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掃討は根岸だけだった。板橋宿へ入ると物騒な輩は消えていた。
「師範、これはいったいどういうことなのでしょう」
「大村の策略だな。四方を固めずに根岸方面だけに逃げ道を設け、首謀者狩りをする。おそらく小伝馬町は彰義隊士で芋洗い状態だろう」
「新選組の原田左之助殿は憤死し、首魁の天野八郎殿も囚われました。以降、敗残兵の捜索は野放し状態になっています。多数が、義憤に駆られた百姓や町人らの烏合の衆といっても過言ではないので、元の生活に戻り鳴りを潜めているはずです。ただ徹底抗戦を決めた武士は、陸路、海路から北を目指していますよ」
「イズミ殿は、なぜそれを?」
「その話は、いずれ……」
イズミが小さな手で小一郎を制した。
四郎は答を聞きたかったが、聞かずともおおよその見当はついていた。千里眼だ。イズミは見えるはずのない絵を見、知らぬはずの情報を知ることができる。
「では、捕縛されない小物の我らは運がよかったのですか」
「ものは考えようです。宇都宮はすでに陥落し、その先の白河は激戦状態です。前後左右敵だらけ、我らは四面楚歌かもしれません」
「つまり、幸運とは言い難い?」
「案ずるな。イズミ殿は、ものは考えようと言っておるではないか」
しゅんとさせる小一郎を、四郎は窘めつつ気づかう。「道は一本ではない。手の甲の血管のようにいく筋にも分かれている。何より今は荒川を渡ることだ。海上には最強の軍艦が八隻守護しているのだ」
海軍副総裁の榎本武揚は、一月に薩摩の軍艦を攻撃し、大阪城に隠されていた金銀十八万両と夥しい武器を持ち出した。今も徹底抗戦の姿勢を崩さず、品川沖から睨みを利かせている。
荒川は増水していた。様子を見るため、やむなく渡船場近くの古びた御堂に身を寄せることにした。
御堂の周囲は殺風景な湿地だ。外壁は燻した杉板で囲われ、屋根は黒瓦。その屋根の下には一尺ほどの窓が造作されていて、そこから微かな息遣いが漏れていた。
そっと戸を引き、用心して入り込んだ。やがて目が慣れると、いかにも敗残の彰義隊士と思える風体の武士団がいた。隅にも訳あり気な浪人と娘がいる。
若い武士が刀を手にして腰を浮かせた。だが山伏姿の四郎らを見て、すぐに張りつめた気を緩ませる。
しばらくすると窓から外光が射し込んできた。急速に回復した空から月が顔を覗かせる。イズミは四郎の懐が窮屈なのか、ときどき顔を覗かせ辺りを見まわしている。
「貴殿らは、山伏ではあるまい」
一人、執拗に視線を当ててきた年配の武士が、起き上がると不意に話しかけてきた。好奇からだとは思うが端々に警戒心がこもっている。
「時も時である。その返答は明日に願いたい」
素気ない四郎の返答に、目を閉じたはずの若い武士が忿然と立ち上がる。制して年配の武士が答えた。
「これは失礼した。我らも眠るゆえ、その話はいずれまた」
年配の武士が四郎から視線を外し横になった。これを見て若い武士も眠りにつく。
上野の騒乱をよそに静かな時がすぎる。しかし事態は急を告げ、北へ北へと戦火は広がっているのは明白だ。官軍が水路で続々と白河へ集結しているという。幕府側も奥羽諸藩が徹底抗戦の構えを見せているらしい。そのような情勢で、はたして小一郎を無事会津へ送り届けられか不安も広がる。
本音を言えば双方の戦いに関心はない。だが逃れようにも官軍兵士を二人も殺め、大きな渦の中に巻き込まれてしまっている。これを運命というなら残酷だが、一興かもしれない。
―ー眠りなさい。日の出とともに川を見に行きますよ。
声のしないイズミの言葉が、また頭の中に入り込んできた。
