1章 会津へ 1
1
慶応四年、五月十五日。
未明から降り続く細雨は午の刻を過ぎると本降りになった。上野にほど近い根岸の町も、空を覆う雨雲同様、重苦しい空気に包まれていた。寛永寺を包囲する官軍が黒門へ押し寄せ、戦いの火蓋が切られたからである。
すでに数日前から下谷地区一帯に避難命令が出され、住人は大方逃げだしている。残っているのは行く宛てのない町人と一握りの武士だけだった。
「勝てる道理がない」
根岸の水鷗流師範代、水間四郎光和は、とうてい江戸の武士とは思えぬ言葉を漏らした。というのも最新式の火器を装備する官軍に対し、彰義隊士の装備は旧式の銃と刀なのである。
四郎は思う。かれらも江戸城の財宝が官軍の策略で大砲に変わったのを知っているはずだと。そうであるのに、いっときの気勢だけで斬り合いという愚かな策を選択した。
数で勝れば大砲にも立ち向かえると思ったなら鈍感としかいいようがない。熱り立った蟻の一群が人間に挑み、こともなげに踏み潰されるようなものだ。さらにいうなら義憤だけ。戦略を練って勝とうとする者は皆無に近い。
四郎の危惧は間を置かずに的中した。突如、前田家上屋敷からアームストロング砲が放たれたのだ。
轟音が響くと火の玉は黒雲を赤く切り裂き、寛永寺で破裂した。立て続けに、二発、三発と、火の玉は雨空に緩やかな曲線を描いて飛翔し、炸裂した。
ーー上野が燃える。
縁側から、惨たらしい光景を目の当たりにした四郎は、為すすべもなく身を震わせた。
「鬼畜め、蟻相手にも容赦せぬのか。寛永寺には若き我が門弟が五人、元服したばかりの少年もいる」
いくら急激に時が流れようとも、師、半兵衛の留守中に門弟を失うのはもってのほかだった。あまつさえ元服直後の少年は四郎を兄と慕っていた。
息苦しさを覚えながら、四郎は台所へ行く。気を鎮め、淡々と炊いたばかりの米に味噌をまぶし握り飯をつくった。沢庵を添え、葉蘭で包んだ。二個ずつ都合五人分。せめて上野へ赴いた門弟の数だけ握れば多少とも望みがつながる。そこへ思いを馳せた。
剣とは抜かずして圧するもの。寛容であり必殺でもあると教え込んだ水鷗流の極意。若く未熟な門弟が多かったが、奥義の一端である間合いと見切りを授けている。しかし血気にはやるかれらは、間合いを見切れても時勢を見切れず寛永寺へ向かった。
飛び道具には勝てぬ。生きならえばこそ家名も身も守れると説得したが、徒労だった。
もし折よく全員が無事に戻ったのなら、どれほど喜ばしいことか。だが将軍が逃げ出し、指導者もいない状況では叶わぬ望みだ。まして装備が違う。生き残るのは至難だろう。
それでも運よく逃げ延びたかれらが屋敷に戻れず、ここへ身を寄せるかもしれない。ならば命を懸けて守ろう。それは師範としての覚悟ではなく、遠い日の約束のような気もするし縁のような気もした。
四郎は決断すると稽古場へ向かった。
雨は降り続く。がらんとした稽古場で灯りもつけずに門弟の帰還をじっと待つ。足音も話し声もすべて激しい雨音が掻き消し、時だけが刻々とすぎていく。
夜になって多少は雨足が弱まり、ようやく通行人の話し声が聞こえるようになった。だが、漏れてくる言葉のどれもが心を寒くする。寛永寺が全焼した。彰義隊が壊滅した。根岸は逃げ出した彰義隊士で血の海だ。すべてそのような暗いものばかりだった。
仮に聞こえた言葉通りなら、すでに残党狩りが始まっている。板の間に座っていた四郎は立ち上がり、ありったけの木刀を集めて板壁に立てかけた。
腰に差す刀でもよかったのだが、人を斬るのに躊躇いがあった。おそらく師と共に修験を重ねたせいなのだろう。これまで怪我を負わせても、人の命を奪ったことはなかった。
