第一章10 お宅訪問
爆ぜる細田の変態性
「先生に押し付けられちゃったのに最後まで付き合ってくれてありがとう。私、もう行くね」
例の如く、早口で捲し立てて綾織さんはさっさと去ってしまった。
あわよくば連絡先を交換できないかとも思ったが、流石にそこまでの勇気はない。僕の手元に残ったのは子供っぽい色の折り畳み傘だけだった。
「っていうか……」
それよりも、綾織さんが僕の描いた漫画のことを憶えているとは思わなかった。
今日ほどではないけれど、雨の日のことだった。だから、彼女は思い出したのかもしれない。
教室のすみで自由帳に描いた漫画を、やんちゃな男子に見つかって、馬鹿にされた。恥ずかしい奴だと言われた。
けれど、ただ一人、僕の前で両手を広げて壁になってくれた少年がいた。それが、綾織さんだった。
『鬼ごっこだって、一人でやったら恥ずかしいでしょうが』
外で遊べない男子たちを前に、綾織さんは言った。こんな内容だった気がする。
今とは違ってTシャツに短パン、短く切り揃えられた髪も相まってずっと男子だと思っていた。
それからしばらく雨の日を待ち侘びた。彼女が漫画を読みにきてくれる。ただそれだけで、描き続けることができた。
雨はそう頻繁に降らなくなったけれど、それでも描き続けた。
——辞めました。
ヒーローに救われた人間が、同じくヒーローになれるわけじゃない。
瘡蓋をいじられたような嫌悪感を、彼女に抱いてしまったことが情けなくて仕方ない。
頭では解っていても、彼女に対して若干の煩わしさを覚えた。胸糞悪い。
漫画を、自分を肯定してもらえたことで彼女を好きになって——傷跡を撫でられたことによって彼女が疎ましい。
創作なんて、クソだ。
創作は何も生み出さない。時間も、心も、奪っていくだけだ。
どんな人が自分の作品を読んでくれるのか、ワクワクしながら描いて、完成させて気づいた——誰も、読んじゃくれない。
人気の作品を丸ごと真似する人間の心理の方が理解できる。そこまで自分を追い込んで一体何になるのか。小学生の頃の僕は、今の僕に土下座すべきだ。
俺は、漫画を描かなくなった。
今は深く語るべきではない。なぜなら、今書いているこの文章はのちに水瀬に読まれるからである。
そして何より——僕自身が、思い出したくもないのである。
○
人気のない昇降口、雨。
昨日買ったビニール傘が無くなっていた。
水の溜まった傘立てには、一本も残っていなかった。みんな帰ったのだ。
どこかの誰かは濡れずに済んだ。そう考えれば怒りも鎮まるだろう。いや、そうでもない。
季節は春だが、日は没して吹き付けるのは海風。そこそこ寒い。
まっすぐ家に帰りたいところではあった。が、綾織さんとの居残りによって予定以上に学校を出るのが遅れた。
目的地であるバイト先、『古書堂』までは三キロ弱。己の長距離走のタイムと照らし合わせれば、帰宅している暇は無かった。
湿ったアスファルトの匂いの中、本来であれば自転車で移動する距離を全力疾走していた。意味がわからない。
水瀬に強奪された自転車があれば、また結末は違ったのかもしれない。
しかし、その水瀬が忘れていった折り畳み傘のおかげで、ほとんど濡れずに済んだ。
子供っぽい水色で、小さい傘だったけれど、助かったのは事実だ。
駅の構内を突っ切って、反対の出口から出れば近い。ポスターや電光掲示板に映る広告——
『彩月潤、第五作。待望の文庫化!』
そんな情報も、幸せそうに歩く老夫婦も、目に映るもの全てが妬ましい——
そんなことを考えているうちに潮の匂いは近付き、目的地である古書堂は眼前まで迫っていた。
