プロローグ 初めての小説
僕は漫画家を目指していた。しかし、それができないから小説を書いている。
僕は、小説家を目指している。
最低の書き出しかもしれない、と細田自身の本能が叫んでいた。このままではバッシングを受けるかもしれない。不純な動機だろうし、そもそも失礼に当たるのではないか。小説家を志す人間、漫画家を志す人間、芸術に携わる全ての人間に対する侮辱だ。
今すぐ消して、書き直すべき——
「そのままでいい」
正面に座る少女がやや低い声で言った。弾かれるように原稿用紙から少女へと意識が移る。
太い黒縁の眼鏡を直しながら胡座をかいて(僕が購入し、本来であれば僕が飲むはずだった)野菜ジュースを開封している。
「ありのままを書けばいい。修正が必要な部分は、全部わたしが教えるから」
ストローを差し込み、僕の目の前でちゅうちゅうと飲みだした。眼鏡の奥で幸せそうに目を瞑り、一拍置いてストローのオレンジ色が急降下、少女は口を放す。
「……ふう、うまい。まずは人称を統一した方がいいよ。細田か僕か、どっちかに合わせたら?」
そう言われて数行ほど視線を戻す。確かに視点が揺らいでいた。どちらに合わせるべきか……しばらく悩み、助けを求めるように顔を上げた。
彼女は悪戯っぽく少し目を細めてから「お好きにどーぞ」と首を横に振った。ボブの黒髪がさらさら揺れる。
ちょっとしたアドバイスくらい、してくれても良いだろう。僕は少女を睨んだ。
「書けたじゃん」
再び悪戯っぽい目で微笑んだ彼女の言葉に息を呑んだ。視線を戻すと自然な一人称視点で描かれた一文が目に入る。
「与えるのではなく、導くのが師匠ってもんだよ」
自らの言葉にうんうん頷いて野菜ジュースを飲み干した。
「それ、僕のなんですけど——」
「いいから続きをはよ。何かあったら声かけて、わたしは寝る」
僕へと背を向けて、ごろんと寝転がった。オーバーサイズのTシャツの裾を直す。なぜか「カフェイン」とプリントされていた。
やはり、一人でやるしかないと溜め息をついて、原稿用紙が三枚目へと差し掛かったことに気付く。彼女の定めた枚数まではまだまだ遠い。
ふと目に入った壁掛け時計は六時半を示している。長針と短針がぴったり重ならないのが焦ったい。半開きの窓から吹き込む潮風はまだ冷たく、空には橙色が染み出していた。
——初心者はやたら空の描写をしたがる。悪いことじゃないんだけどねえ。
そんな彼女の言葉がよぎって、静かに悔しさが込み上げてきた。消しゴムに手を伸ばす。
「おお、いいじゃん。書けてるじゃん。その調子で頑張りたまえよ」
彼女はいつの間にか背後へと回り込み、僕の肩越しに原稿を覗き込んでいた。寝転んでいたはずの場所には、金髪碧眼の軍服イケメンの抱き枕が横たわっている。
「お前は忍者か」
「そうだと言ったら……わたしはすごく良いキャラになるだろうね。いい加減、わたしの名前を書いてくれない?」
うるさい、と僕は手を振った。
「うーん、この表現だと『お別れ』のニュアンスが強いから、うるさいハエを払うように〜とか。しっしと手で払うみたいな方がいいんじゃない? あー……でも、しっしとかオノマトペの使いすぎを嫌う人もいるし、さっき『ちゅうちゅう』と『さらさら』とか使ってるから別の表現の方が——」
嬉々として、かつ早口で語る少女の顔は極めて近く、石鹸のような匂いがする。やかましい、と僕は羽虫を追い払うような動作をした。
しかし、的外れなことは一つとして言っていない。むしろ耳が痛いばかりだ。だから余計に腹が立つ。
ちゃぶ台の向こうで「僕は〜したっていう構文は、どことなくニヒルな香りがするねえ。きらーいじゃーなーい」などと歌いながら軍服イケメンに抱きつく変態——
水瀬凪は、紛れもない天才。現役の小説家である。
彼女に課せられたテーマは、孤高の変態もとい天才——水瀬と僕の出逢いと馴れ初めを文章に起こすことだ。
おそらく、この物語はシンプルな構造をしている。三角関係というやつだ。しかし、気を緩めれば倒れてしまいそうな、逆三角形の物語である。
少し回り道をして枚数を稼ぎながら、初心者らしく僕の一人称で書き記していこうと思う。
新連載です。毎日投稿していきます。
小学生の運動会を見守るような気持ちで、さらっと応援していただけると嬉しいです。