第一章12 どうしだよ
綾織さんとの交際費を稼ぐためには、働かねばならない。ここまでは良い。問題ない。
そのバイト先は海沿いのひっそりとした古本屋で、同級生がやってくる心配もない。ここまでは完璧である。
問題はこの先、この本屋は水瀬の自宅だ。ここで働こうとすれば、嫌でも彼女と顔を合わせなくてはならない。これが酷い。
水瀬を無視することも出来なくはないのだろうが——
「あのさ、いいかげん名前で呼んだっていいだろう」
「駄目だ」
「おやおや良いのかい。我、上司ぞ? ここで細田を不採用にすることだってできるんだよ?」
「もう呼んでるじゃん……」
「そりゃ、もちろん。君に拒否権はない。我、上司ぞ?」
向こうから絡んでくるのである。
得意げに鼻を鳴らし、水瀬は纏められた同人誌の山を本棚へと戻し始めた。
僕は子供ではない。職権を振りかざして理不尽な要求をされているわけでもない。名前を呼び捨てにされるくらい何でもないだろう。
それでも、変人と喋り続けるのはストレス以外の何でもない。
「やっぱりバイト先、変えようかな……」
「おお、それなら良いバイト先知ってるよ」
「え、ほんとに?」
「うん。うちを出て左の道を左折して、その先の十字路を左折、T字路に当たるから、そこを左折して——一番最初の交差点を左折する」
言われるがまま、手のひらに指先で地図をイメージする。綺麗な長方形が描けた。
「古書堂を一周しただけじゃないか」
「そう、おかえり」
水瀬はうんうん頷く。
もう付き合ってはいられない。下手に変人の神経を逆撫でするのは愚行。流れに身を任せるべきだ。
「わかったわかった。もう何でもいいから、早く僕の小説を返せ。中は見てないだろうな?」
「ばかに見えて意外と素直だね。えっと、あのえちえちな小説なら——」
部屋の片隅まで怠そうに四つん這いで移動し、「ここだよ」と放られたままの通学リュックの下から文庫本を取り出した。
水瀬からラノベを受け取る。ようやく返ってきた。これで一安心だ——いや、ちょっと待て。
「本棚に仕舞ったんじゃないのか」
「いや、そんなこと言ってないよ」
言っていました。二千字くらい前に言っていました。この人は嘘つきです。
「ともあれ、片付けを手伝ってくれてありがとう。バイトは採用だよ」
「殺すぞ」
「お、やるか。わたしの詠春拳を見せてやろうか」
押し入れのコスプレ衣装に手を突っ込み、水瀬は木刀を引き抜く。今度は衣装の雪崩が起きた。
アニメのキャラクターから軍服、うちの高校の学ラン、『功夫百年』とプリントされたパーカー——私服まで流れ落ちていく。
「素手で戦う気ゼロじゃん。ていうか、片付けたそばから散らかすな」
「姉みたいなこと言うんだな……」
木刀の先にコスプレ用の水着を引っ掛けて「ほれほれ」とくるくる回す。
「な、何ちゅうものを見せるんだ! 変態め」
「隙あり!」
水瀬の叫び。僕の膝をパンツ木刀が打つ。崩れる姿勢、僕の手から溢れたラノベをパンツが攫った。
「いってえ——」
「ここで問題です」
「は⁉︎」
「これはコスプレ衣装の山から出てきました。実際に履いていたとしたら、どうする?」
沈黙。
どんな言葉を口にしても、やはりを墓穴を掘るだけのような気がする。ここは黙るのが正解だろう。
「なるほど、黙ったか。賢い選択だね。それじゃ、正解は……」
「正解は?」
「興味津々じゃないか。変態め」
きゃー、と水瀬は己の体の前で腕を交差する。やがて木刀の先に引っ掛けたパンツを遠心力で回し、押し入れへ木刀ごと放り投げた。
「まあ、あんなもん、わたしは履けないね」
「わたしは?」
下で爆睡する店長の所有物である可能性が浮上してきた。
「興味津々じゃないか。変態め。資料に決まってるだろうが」
「何の資料だよ。変態が」
痛む膝をいたわりながら僕は立ち上がる。これ以上殴られないように、僕はパンツごと木刀を没収した。
「——まだ気付かないのか? わたしから答えを言うの、ちょっと恥ずかしいというか、勇気がいるんだけど」
咄嗟に手元の木刀の先を見る。多分、これの所有者の話ではないだろう。だから、
「何が」
と口に出す。水瀬は答えを視線と顎で示した。
彼女の視線に倣って、背後へと振り返る。さっき指示されて僕が積んだ文庫本——『彩月潤作品』があった。
心を無にして片付けをしていたから気付かなかったけれど、上から下まで同じ作者の同じ巻だ。
熱狂的なファンだとしても、少し不自然である。
「その作家、知ってる?」
ナメてるのか。駅で『文庫化』の広告も見た。何より、最新作まで全てハードカバーで買っている。
「知ってるけど、この変態は何が言いたいんだ……」
「おい、口に出てるぞ」
水瀬を無視して、僕は積まれた文庫を手に取る。
そして、ようやく気付いた。
この文庫は、駅で見た広告と同じタイトル——『待望の第五作』と銘打たれた作品だった。普通なら流通前、まだ待望されているはずの文庫本だ。
「なんで、お前がこれを……?」
「もうほとんど答えは出ているだろ」
背後で水瀬が答える。その通りだった。ほとんど結末は解っていた——
「わたしのペンネームは彩月潤」
それでも、彼女は敢えて言葉にした。
「君の、どうしだよ」




