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第一章1  幼馴染という蜃気楼

 彼女——とは女性に対して用いる代名詞であり、恋人を示す普通名詞でもある。ここでの『彼女』とは間違いなく前者の意味である。


 クラスで一番の美人だろう、と新学期早々から噂の中心にいるのが綾織あやおりさん。広義における僕の幼馴染だ。


 僕は、彼女とお近づきになりたかった。

 大事なことなのでもう一度述べよう。彼女とお近づきになりたかった。彼女が良かったのだ。あわよくば彼女になってほしい。


 もはや説明は不要だろう。僕は以前から綾織さんが気になっていた。


 ここでの『以前』は小学校時代まで遡る。数えられるくらいしか接点はない。家もそこそこ遠い。なぜお前が住所を知っているのかといぶかしんではいけない。理由は集団下校である。僕は怪しい者ではない。


 僕は超現実主義者だ。特に接点の無かった幼馴染が実は僕のことを覚えていて、話しかけたら両想いで付き合うことができちゃった——などという幻想は春休みへ突入するとともに捨てた。


 現に、綾織さんは一瞥いちべつもくれない。

 高嶺の花はトコトコと濁流まで降りて来てはくれないのだ。僕の方から這い上がるしかない。


 髪型を整え、洗顔方法と睡眠時間を見直し、深夜のカップラーメンもやめた。ブラジリアンワックスで鼻毛を一掃し、ゲームを売り払ってファッション誌を買い漁った。


 彼女が彼女になってくれた際の交際費にあてるため、『アルバイト』という未知の領域へも踏み出した。面接は明日、計画通りだ。


 陰鬱いんうつな自分を一新し、綾織さんを振り向かせる。野望も気合も充分。彼女と同じクラスになれますように、と神社に参拝もした。


 かくして戦の準備は整った。祈りは無事に縁結びの神様へと届き、同じクラスになれたわけだが──


 いざ彼女を目の前にして、鼻毛と共に決別したはずの僕のチキン根性が息を吹き返した。健全な肉体には、既に十七年分の腐敗しきった精神が堆積していたのだ。健全な精神が宿る隙はない。


 それから、彼女に話しかけられないまま数日が経過した。


 昼休み。綾織さんは遥か彼方、女子生徒の輪の中心にいる。

 スクールカースト最上位といえど、取り巻きに男子生徒が混ざっていないようで良かった。まだチャンスはあると自分で自分を励まし続けてはいるものの、


「やっぱ無理だ……」


 ヘドロのように机へと突っ伏し、僕はヘッドホンで自分の世界へと閉じこもった。綾織さんはもちろん、隣の女子にすら話しかけられない。

 しかし、隣の席の女子はずっと文庫本を開いて、文学少女特有の『話しかけるなオーラ』を醸し出していたから仕方がない。


 また言い訳か、と嫌な言葉が脳裏をよぎる。


 自分で自分に言い逃れするくらいなら、せめて、自分の将来にとって生産的な時間にしたい。突っ伏しているよりは、英単語か文章表現のひとつでも吸収した方が良いだろう。


 他の生徒に見られないように少し周囲を見回して、鞄から研究資料として使っているライトノベルを取り出した。シワと付箋ふせんだらけで正直汚い。


 栞を抜いてラノベを開き、上から下まで目を滑らせていくと、視界の端っこで黒髪が揺れた。そちらへ少し視線を動かすと、


「…………?」


 文庫本に視線を落としていたはずの彼女——水瀬が不思議そうにこちらを見ていた。


(見られた!?)


