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第一章14 明日、仮病で休みます

 翌日、水瀬は宣言通り学校を欠席した。


 相も変わらず濡れ雑巾のような臭いの教室の中、僕はヘッドホンで周囲の空気を断絶して、やはりヘドロのように机に突っ伏していた。


 家族にすら、あんなにも声を荒げたことはなかったのに。あそこまで自分を狂わせたのは何なのか——


 何周も自問自答したフリを繰り返してはいるが、答えは既に出ていた。

 作家、彩月潤——水瀬に対する嫉妬と劣等感だろう。


 逃避の果てに行き着いた小説家、はるかに遠く雲の上だと思っていた人間は、隣の席の少女だった。

 これだけなら、いかにもライトノベルの主人公らしい状況である。文章の上のキャラクターみたいだ。

 

 けれど、僕の状況は一昨日から何も変わっていない。

 綾織さんに挨拶ひとつできないまま机に突っ伏して、隣には水瀬がいないだけ。一昨日と何も変わっていない。

 

 むしろ、悪魔のような女がいなくなって清々したはずだ。それなのに、


「この気もちはなんなんだ……」


 谷川俊太郎の詩のようなことを思った。

 水瀬という大砲に風穴を開けられて、毒気を抜かれたとでもいうのか。


 このもやが、嫉妬と劣等感だと誰かが定義してくれればいい。


 しかし、その感情は、昨日の夜に水瀬へ向けて癇癪かんしゃくのような形で吐き出してしまった。すっきりと洗い流されている。


 新たに感情が萌芽したのか。はたまた何か大切な感情を奪われたのか。


 水瀬の家に置いてきたのは、おそらく自転車ばかりではない気がしてならない。

 じゃあ、この気持ちは何なのか。内側へ向いた苛立ちであることは確からしい。


 水瀬は宣言通り学校に来そうにないけれど、予鈴はまだ鳴っていない。やかましい足音ともに教室に飛び込んできてはくれないか。


 そうしたら、軽口を叩き合う中途で何気なく謝りたい。

 彼女に頭を下げることが謝罪以上の意味を持ちそうだから、冗談めかして「ごめん」と言いたい。そうでもなければ、彼女に合わせる顔がない。


 だが、これじゃあ僕がもう一度水瀬と顔を合わせたいようじゃないか。

 きっと違う。僕は、単純に悪いことをしたと思っているのだ。罪悪感にさいなまれたままバイトしたくないだけだ。


 だから、ちゃんと謝罪がしたい。ただ、それだけのこと。けれども、彼女に謝罪するのは——作家、彩月潤に頭を下げるのは、気恥ずかしい。


 ろくに人と関わってこなかったことが悔やまれる。

 こんな時、人付き合いのプロ——例えば、綾織さんならどうするのだろう。


 そんなことを突っ伏したまま悩み続けて、ふと顔を上げれば、そこには綾織さんがいた。

 

