第二章5 ふたりのり
僕はうっきうきで自転車を漕いでいた。意味もなく立ち漕ぎでスピードを出し、今までは呪わしかった向かい風さえも心地好かった。
なんとなく、うっきうきという表現が猿を連想させるけれど、今なら猿だと馬鹿にされても怒らない自信がある。
なにしろ、あの綾織さんの電話番号が、僕の携帯に入っているのだ。心躍らない訳がない。
それに加えて、僕から何か言ったわけでもなく、彼女の方から番号を教えてくれたも同然。これは脈アリなのではないか? 大アリなのではないか?
胸ポケットに入れたスマホが熱い。比喩ではなく、実際に発熱している。
三年以上使い倒しているので、それも仕方ない。高校進学に際して、機種変更を許されなかった哀れな学生の姿を物語っている。そんなことはどうでもいい。
半ば強引に携帯を奪い取られたときは、さすがに困惑したけれど、きっと彼女なりの照れ隠しだったのだろう。ああ、可愛い——
「閑話休題」
水瀬が、目の前でつまらなそうに言った。
例によって『草』と謎のプリントが施されたTシャツ姿の彼女は、あぐらをかいて気怠そうに古本を仕分けている。
現在、僕は水瀬の部屋でバイト中である。
買い取った古本の一冊一冊を開いて確認し、シミやシワがあった場合、用紙の『汚れあり』の欄にチェックをつける。同じ本でも、美品は値段が変わるので違う段ボールへ——
二人で同じ作業をしながら、ダラダラと会話していた。
「それで、綾織さんには上手く弁解できたのかい?」
「まあ、多分問題なく」
「それならよし。連絡先の他に収穫は?」
「……え?」
「こんだけバイトに遅れたんだから、もっとこう、住所なり今日の下着の色なり、聞き出してきてよ」
やかましいわ。
綾織さんの下着の色が気になったことなど、あまりない。あるわけがない。僕は紳士である。
「欲望と衝動に向き合いたまえ。君は今、BL作家の前にいるんだぞ」
「…………」
「いや、本気で考え込むな。きもいわ」
「向き合えって言ったのお前だろ……」
ところで下着って、ブラもパンツも示す言葉だけど、なんとなくパンツを連想するよな。下っていう漢字強いわ——と、マイペースに水瀬は笑う。
「まあ、それはさておき。美少女の連絡先ゲットおめでとう。どこか、ご飯にでも行こうか」
「え、唐突だな」
「弟子が彼女獲得に一歩前進したんだぞ? 師匠として喜ぶに決まってるだろ。今日は、姉の金でラーメン奢ってやるよ」
果たしてそれは、奢りといえるのだろうか。それでも、素直に嬉しいことには違いなかった。
「ちょい待ち」水瀬はそう言って立ち上がり、押し入れの隙間に手を突っ込んだ。開ければコスプレ衣装の雪崩が起こるので、閉じたままに手で中を探っている。
「んー、確か、この辺に——あった!」
そうして引っ張り出されたのは、デニムのショートパンツだ。彼女は取り出した洋服を眼前に広げ、僕をへと視線を向ける。
「何見てんだよ」
「いや、まともな服持ってるんだ……と思って」
口に出してから、失言かもしれないと思った。
しかし基本的に、だらっとした制服と、超オーバーサイズの謎Tシャツ一枚しか見ていないから、こう思ってしまうのも無理はないだろう。
「うるさい。着替える。出ていけ」
ジトーっと目を細め、彼女は部屋の襖を顎で示す。
「姉に食事へいく旨を伝えてこい。仕事を終わらせろ、と反論されたら呼べ。わたしが出る」
「ぎょ、御意」
僕は何度か頭を下げ、リュックを背負って階段を降りた。登る時は何も感じないが、降るとなると木材の軋む音が怖く感じる。
この水瀬家(古書堂)は、建築されてからどれくらい経っているのだろうか——などと考えているうちに本屋スペースに辿り着いた。丸まった店長の背が見える。
「おーう、お疲れ。仕分け作業には慣れたか?」
「まあ、なんとか。水瀬が教えてくれるので」
そういえば、この人も水瀬だった。同姓の家族の前で、妹を苗字で呼ばれるのには違和感があるだろう。
けれど、僕が水瀬を下の名前で呼ぶこともまた、同じくらいの違和感が生じるのだ。何故かは判らない。
「そう。なぎも、ちゃんとやってるんだな」
バラバラの原稿を並べ直す手を止め、店長は微笑とともに遠くへと視線を向ける。その横顔は、普段の粗暴な雰囲気を置き去りにしていた。
綾織さんの柔らかく朗らかな可愛さ、とは毛色の違う、ピアノの白鍵や陶磁器のような美しさである。
「降りてきたってことは、終業か?」
喋らないままでなら良いのに。
「いえ、もう少しで終わるとは思うんですが……水瀬が夜ご飯を食べに行きたい、と」
「ああ、そゆこと。二人で行くのか?」
「そりゃ、多分。その通りです」
僕の言葉に、店長の瞼がピクッとひくついた。煙草に火を着けて、細く煙を吐き出し僕を睨む。
「……変な気起こすなよ?」
「細田にそんな度胸あるわけないでしょ」
店長の言葉を遮り、水瀬が襖を開けて降りてきた。
変なTシャツの上にジャージを羽織って、ニーソックスを履いただけのように見える。——僕が出て行かずとも、着替えられたのではないか?
「私も行っちゃダメか?」
「店番あるでしょ」
「で、でも……」
「ダメ。小説家同士、仕事の話をしてくるから。はい、お財布出して」
冷たく遇らった妹の手に、姉は渋々財布を差し出す。
「んー、ありがとう。お姉ちゃん大好き。いってきまーす」
店長に背を向け、出口へと向かいながら棒読みで水瀬は言う。僕は、何故か満更でもなさそうな店長に会釈して後に続いた。
なんとなく、この姉妹の関係性というか、パワーバランスというか——危険な部分が垣間見えたような気がする。
「弟子、遅い」
ママチャリの荷台に腰かけて、足をぶらぶらさせながら水瀬は待っていた。
「僕が運転するの、二人乗りで?」
「何か問題でも?」
「いえ、なんでも……」
僕は自転車に跨る。
「よろしい。はい、それじゃ、しゅっぱーつ」
「あい」
僕は背中越しに頷き、ペダルへと体重を乗せる。二入分の体重を載せ、タイヤが軋み始めた。
二人乗りは、とにかく最初が辛い。スピードに乗るまではバランスが取り難くなる上に、ペダルが倍以上の重さになっている。
早くも息が切れそうだ。踏鞴を踏むように、強く下へ踏み込む。左右に揺れながらも、段々と頬から風が流れていく。
ペダルが軽くなってきたので、3から4へとギアを上げた。錆びた歯車が呻き、チェーンが震えた。また少しペダルが重くなる。
流れる景色が加速し、発電されてライトが点いた。夕闇に穴を開ける街灯から、また次の街灯までがどんどん短くなる。
ギアを上げ、大きく息を吸う。
もう、ペダルから重みはなくなっていた。自分の泳ぎで生まれた水流に身を押されるように、錆びた自転車は空気の間をすり抜ける。
もはや、立ち漕ぎの必要もない。腰を下ろして呼吸を整える。
「おつかれ。弟子よ」
僕の腰に、水瀬の左手が回された。
呼吸が乱れたのは——思っていたよりも強く、腹部を圧迫されたからに違いない。今まで女子高生を後ろに乗せた経験が無かったことは、おそらく関係ない。




