第一章16 小説の始まり
さて、と水瀬はため息をついた。
「湿っぽい話は終わりにして、今後に向けての建設的な話をしよう。晴れて、わたし達は対等な師弟関係だ」
早速の矛盾である。
「水瀬、辞書を」
対等、の意味について調べなくてはならない。対等な師弟関係って何が言いたいんだろう。
「ん、ほいっ!」
眼前、Tシャツ一枚で鼻歌まじりに本棚を漁っていた変態——水瀬は、僕の言葉にすかさず広辞苑を放り投げる。
座った姿勢では膝をクッションにすることが出来ず、広辞苑第六版(収録語彙二十万超)の重みと衝撃を全身で味わうことになった。
「殺す気か⁉︎」
「電子辞書もあるけど、そっちのがよかった?」
「ああ、電子辞書なら投げつけられても危なくない」
違う。
「そもそも、物を投げるな。本なら尚更だろうが」
「あー、うん。はい。うちの家訓にでもするよ」
全く興味がないようだ。水瀬は振り返ることもせず、ほとんど鼻歌のような返事をした。背伸びして、本棚を漁り続けている。
一瞬、本当に刹那の間だけ見せられた水瀬の人間的な側面と、こちらの宇宙人のような変態的一面——どちらが彼女の本来の姿なのか、たまに見失いそうになる。
「師弟……『師匠と弟子。教師と生徒』それに対して——」
「あった!」
「対等……相対する双方の間に優劣、高下などの差のないこと。また、そのさま。同等」
僕が辞書を引く横で、水瀬は何かを発掘したと大騒ぎしている。非常にやかましい。結局、水瀬は何が言いたかったのか。
「原稿用紙あったぞ、っていつまで辞書引いてるんだ」
水瀬は僕から辞書を取り上げ、代わりに原稿用紙の束を差し出した。紙と紙との間には埃が溜まり、随分長いこと使われていないのがわかる。
「細田、これ仕舞って。重い」
「その重い辞書、わたくし先ほど投げつけられたんですけど」
「ちゃんと叱っておきます。犬と同じで独特な匂いの人には、すぐ飛びついちゃうんです。うちの子」
なるほど、辞書に意思があるのなら仕方がない。生きている書籍は某ポッターが持っていたから知っている。
原稿用紙はちゃぶ台の上に広げ、本棚に広辞苑を戻した。そして再び座ろうとしたところで気付く——
「ちょっと待て、独特な匂いって言ったか⁉︎」
「細田って、小説一本完結させたことある?」
彼女は原稿用紙を前にあぐらをかき、僕の言葉を無視して話を進めていく。
「匂い」か「臭い」によって印象はかなり違う。嘘でしょう?
「独特な匂い……」
「わたし、匂いには寛容だよ。フェチってほどではないけど。あ、あんまり近くには来ないでもらってもいいかな」
「もう帰りたい」
冗談だよ、多分——と、水瀬は悪戯っぽく笑う。
これは、泣き顔を見られたことへの仕返しなのだろうか。そうでもなければ説明がつかない。僕から異臭が漂っているはずなど、ないのだから。
「それで、小説書いたことは?」
コーラを飲み、のり塩ポテチを頬張りながら水瀬は話題を戻した。僕がポテチを取ろうとすると、猫のような速度で手の甲を引っ叩かれる。
「短編なら。練習してた時に何本か」
「ふーん。愚問だとは思うけど、ネット込みで、世の中には出してないよね」
「出してない」
「では、読者からの感想——客観的意見をもらったことは無い、と」
僕は頷いた。
水瀬が小説の話を始めると、急に横顔が理知的に見えてくる不思議。憎たらしい笑みを助長していただけの黒縁眼鏡も、彼女の視線の鋭さをさらに引き立てている。
「それじゃ、ほとんど初心者として扱ってもよき?」
「うん、それでいい。基本から教えてください」
「おけおけ。任せんしゃい」
ただ、文芸誌のインタビューとかで創作論についての質問に答えてたけど、あれほとんど適当というか、それっぽいこと言ってみただけなんだよな……と、水瀬は袋の底のポテチを指で集めながら早口で呟く。
しばらく思案したのち、彼女はポテチの残りを摘んで口へ運び、
「とりあえず、書いてみようかね。事前知識だけ増やしてもしゃーないし」
と切り出した。
水瀬は学ランの袖をちょいちょいと引っぱり、僕のリュックから筆記用具を出すよう視線で示す。
「それ、ポテチ食った指だろ」
「バレたか。さっき、ティッシュ全部使っちまったからね。許してくれ、我が弟子よ」
彼女の中での『対等な師弟関係』とは、弟子の学ランでポテチを食べた指を拭うことを是とするものらしい。
悪かった悪かった、と気怠そうに首を回す水瀬から、ポテチの袋を手渡された。ほとんどカスしか入っていない。
こんなことで苛立ってはいけない。いや、良いんですよ。これは本来、お詫びの品として買ってきたんですから。良いんですよ……。
「テーマとか、ジャンルとか、その辺りはどうすればいい?」
「ん、うーん。自由、って言うと逆に大変だよね」
シャーペンを取り出す僕を一瞥してから、水瀬は眼鏡を押さえて考え込む。しばらく空中に視線を彷徨わせたのち、
「それじゃあ、『細田とわたしの馴れ初め』についてありのままを書いて。これが宿題」
「わかった」
僕は頷いてシャーペンの芯を出す。原稿用紙に向き合い——どう書き出すべきか考えて硬直する。
「あれ、えっと、今書いちゃうの? 宿題って……」
悩む。全く筆が動かない。
彼女との馴れ初めとはいえ、自分のことを書いたことなんて無かった。自分など、主人公に値しないからだ。
「まあ、いっか。頑張ってくれたまえ」
何を書けばいいのか、どう書き出せばいいのか。そもそも、自分はどうして文章を書こうとしているのか——
漫画をこき下ろされて、絵が描けなくなった。ペイントソフトを開くことすら怖くなった。
それでも、書きたい。
それが逃避の果てだったとしても。
文字でも、絵でも、関係ない。何か、物語を作らないと心が落ち着かない。もはや呪いだ。
けれど、ここで諦めたら一生後悔する。きっと来世まで背負うことになる。
物語を紡ぐことは怖い。けれど、それを諦めて、呪われたまま一生を逃げ続けたくはない。
既に僕は、漫画から逃げてきた。行き着いたのは文章。これ以上、逃げることは出来ない。この人生で全てを断ち切れ。
最低の書き出しかもしれない。本当に怖い。目の前の水瀬に何と言われるか、たった一人からの感想を考えただけで手が震える。それでも——
僕は漫画家を目指していた。しかし、それができないから小説を書いている。
僕は、小説家を目指している。
お疲れ様です。これにて第一章は完結です。
第二章もよろしくお願いします。




