第一章13 小説家になろうw
彩月潤——とは、ハイテンポかつ重厚な文体でのサスペンスやミステリー、青春群像劇を得意とするインターネット出身の作家である。
郷愁の滲む描写から織りなされるドラマチックな展開、などなど美点はいくらでも挙げられるが——
彩月文学最大の特徴として、一度掴んだら離さない『読ませる文章』を駆使し、どの作品にもボーイズラブ要素を無理なくぶち込むという得体の知れない高等技術が挙げられる。
それゆえに、普段からBLを耽読しない層でも、読んでしまうのである。読まされてしまうのである。
そこから『腐の伝道師』『市民権を得た天才的公然猥褻』『BL開眼させるマン』などと評価される。
メディア露出が極端に少ないことから、都会の大学生ではないかと噂されていた。かくいう僕も、そうだと信じて疑わなかった。
——しかし、どうも彩月潤という作家は『回鍋肉』Tシャツ一枚を身に纏った、黒髪眼鏡の変態であるらしい。
「嘘つけ」
率直な感想だ。仁王立ちする水瀬は首を傾げた。
僕の一ヶ月の小遣いが、多少なりとも彼女の懐に収まっている事実を認めたくなかった。
「うーん、じゃあ。そうだな……」
しばらく唸り、僕の手元の文庫を見た水瀬は、ちゃぶ台の上からボールペンを手に取る。
「それ、表紙開いて」
「え、あ、はい」
咄嗟に間抜けな声が出た。言われた通り文庫本のページを開く。
『ご購入ありがとうございますっ! 彩月潤』とサインペンで書かれていた。
「このちっちゃい『つ』と『!』を付けておくのがポイントなんだよねー」
彼女はちゃぶ台の前にあぐらをかき、原稿用紙の裏にさらさらとサインして僕に差し出す。
筆記用具が違うだけで、文庫のサインとぴったり同じ——
「本物だ……」
「いかにも、彩月です。よろしくどーぞ」
握手を求める水瀬、僕もつられて手を差し出す。
「ちょき」
そこには和平の握手とは正反対、勝者と敗者、チョキとパーの手があった。やっぱりこいつ変人だ。
「キレて木刀で暴れ回るかと思ったけど、意外と大人だね」
「やかましい」
彩月先生、と勝手に脳内で抱いていた人間は存在しないことがわかった。目の前にいるのは、水瀬凪という変態だけだった。
ファンです、とは素直に言うタイミングを見失った。もう絶対、口に出さないようにしよう。
しかし、どうにも不思議な感覚だ。水瀬と僕は同級生であり、ついさっきまで加害者と被害者だった。今では、作家とその支持者——
そして、思い出す。
「そういえば、さっき言ってた『同志』って……」
「んあ、そうだそのこと」
水瀬はサインした原稿用紙を放って、先ほどパンツ木刀で吹っ飛ばした僕のラノベまで四つん這いで移動する。
付箋の頭が無数に飛び出し、読み皺だらけのライトノベル——彼女がぱらぱらとページを捲れば、傍線と数多の書き込みが覗く。
マズい、非常にマズい。ただその言葉だけが溢れた。何を言われるかは判っている。それ以上、喋らないでくれ——
「細田って多分さ、小説家になりたいんでしょ?」
ダイナマイト。何か、頭の中の何かが消し飛ばされたような気がする。
すっかりと、ほとんど完全に見抜かれた。
綾織さんの言葉が落雷なら——水瀬の言葉は全てを消し飛ばす、大砲だ。
そうして、ぽっかりと空けられた風穴から、どす黒い感情が流れ出ようとしているのが分かる。
水瀬は小説家である。それ以前に、僕の同級生だ。
同い年の人間が、同じ夢でここまで成功して、自分は一体何をしているのか。その劣等感は、皮膚の内側を這う蟲みたいだ。
しかし、僕が抱くであろう劣等感すらも見抜かれているのだ。『多分』と逃げ道まで用意してくれている。
——小説家じゃなくて、批評家になりたい。
とでも言えば逃げられるか。
でも、逃げることに何の意味がある?