全国展開しているような大々的で目立つ書店ではないが、海沿いの通りにひっそりと佇む雰囲気が趣味に合った。
別に、教室の隅っこで本を読む自分の存在と重なったわけではない。シンパシーなぞ感じていない。
全てがどことなく気怠そうに色褪せて、深く潮風の染み込んでいそうなレトロ建築だ。閉じたガラスの引き戸からはセピア色の光が溢れ、店の前にはブリキのじょうろと招き猫。
壁には映画のポスターや張り紙が、今にも剥がれそうな黄ばんだセロテープで貼られている。
そして、店の雰囲気とはどうも合っていない現代的なデザインのママチャリが停められていた——
「は……?」
僕の自転車にそっくりだった。
年季を感じる所々の錆びが、通学に際して新しい自転車を買い与えて貰えなかった哀れな学生の姿を物語っている。いや、やかましい。
やはり僕の自転車だった。通学証明のシールも貼られたままだ。
「ということは……」
思わぬ再開に安堵したのも束の間、この自転車が手元を離れることになった元凶——水瀬がこの店の中にいるのは間違いない。
しかし、どことなく不自然である。
雨だからという理由で「自転車は家に置いてきた」と言っていた水瀬だったが、ここに停まっているということは一度帰宅して、わざわざ雨の中を自転車で移動したのか?
そうまでして訪れたこの書店に一体何がある?
謎の緊張と共に折り畳み傘の水気を飛ばし、招き猫の脇のじょうろへと差した。深く息を吸い、一気に引き戸を開く。
「うるせーな、建て付けが悪くなってるから優しく慎重にソフトかつデリケートにゆっくり開けろって書いてあんだろ。外の張り紙読めねえのか?」
冷たく気怠そうな声が早口でまくし立てる。僕の入店を歓迎してくれているのは、ドアベルの音だけだった。
無数の本棚の最奥から聞こえた声の主は、溜め息の代わりに煙草の煙を吐き出しながらこちらを見ている。
長いさらりとした黒髪に鋭い三白眼。大股を開いて荒々しく座る女性は、一応店員らしいエプロンをしてはいるが、店員というよりは用心棒や番人のような印象が強い。
「……す、すんません」
静かに両手で戸を閉めた。綾織さんを目の間にした時とは異色の緊張と、謎の既視感があった。
ずっとこちらを見ている番人に何度も会釈して、本棚の影へ隠れるように店内を移動する。
元来、本好きにとっては心地よいはずの埃やカビの匂いも、番人の威圧感と水瀬を探さなくてはならない焦燥に邪魔されて堪能している暇は無かった。
ビビりながらも獲物を追わねばならないカオスを携えたまま店内を二周して気付く。
水瀬がいない。そして、僕はバイトの面接をしに来たんだった。
ひとまず水瀬は後回しである。本当に店員なのか未だに疑わしいのに、あの柄の悪い女性に話しかけなくてはならない。嫌すぎる。
覚悟を決めて隠れるようにしていた本棚から出る。
まだこちらを見ていた。番人は鎧武者のような姿勢でどっしりと構え、正面を見据えたまま微動だにしない。
「あ、あの。バイト仮採用の者です……」
三白眼は爛々と輝いているが、傍に寄っても反応がない。一瞥もされないのは、僕の影が薄いわけではないはず。様子が変だ。
恐る恐る近づくと、灰皿に乗った煙草の半分以上が灰になっていた。吸わないで放置されていた証拠だ。まさか……
「あのー、もしもし」
「——え⁉︎ ああ、はい。いらっしゃい」
番人は目を開けたまま眠っていた。鋭かった三白眼は丸みを帯びてぱちくりと瞬き、しばらく周囲を見回したのちに、
「失礼失礼、いらっしゃいませ」
煙草の火を消して言い直した。それから気怠そうに首を回す。
「んー、起こしてくれてありがとう。ところで、時間を過ぎてもバイト仮採用のクソガキが来ないんだけど、こういう時お客さんならどうする?」
