第一章15 師弟
時刻は六時過ぎ。水瀬が階段を登り切ってから、僕も後ろに続いて部屋に入った。
押し入れから氾濫していたコスプレ衣装の類いは綺麗に仕舞われ、昨日よりも広い空間のように感じる。
ちゃぶ台の上では限界寸前のノートパソコンが熱を放ち、微糖コーヒーの缶と店長が修正した原稿が散乱していた。
座椅子のクッションは完全に潰れて、よほど長時間座っていたのだろうと窺える。
「よっこいせ……」
面倒くさそうに空き缶を拾う音、原稿をトントンと揃える音——Tシャツ一枚の後ろ姿に、おいそれと「手伝おうか」とは言えなかった。
「黙っていられると……その、気まずいから。何か喋ってよ」
こちらを見ることなく、背中越しに水瀬は言う。テキパキと原稿を片し、パソコンを閉じて、彼女は座椅子を顎で示した。座れ、ということだろう。
「えっと、急に押しかけてごめん」
小さく頭を下げて指定された場所に座る。ほんのりと背に熱が伝わってきた。
一方の水瀬は、イケメンの抱き枕を押し入れから引っこ抜いて、僕の正面に座った。
「……うん、大丈夫。昨日の今日でバイトに顔出せる根性があるとは思わなかったけど——」
そう言って、水瀬は僕の手元で音を鳴らすビニール袋を覗き込む。
「それは、姉が言ってたお菓子かい?」
「うん。あの、つまらない物ですが……」
謝罪の品とはいえど、自分から渡すのは気恥ずかしいところがあったので、水瀬の方から気付いてくれて有り難かった。
自分の野菜ジュースを取って、水瀬へビニール袋を差し出す。
「これはこれは、わざわざどーもです」
ほうほう、と頷きながら水瀬はチョコとポテチとコーラを取り出す。彼女の顔が見れなかった。
いくらなんでも幼稚な味覚で選びすぎたろうか。恐る恐る視線を上げると——
「コーラ、温くなってるじゃん……」
彼女は苦笑いしていた。けれど、すぐに満足そうな顔をしてチョコの銀紙を破いていく。
「執筆のあとの糖分補給にチョコは最高だからね。嬉しいよ」
「それなら、よかった」
「細田も、食べる?」
眼鏡を直し、水瀬はチョコを半分に割って片方を差し出してきた。
謝罪の品とは受け取っても良いものなのか。しかし、受け取らなかったら失礼に当たると聞いたことがあるような気がしないような気がしなくもない。
「いただきます」
結果、受け取った。
「クランキーチョコとは判ってる。サクサクは最高……」
美味しそうに彼女はチョコを頬張る。その間、水瀬は何度も眼鏡を直していた。
食べるのは流石に遠慮した方が良いかとも思ったが……昼食はおにぎりだけ、空腹には勝てなかった。
——水瀬は、怒ってはいないのだろうか。
チョコを食べながら、やはり、そんなことを思う。
いつも通り飄々と振る舞ってくれてはいるけれど、心のどこかで、気を遣わせてしまっているのではないか。悲しませているのではないか。
ふと、水瀬の表情を窺おうと視線を上げると——
「せっかくだしコーラ飲むか。コップに氷入れてくる。ちょい待ち」
と、視線を合わせることもなく出ていってしまった。
しかし、ほんの一瞬、立ち上がる瞬間に見えた彼女の横顔は——泣きだしそうだった。
こんな時どうすればいいのか。最良の手を打たなくてはならない。彼女が泣きそうな理由はありすぎて判らない。
加害者と被害者の立場も、いつの間にか入れ替わっている。僕が傷つけた側で、水瀬は傷つけられた側。
逃避の果てとはいえ、お前は物書きの端くれだろうが。
彼女の心にこれ以上傷をつけないための、包帯みたいな言葉くらい見つけ出してみせろ。
荒っぽい言葉じゃダメだ。ずっと他人と上手く関われなかった。こんな時、どんな言葉を口に出せば良いのか判らない。
けれど、今こそ美しい言葉を探し出せ。探し出して吐き出してみせろ。
トゲの立たない言葉、優しい言葉、傷つけられるたびに俺がかけて欲しかった言葉——
綾織さんみたいに無邪気でもいい。どんなに長くなってもいい。店長みたいに校閲を繰り返して、推敲に推敲を重ねて——
「水瀬!」
僕は、水瀬の手を掴んだ。
「昨日は、ごめん」
これ以上の言葉はなかった。
彼女は一歩踏み出した姿勢のままに動かない。掴んだ細い手首から、ひんやりと熱の伝わる音だけが聴こえてきそうだった。
——長い、長い沈黙。
耐えきれず、僕は口を開く。
「俺は、八つ当たりする先を見つけただけ。あんなの、ただの癇癪だ」
ある種の神格化。才能も、努力も、同じ人間だと思えなかった。
同じ尺度でなど測れない。報われるまで努力し続けたことなど無いからだ。
彼女に自分と同じ心があることなど棚に上げて、僕は怒り狂った。
「絶対に傷つきそうにない強い人間、天才に——嫉妬したんだ」
作家、彩月潤に——彼女に降りかかる言葉は、きっと称賛だけじゃなかったはずだ。僕がインターネットで経験した、何十倍もの罵詈雑言を浴びてきたのだろう。
水瀬は僕が思う何十倍も強く、天才であるのかもしれない。投げつけられる醜い言葉も、全て飲み干してきたのかもしれない。
「でも——」
彩月潤という神格化された作家だけが一人歩きして、僕はその一面だけを見ていたけれど、
「お前は人間だった」
それでも、水瀬は同い年の少女だ。
ただ一人の、僕の隣席の女子高生にすぎないのである。
だから彼女は、僕を、孤独な似たもの『同士』と呼んだのだ。
「——気持ちは、わかるよ」
振り返らないままに、水瀬は言った。
「細田には、わたしが物凄く遠い存在か何かに見えたんだろう。その気持ちはわかるよ」
彼女はあくまで振り返らないままに、顔を見せないままにそう言った。「だから」と加えて、
「泣かせんなよ」
彼女はようやく振り返った。
その目は真っ赤になって、髪は涙で頬に引っ付いていた。圧倒的に低い身長から、水瀬は僕を睨む。
「ティッシュ!」
叫ぶ水瀬に気圧されて、反射的に数歩後退りした。そして、すぐにちゃぶ台の上のティッシュを数枚差し出す。
「箱ごと寄越せ! 足りるか!」
「は、はい……すみません」
泣いてる美少女に言われるまでティッシュのひとつも差し出せないなんて、日本の義務教育はどうなってんだよ——と水瀬は鼻をかみながら言う。
泣き顔を見られたくないからと、僕は背面にゴミ箱を構えて数分。
「もういいぞ。もう怒ってもないし、泣いてもないから」
彼女は僕の腕をぽんぽん叩いた。
あっちー、とTシャツの襟を摘んで風を送りながら、水瀬はちゃぶ台の向こうに座る。
「まあ、座れ」
そう言って、水瀬は温いコーラを開ける。ぐびぐびっと一気飲みする彼女の前に、僕も座った。
水瀬は咳払いして厳かに何かを言い出そうとする。どんな言葉を投げつけられるのか判らない。けれど、
「お前に小説の書き方を教えてやる」
彼女は悪戯っぽく、しかしにっこりと笑ってコーラを差し出した。
一度、傷つけた。僕は彼女を傷つけた。
それでも、彼女はこんな僕を受け入れてくれた。
——何故か、弟子にしてくれたのである。




