってきたね」
彼女は振り返り、頼もしく悪戯っぽい笑みを見せる。僕も、強く頷いて応じた。
「と、これらは全部、作戦でしかない。希望的観測。机上の空論かもしれない。それでも——」
「やる」
「だろうね」
水瀬は前を向き、再び僕の先を歩いていく。古書堂まではあと少し、この作戦会議も終わりに差し掛かっていた。
曇った星空を見上げ、彼女は算盤を弾くような仕草で何かを考えている。それが何かは判らない。その小さな体躯の中で、どれほどの情報が巡っているのかは想像もつかない。
けれど水瀬が、どうして天才と呼ばれるのか、その理由の一端を垣間見たような気がする。
「ただし——」