店員さんが両手を上に組んで伸びをすると、似合わない紺色のエプロンに胸の起伏が強く張った。
同一人物とは思えない穏やかな声で、しかし荒々しさを残したまま店員の女性は言った。
「……遅くなりました」
「お前かよ」
来たならもっと早く言えよ、と女性は新しい煙草に火をつけた。欠伸と共に煙を吐き出して、原稿用紙で散らかったカウンターの中を手で探る。
畳まずに丸められただけのエプロンを引っぱり出し、僕へと差し出した。
「レジ打ちは?」
「やったことないです」
「それじゃあ君には裏方を頼もう」
テキパキとしているのか適当なのか、これから上司になるであろう女性は名札と油性ペンを取り出し「名前は?」と机に向かったまま尋ねてきた。
電話した際に名乗ったような記憶があるけれど、つっこみ出したらキリがない。
「細田です。細いに田んぼの田です」
「言われなくてもそのくらい解るよ。確かに細田って雰囲気の見た目だな。私は水瀬、店長代理だ」
とてつもなく恐ろしい単語が脳味噌の奥でバウンドし、後回しにしようと放り投げた『水瀬』という名前が眉間に深く刺さった。ような気がした。
頭が真っ白になっていくのが解る。
怒りや焦り等々、様々な感情が生まれては新たに湧き上がる感情に押し退けられ、僕の脳は自己防衛のためにスリープモードへと至っていた。
今度は僕が目を開けたまま眠っているかのような状態で、茫然と差し出された名札を受け取る。
さぞ呆けた顔をしているのだろう。店長代理の我が上司は、初めて僕の目をまじまじと見つめて困惑していた。
「裏方を頼んだだけで、お前の脳味噌はキャパオーバーなのか。ほんとに働けるか……?」
もしもーし、と眼前を手刀が行ったり来たり。
「す、すんません」
「うん、リラックスしたまえ。店内全フロア喫煙可だから」
「いや、あの。まだ未成年……」
「冗談だよ、肩の力抜けただろ?」
そう言って、店長代理の水瀬さんは煙草の火を消した。
「とりあえず、担当を呼ぶから。そいつに掃除の仕方でも教わってくれ。それで気が利くようなら採用で。今日はもうお客さん来ないだろうし、私は寝る」
カウンター上の原稿用紙を肘で退かし、突っ伏して寝る場所を作りながら——
「なぎー!」
彼女は奥へと声を張り上げた。
しばらくの沈黙ののち、ドタドタと怒りを露わにした足音が響き——
「濡れたからお風呂入るって言ったでしょ!」
派手な音とともに障子が開いて、小柄な少女が現れた。
柔らかな石鹸の香りが満ち、ともに現れた少女の身体からはまだ少し湯気が立っている。
水気を多く含んで毛先は纏まり、時たま水滴が垂れそうに転がって、黒く艶めいていた。それを拭おうと顔に乗せたバスタオルは少女の小柄さも相まって、絨毯に潜る子供を連想させる。
内側から湧いてくるように潤った白い頬は湯船でよく温まったようで赤みが差し、額へと押し上げられた眼鏡は曇っている。
「回鍋肉」と謎のプリントがされたTシャツはなだらかな双丘を経てゆったりとウエストを隠して、膝上までを覆って細くしなやかな二本の曲線へと続く。
太ももから肌を伝う汗は、滝——というよりは、鍾乳石の上を粒で滑る清水と表現したい。
「あっ……」
「——げ。歳の近いバイトが入ってきやがる、とは聞いていたけど。まさか君だったとは……」
世界は狭いねえ、と水瀬はしみじみ呟いて顔を引っ込めた。猛スピードで閉まる障子の向こうで、階段を駆け上がっていく足音が聞こえる。
店内をいくら探しても見つからないわけだ。そもそも、雨だからと学校に乗ってきていない自転車が停まっている段階で気付くべきだった。
ここは、水瀬の自宅だったのだ。




