第一章9 言葉の綾(2)
「細田君が書いてた漫画——読んでみたい!」
無邪気な言葉だった。少し恥ずかしそうに、けれど満天の笑顔で綾織さんは言った。
「ずっと前のことだから、細田君は忘れてるかもしれないけど——」
彼女は夕日を背に受けているのに、色を感じなかった。
「小学校で同じクラスになった時、雨の日に見せてくれた漫画……」
美しかったはずの思い出だ。喜ばしいことじゃないか。それなのに。
なぜ、なぜ僕はこんな感情になっているんだ?
「あれ、すごい好きだったの。ずっともう一回読みたくて、めっちゃ絵上手だったじゃん」
内臓の奥、心臓の奥からどす黒い何かが溢れそうだ。心があるのかもしれない場所が、今ならよく分かる。
「細田君……?」
気持ち悪い。
「もう描いてないんです」
「え?」
辞めました——流石にそこまでは出なかった。
「僕は、もう漫画書いてないんです」
繰り返した。僕の視線は左下。俯いたわけじゃない。ただ、彼女の顔が見たくなかった。
「あっ……そ、そうだったんだね」
きっと彼女は全てを察したような表情をしている。やってしまった、と苦い顔しているに違いない。あくまで、優しいから。
「ごめん、ごめんね。変なこと言っちゃった」
俺と違って人付き合いが上手だから。
「いや、謝らないでください。すごい嬉しいから。でも、きっと多分、捨てちゃったから」
だから謝らないで、と僕は言った。綾織さんも頷いてくれた。
「えっと、それじゃ……」
彼女は必死に話題を考えながら箒を動かして、チリトリに塵を集めていく。それから僕の方に歩み寄って、僕が集めた塵も掃いてくれた。
「海沿いに本屋さん、あったよね!」
そこで何か選んでよ、今度いっしょに行こうよ——明るい声で綾織さんは言う。
バタ足で25m泳ぎ切ったときみたいに、先生の説教が終わった瞬間みたいに、教室に鮮やかな色が戻ってきた。
「うん、ぜひ。僕なんかで良ければ」
「細田君と本の話してたのに、他の人と出かけたらヘンでしょ」
「たしかに。それも、そうだね」
笑いかけてくれた彼女に、僕も顔を上げ笑って答えた。
お互いに箒を止めて随分と時間が経っていた。いいかげん、溜まったゴミを捨てようとチリトリを拾ってゴミ箱へ向かう。
教室はどんどん仄暗くなっていくけれど、そのままで良いと思った。蛍光灯の明かりを点けようとすることが不自然に思える。
背後からガタガタと音が聞こえる。綾織さんが机の整列を始めたようだ。
「ねね。早く手伝って」
「は、はい……!」
チリトリを細かく振って、急いでゴミを捨てる。弾かれるように振り向いて机の整列に取り掛かった。
力作業は野郎の仕事である。急いで机を並べ直していく。一列、二列と下を向いたまま黙々と並べ直す。
また沈黙が訪れそうなところで、
「そういえばさ——」
綾織さんが椅子を机に仕舞いながら、教室の反対側で声を上げた。綺麗な声がよく響く。
「けっきょく、昨日は駐輪場で何してたの?」
やべー、と声が漏れそうになった。まだ彼女の中で、僕は不審者だったのか。
どうにか誤魔化さなくてはならない。
「えっと、あれは水瀬が——」
「ミナセ?」
レスポンスが異常に速かった。
「水瀬って、凪ちゃんのこと?」
「ああ、えっと、そう」
「……ふーん」
綾織さんの声がわずかに低くなったような気がした。窓を背にした彼女の表情は、暗い教室に逆光が相まってよく見えない。
またしばらくの沈黙。響くのは、上靴のゴム底が擦れる音と机を動かす金属音だけ——そして、タタタと雨粒が再び窓を叩いている。
(また降り出したけど、ビニール傘があるから大丈夫だろう)
雨音は聞き流し、一つずつ机を直して教室の中ほどまで到達した。
綾織さんが何を考えているのか分からない。けれど、何かマズいことを言ってしまったような気はする。
杞憂ではなく、やっぱり僕が水瀬を虐めていると思われているのだろうか。
考えながら机を動かしていると、甘い匂いがした。
ふわりと香った柑橘っぽい匂いに続いて、こつんと額に何かが触れる。
「あっ……ごめん!」
僕が掴んだ机を、綾織さんもまた掴んでいた。お互いの額が触れて、反射的に机から手が離れる。
「…………」
言葉が出ずに数歩下がって会釈する。
「…………」
綾織さんも数歩下がったところで、おでこを押さえて小さく会釈する。わずかに頬を染め、唇を内に巻き込んで視線を逸らした。
「ぼ、ぼーっと……しすぎ、だよね。ごめんなさいっ!」
あっついあっつい、と彼女は己の顔を手で扇いで風を送っている。僕はもう一度「すみません」と会釈した。
僕も全身が熱い。やっちまった。綾織さんに初めて触れてしまった。頭突きだけど。
互いに互いの顔を見ることができず、視線は机を挟んで下のまま——視界の端に、見覚えのある折り畳み傘が入った。
僕の視線に綾織さんも気付く。
「ここ、凪ちゃんの席だよね」
「あ、うん。そう、だね」
僕は机の脇にぶら下げられた傘を手に取り、窓の外へ目を遣る。外の光がガラスの水滴で滲んでいた。
雨がかなり強くなってきているようだ。
「それ、凪ちゃんの忘れ物?」
「多分……間違いないと思う。今朝使ってるの見たし」
綾織さんと二人きりになれた貴重な機会ではあった。
だが、その代償として水瀬に逃げられた。奴の憎たらしい微笑みが蘇ってくる。
水瀬が学校を出たであろう時間は晴れていたけれど、徒歩での帰宅なら、少しくらい雨に当たったのではないか。
ここで「ざまぁみろ」と思うのは意地悪かもしれないが、反撃に成功したような感情になったのは嘘じゃない。
「私が届けてもいいけど。忘れ物なら、置いておいた方が良いんじゃないかな——」
その通りだ。誰が、届けてなどやるものか。そもそも奴の住所を知らない。
いっそ、この場でへし折って捨てるべき……いや、待て。これは好機だ!
水瀬の手札には『小説』と『自転車』とがあり、僕の対抗手段は無いに等しい状況であった。
しかし、そこにあるのは紛れもない水瀬の私物。
「——細田君、聞いてる?」
これを上手く使えば、あの変態に反撃できるかもしれない。
「いや、僕が持っとく」