あるいは、彼女は試そうとしているのかもしれない。現役の小説家の前で、同級生の女の子の前で——小説家になりたいと言えるのか。
逃げることなく、立ち向かえるのか。
僕は一度、諦めている。何度も、何度も心を折られて逃げ出している。
中学生の頃、大好きな作家に憧れてスケッチブックに漫画を描いた。コンビニでスキャンして、インターネットに投稿した。
どうなったか——酷評である。
見たことある展開、主人公のセリフが寒い、パクリ乙、誰かが既に描いた物語をもう一度なぞることに意味はあるのでしょうか、ヒロインが可愛くない、金を出す価値はない、いい加減しつこい、そもそも絵が下手、需要をわかってない、ストーリーにするよりキャラ単体で描いたら?、ただのイキリキッズで草、ここのコメントうるさいから漫画ごと消してほしい、がんばw——
最初はそんなものだろうと思った。ここでくたばってたまるかと、静かに描き続けた。
何が読まれるのか、何なら人気なのか、どうすれば読んでくれるのか。ひたすらに考えた。
景気の悪い世の中だから底抜けに明るい話の方が良いに決まってる。女の子は可愛くあざとく描こう。ストレス社会だから、悪役を袋叩きにできるようなスカッとする構成の方が良いだろう。
頑張った、頑張ったつもりだった。自分の描きたい物語から多少遠かろうと、描いた。
まずは毎日描き続けよう、とどんな指南書にも書かれていた。そんなことは解っている。それが一番難しいことも解っている。だから描いた。
これがいつか自分の職業になるのなら、我慢することだって必要だと割り切った。とにかく描いた。
——結果が伴わないなら、努力したことにならない。
そんな、どこかの偉人の言葉に全ては終止した。
自分一人で夢を追ってきた。孤独に甘んじていた。それを何処か美しいことだと思っていた。
けれども思い返せば、僕は寂しさから意識的に目を背けていたのだろう。
『君の、どうしだよ』
似たもの同士、動詞、導師、どれか分からず咄嗟に『同志』と脳内変換した僕は、本当は仲間が欲しかったのだ。
顔を上げる。水瀬が首を傾げる。
自分の性癖に忠実——すなわち、自分の書きたいものを書きたいように書いて成立させている。苦労など知らないのだろう。
つまるところ彼女は天才。俺の——敵だ。
「そうだよ」
頷きながら、ようやく僕は水瀬の言葉に答えた。
「俺は小説家を目指してる」
眼鏡の奥、水瀬の黒目を見据えて言った。水瀬は相変わらず眠そうな目をしている。
「うん、そうだろうね。あのラノベの有様を見て気付かない奴はボンクラだよ」
お前に何が分かる?
僕がこれまでどう生きてきたか、何を考えて書き続けてきたのか。どれだけ苦労を重ねてきたのか、それら全部が報われない煩悶も——
「お前に、何が分かるんだ」
同志、似たもの同士、それとも私が導師になってやろうとでも言うのか。ふざけるな。余計なお世話だ。
「あんたは天才だろうが。世の中みんなそう言ってる」
天才作家、美しい文章、独自の世界観……いつかこんな評価を貰えるかもしれない、とお前の作品に寄せられた賞賛に自分を重ねてきた。
僕が欲しいもの、欲しかったものは全部あんたの手の中にあるだろうが。
「あのラノベを見て気付かない奴はボンクラだって? じゃあ、その持ち主は何なんだ!」
頑張ったら頑張った分だけ評価されるのだって才能だ。だから、
「良かったな、水瀬。たまたま才能があって」
情けない。
唾を飛ばす口とは別に、僕の脳味噌は冷たく乾いていた。
彼女にこんな言葉をぶつけたところで何になる? 漫画の時と同じだ。肯定してくれた綾織さんを裏切って、きっと傷つけた。
今回も同じだ。彼女を、肯定してくれようとした水瀬を傷つけたに違いない。
「…………」
水瀬は僕の正面であぐらをかいて頬杖をつき、微動だにしない。ただ、黙って僕の話に耳を傾けているだけだ。
殴られても、文句が言えないようなことばかり口に出した。
「気持ちはわかるよ、という言葉のどれだけ安っぽいことか」
やがて、ため息のような声で水瀬は言った。
「こういうとき、なんて言うべきか。どんな言葉をかけるべきか、色々考えてはみたんだけど……難しいね」
眼鏡を直し、気怠そうに「うーん」と伸びをする。立ち上がり、ふくらはぎに残った畳の跡を摩る。
僕の持つ木刀から水着の下を取り——履いた。
「とりあえず、今日はもう遅いから。帰りなよ。勝手に自転車乗って帰ってごめんね」
軽く屈伸してから僕に背を向け、障子扉を開く。横に退いて道を示す彼女の顔には——微笑みがあった。
いつものような悪戯っぽい笑い方ではなく、無理矢理貼り付けたような乾いた笑みだった。
「バイトは、採用だよ。好きな時に来ればいい。綾織さんのためだもんな。姉……店長にはわたしから言っておくから」
「…………」
僕は頷いた。
綾織さんの額に触れたときよりも深く会釈して、彼女の隣を通り過ぎる。階段を降りて、カウンターに突っ伏した店長の横を素通り。
ゆっくりと扉を開けば、雨の音が段々と大きくなって湿った匂いが強くなる。
僕を見送るのは、ドアベルの音だけだった。
自転車もライトノベルも、全部が手元に戻ってきた。僕がこの場所で果たすべき目標は全て達成した。
それでも、何か巨大なものを奪われたままのような気がする。
雨粒の跳ねるアスファルトには、障子によって格子状に切り分けられた灯りが落ちている。ガラガラと頭上で障子が開き——
「わたしは明日、仮病で休むから。傘持っていっていいよ」
二階から水瀬は呟く。僕には水瀬が見えず、水瀬からも僕は見えない。あくまで水瀬は、ただ外に向かって呟いただけなのだ。
言われるまでもなく、そうさせてもらう。
しかし、自転車に乗りながら傘を差すのは道路交通法に抵触する。
当たり前のことを、当たり前のように僕は思った。わざとらしく自転車のスタンドを下ろして見せる。雨の中を自転車で走る人間なんていない。そりゃそうだ。
馬鹿は、僕の方だった。