巻き込まれた難と、イズミの不思議な才覚。そして四郎の脳裏から消えている幼少の記憶。それらをつらつら考えているとしだいに睡魔が襲ってきた。
扉の開く音で目が覚めた。外はすでに夜が明けている。皆も渡し船が出るか気がかりなのだろう。娘を一人残し、残りは川を見に行った。
―ー私たちも行きましょう。
イズミの呼びかけに小一郎を置いて外へ出た。
梅雨のはずなのに、頭上の空が青かった。イズミを襟首に隠し泥濘んだ道を歩いて河岸へ向かう。渡船場で、武士らが船頭を囲んで何やら話し込んでいた。近づくと船頭が四郎に目を当てた。
「山伏の旦那。みんなにも言ったけど、未の刻まで船は出せねえぜ」
川を見た。かなり流れは速いが、未の刻には船頭の言葉通り弱まる気もする。
「まずは腹ごしらえだ。飯も喰わず、夜通し雨の中を走ったので腹が減った」
「拙者もだ」
一人の武士が言うと他の武士も追随した。
「兵糧はあるのか」
「岩淵宿へ行って工面しよう」
言葉が終わると同時に明六ツの鐘が鳴った。武士らが、いっせいに腹を押さえた。
「握り飯でよければあるが、如何かな」
四郎が助け舟を出す。
「おお、天の助け。さっそく呼ばれることにしよう」
御堂へ戻ると小一郎が娘の傍にいた。四郎を見て慌てて戻り「腹が減りましたね」と、わざとらしく嘯く。
妙だと感じたが、四郎は捨て置いた。まずはと握り飯を皆に配った。
腹を満たしたのか、年配の武士がにこやかに話し出した。
「我らは町奉行所の同心。彰義隊士として上野へ参陣したが、この通り惨めに敗走しております。しかし、これから一矢を報いんと白河口へ向かう所存です」
「私も、彰義隊士として上野にいました。黒門で薩摩兵と……」
「傷は負わなかったか。あそこの戦いは凄惨だったと聞くが」
「背を斬られましたが――そういえば、この通り何ともありません。かすり傷だったようです」
腕をぐるぐる回す小一郎に、若い同心が笑みを浮かばせる。
「で、其許もそうでござるか」
老同心がぽつりと言った。
「いえ、某は上野に入っておりません。この者を会津へ送りとどけるために、山伏姿に身を変えたしだい」
「ほう、会津へ」
老同心は頬を緩ませた後、怪訝な表情を見せた。
「なぜ山伏姿に?」
「私が官軍に捕らえられたところを師範に救ってもらいました。その際、兵士を殺めたこともあり、山伏姿になってここへ」
「そうでござったか。西賊を懲らしめてくれましたか。話を聞いて、我らも胸がすく思いです」
老同心は清々しそうに笑みを見せると、続けた。「この若者たちは拙者の子です。いずれ与力にならんと努めておりましたが、よんどころない事情で断念しました」
「よんどころない事情とは?」
四郎は気になった。
「それもこれもすべて西賊のせいでございます。辻斬りや強盗が江戸で横行し、思案に暮れていたところ、この者らの長兄と拙者の妻が奸淫現場を目撃したのです。直参と名乗っていても薩摩訛り。見ぬ振りできずに咎めたらしく斬り殺されてしまいました」
「何とー―」
四郎の語尾が消えた。
「そんな折、寛永寺に義士が集結していると聞き参陣した次第です。しかし御覧の通り、着の身着のままで敗走しております」
「私も、父と兄と上野で共に戦いましたが、二人は討ち死にしました。ですが武士として全うしたのです。会津へ行ったら私も武士として全うするつもり。隣に強い師範がいてくれるので、西賊など蹴散らしてやります」
四郎は、真顔で話す小一郎の言葉を気恥ずかしく聞いていた。
すると小一郎の饒舌な話に興味を持ったのだろう。離れた場所にいる浪人が目を光らせた。殺気を放ちながら、つかつかと歩み寄ってきた。
四郎は髪の短いざんばらだが、浪人は、イズミと同じで長い髪を紐で一本に括っている。痩躯で見るからに引き締まった体形。鼻すじが通り、浪人にしてはやけに目元が涼しかった。