「昼休み、終わりそうだけど……細田君、大丈夫?」


 僕の前の席に座り、彼女は心配そうに身を乗り出す。今日は髪をポニーテールにしていた。「朝からその調子だけど」と付け加える。


「もし、もしだけど、体調悪いなら保健室いく?」


 綾織さんが連れていってくれるのだろうか。

 頷きたい。昨日の雨で風邪をひいたフリをしたい。渾身の力で病人のように弱々しく頷きたい。けれど——


「いや、大丈夫」


 そう言って、僕はリュックの中の教科書を全て机に入れる。反対に水瀬の傘と携帯と財布だけを戻した。

 およそ病人とは思えない、我ながら機敏な動きだった。


「具合悪いから、早退するね」

「え、ええ⁉︎」

「心配してくれてありがとう。それじゃ」

「ちょ、ちょっと待って、ええ……⁉︎」


 高校二年生、新学期が始まって一ヶ月も経っていない四月の終わり。

 僕は、早くも学校をサボった。



 ○



 習慣的に駐輪場まで歩いて、そういえば自転車は置いてきたんだったと気付いて虚しくなる。

 昨日に引き続き、本来であれば自転車で走らねばならない距離を学校指定のローファーで走り続ける。


 ——お詫びの品とか、必要なのだろうか。

 そんなことを思ってコンビニに立ち寄った。謝罪に行くとはいえど、女性への贈り物など買ったことがなかったから一時間以上迷っていたかもしれない。


 最終的に、チョコレートとポテトチップス、コーラを買った。昼食を摂っていなかったから、自分のために野菜ジュースとおにぎりも買った。


 ほとんど空になった財布を仕舞って、古書堂へと急ぐ。水溜りを踏んで泥が跳ね、段々と潮の匂いが近づいてくる。

 店先には、昨日置いていった僕の自転車が停められたままだった。丁寧にビニールのカバーがかけられている。


 扉を開くと、昨日と同じ番人のような姿勢の店長が煙草に火を着けるところだった。


「いらっしゃいませ……って、お前か。えっと、細田だっけ? 早くない」

「午前授業です」

「嘘つけ」

「嘘です」


 だろうな、と店長は煙を吐く。

 相変わらずと言っては失礼だが、店の中は閑散としていた。


「午前授業だったら、わざわざサボったりしないだろう」

「僕がサボったって分かるんですか?」

「いや、なぎの話だよ。明日、仮病で休みますって部屋の前に張り紙してあった」


 言い終えてから、店長はカウンターの原稿用紙に目を落とす。手書き……ではない。ワープロから印刷されたものだ。


「誤字。表記揺れ……要検討。誤字。これはトル」


 左手の二本指で煙草を挟み、右手で印刷された文書にボソボソと呟きながら赤線を引いていく。


「サボった少年を叱って学校へ送り返すような道徳は持ち合わせてないから、適当に仕事開始してくれていいよ」

「あ、はい。でも——」


 投げ渡されるエプロンを受け取りながら僕は言う。


「これは今、何をしてるんですか?」

校閲こうえつ。マイシスターの文章を編集様に見せられるよう直してんの」

「ほほう……」

「興味があるなら暇なとき教えてやるから、さっさと行け。美人の作業風景眺めてるだけで時給出すと思うなよ。まずは掃除だけでいいよ」


 しっし、と店長は羽虫を払うような動作をした。

 僕はぺこぺこと何度も会釈して本棚の影に隠れるようにして、店長の前から消えた。やはり怖い。


 それからは新しく入荷したシリーズものの最新刊を既刊の隣に並べたり、店の掃除が主な仕事だった。店長は口調こそ荒いけれど、仕事について質問すればしっかりと教えてくれた。


 バイト初日にも関わらず、四時間ほど仕事に打ち込んだのは、僕が馬鹿真面目だったからではない。

 正直に言うのなら、なかなか水瀬の部屋へ行く決心がつかなかったのである。けれど——


「姉さまー、お腹すいたー」


 と、水瀬の方から階段を降りて入ってきた。

 例の如く、だぼっとした(カフェインと謎のプリントが施されている)Tシャツ一枚で眠そうに目を擦っている。


「久々にトンカツ食いてー……」


 気怠げに水瀬は伸びをする。今の今までずっと文章を書いていたのだろうか。


「あのさ、なぎ。店に出てくる時はマトモな格好してくれよ」

「えー……人来ないじゃん。むしろ、Tシャツ一枚のJKが接客してくれるお店の方が人気出るんじゃない?」

「それは、ダメだ。エプロンくらいしてくれ」


 へいへーいと適当な返事をする水瀬。ようやく僕と目が合い、僕の存在に気付いたようだ。

 彼女は少し気まずそうに頭を下げた。僕もならって頭を下げる。


「お見合いかよ」


 店長が鼻で笑って煙を吐く。Tシャツの前を押さえながら水瀬は無言で店長の背中を蹴った。


「細田が、なぎに言いたいことあるんだってよ」

「え、僕はそんなこと一言も——」

「昨日の今日でお菓子持って、学校サボって来たらそれくらい察するわ。上で話しておいで、私は寝る」


 それだけを言い残して店長はカウンターに倒れる。ほとんど頭突きのような勢いだった。


「ほんとなの?」


 声のトーンを落とした水瀬が言う。学校をサボったのは本当なのか、わたしに何か言いたいことがあるのか? おそらくそんな問いだろう。僕は頷いた。


「……どうぞ」


 水瀬はきびすを返して障子の奥へと消えていった。僕も足を引きずるように後へ続く。

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