 咄嗟に彼女の方へ体を向ける、水瀬は素早く文庫本へと視線を戻した。わざとらしく背筋を伸ばし、肩に力が入っている……ような気がする。

 嫌な予感がして静かにライトノベルを閉じる。ぎぎぎ、と更に顔を逸らす水瀬。髪で表情が隠れた。


(マズい……非常に、マズい)


 再びヘドロのように机へと突っ伏した。絶対バレた、確実にバレた。

 ヘッドホンなんてしなければよかった。

 小説家を目指していることなんて、誰にも知られたくない。


(……いや、少し冷静になるべきだ)


 そもそも、付箋だらけの小説を一目見ただけで、僕が小説家を目指していることを悟れるものだろうか。


 ただ単に「付箋とシワだらけできったねえ小説だな」と思っただけかもしれない。

 加えて、水瀬は眼鏡を掛けている。隣席で開かれた小説の文字が見えるほどの視力は望めない。そして、カバーをかけているから、表紙で中身を判断することもできない。


 つまり、まだ最悪の事態は起こっていない。


 素早く机の中にラノベを隠しながら起き上がった。僕の唐突な動きに隣の水瀬はびくっと肩を震わせたが、すぐに文庫本へと視線を落とした。


 しかし、それなら彼女は、どうして緊張しているような素振りを見せたのか。万が一の可能性も考慮して……探らなくてはならない。


 再び、水瀬の方へ身体を向ける。良からぬ気配を察知したのか、毛を逆立てる猫のように、水瀬は本を立てて雰囲気の壁を築く。

 引き下がるわけにはいかない。文学少女の話しかけるなオーラひとつ破れないようじゃ、高嶺の花に手は届かない。


「あの、水瀬さん」


 水瀬は、文庫本に視線を落としたまま微動だにしない。やがて、わずらわしそうに髪の毛を耳にかけた。その小さな耳にイヤホンは入っていない。無視である。

 もう一度息を吸う。


「水瀬さん」


 無視だ。さいですか。

 話したくないのならば、それはそれで仕方のないことである。泣きそうになってなどいない。

 けれど、よくよく考えてみるべきだ。話しかけたところで、どう質問するのか——


「僕の読んでいた本の中身、そこから見えましたか?」


 変人である。


「さっき、どうしてこちらを見たんですか? そんなに僕の読んでる本が気になりましたか?」


 変人である。


「もしそこから僕の読んでいた書籍の中身が見えたとして、それで僕が小説家を目指していることに気付きましたか?」


 馬鹿である。

 どう足掻いても墓穴を掘るだけだ。もうやめよう。

 きっと彼女は汚い本を取り出した隣席の人間を不思議に思い、特になんの意味もなく視線を向けた。

 そして、隣人の唐突な動きに驚いて距離を置こうとしただけなのだ。最悪じゃないか。


 僕は頭を抱えた。怪しい者じゃない、と弁解すべきだろうか。しかし、それは更なる墓穴を掘ることになるのではないか。


 水瀬がこちらを一瞥することはない。再び、肩に少しかかりそうな黒髪を耳にかけて頬杖をつき、厳重にカバーの掛けられた文庫本へと目を伏せている。


 太い黒縁の眼鏡に隠れてはいるが、瞬きのたびにぱちりと音が鳴りそうなほどに睫毛まつげが長い。文字を追う瞳に続いて微かに揺れる。


 よく見れば真面目そうで、とても綺麗な人なのかもしれない——そんなことを思おうとした時、僕は気付いた。

 彼女の白い肌は少し紅潮し、顎を支えるような姿勢で隠した薄い唇の端は、わずかに持ち上がっている。


 この女、散々呼び掛けを無視した挙句、小説読んで一人でニヤけていやがった。なんちゅうものを学校で読んでいるのか……


 こんな変態とは一年間絶対に関わるまい。そう心に誓って僕は前を向いた。

 つい横顔を凝視してしまった。それこそ変態と糾弾きゅうだんされかねないが、気付いている様子はない。


 ——水瀬は文庫のページをめくる。

 これが偶然だったのかは解らない。けれど、めくられたページの先。


 それは、半裸で見つめ合うイケメン——慌てて水瀬はページを戻す。


「み、見……!」


 初めて彼女と目が合う。わなわなと唇を震わせ、僕に掴み掛かろうとしたその瞬間——昼休み終わりのチャイムが鳴った。

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