覗き窓から離れ耳を欹てる。町人の家路へ向かう足音に逃げ去るような音が混ざる。間隔を置いて追跡するような音も入り込んでくる。それらに共通するのは緊迫した命のやりとり。おそらく双方とも血にまみれているに違いない。
「謀反人を見つけたら殺せ、匿うた者も同罪じゃ」
案の定、物騒な言葉が聞こえた。先見したように無策で挑んだ彰義隊士が、わずか一日で敗れたのは事実なのであろう。
「ここに稽古場がありますぞ」
不意に兵士の足音が近くでとまった。門の所で様子を窺っている気配がする。四郎は忍び足でふたたび覗き窓へ移動し、格子の隙間から凝視した。
陣笠ではなく赤い被り物を装着している。なら土佐迅衝隊士だろう。隊長の指示の元、一人が裏木戸へまわり、七、八人の兵士が門を取り囲んだ。
「水鷗流か、臭うな。謀反人が身構えちゅーやもしれん。用心して踏みこめ」
「承知!」
門をくぐった兵士が刀を抜いた。四郎も冷静に足位置を定める。
そのとき、四郎の頭に奇妙な呼びかけが入り込んできた。
ーーお待ちなさい。まずは、私に任せてください。
甲高くもなく、刺々しさもない。何とも摩訶不思議な響きである。例えるなら先端が鋭利な水晶。冷たく、それでいて静謐で、胸に沁み渡るような平安も感じとれる。
しかし辺りを見まわしても誰もいない。さては臆したかと木刀を強く握りしめた。途端、空気が震動し戸外で呻き声が漏れた。立て続けに苦悶の声が上がる。
兵士が二人、手で目を押さえ蹲っていた。声の主の仕業か。なら気のせいではなかった。声の主が何か飛び道具を放ったに違いない。
味方であるのはわかったが、いったい何者なのか。気配は感じとれないほど小さく、姿も見えない。放った武器も何であるか断定できなかった。ただ腕は的確だ。
「物陰に隠れい」
蹲る兵士を見て隊長が指示を出した。兵士らがさっと身を隠す。一人は板戸一枚を挟んで、四郎と向き合う形で身を寄せてきた。
その機敏な動きを見た隊長が、すかさず指で突入の合図を出す。兵士が頷いた。
多勢に無勢。だが向こうは、思わぬ攻撃を受け何が起きたのかわからず疑心を抱いている。さらに後方の一人は、狭い場所に不向きなスペンサー銃を構えて乱戦に加わろうとしない。
活路は銃の撃てない位置。四郎は木刀を一閃できる距離、銃を構える兵士から見えない場所、を瞬時に定めた。壁伝いに後ずさりした。
兵士が引き戸を開け、四郎を見つけると遮二無二、斬りかかってきた。そのときまた何かが放たれた。兵士が首の後ろを押さえて、泡を吹きながら前のめりに倒れた。首に釘のようなものが刺さっていた。それが骨髄に達し損傷を与えたに違いない。
四郎は飛んできた方向へ目を当てた。すると梁の上に四寸ほどの小さな人間がいた。顔は女系の能面のように白く、括られた黒髪を肩まで垂らしている。着衣は白装束。背袋から次の釘矢を取り出し弓を張っていた。
なぜ奇怪な小人が? 夢でも見ているのかと、しばらく言葉が出なかった。が、すぐに我に返り身構えた。
「小癪な奴、ただでは済まさんき」
隊長が怒声とともに突入を命じ、兵士がいっせいに突っ込んできた。だが入口は狭い。抜き身では一人しか通れない。四郎は姿を現した兵士の喉を木刀で突いた。ぐふっと呻き、手で喉を押さえて悶絶した。
仲間の屍を乗り越え入り込んできた兵士も、続けざまに突いた。小人が弓を放った音がしたので、スペンサー銃を持った兵士の目に命中したのだろう。残るは裏木戸へ廻った兵士と隊長だけだ。
勝てる。相手を射すくめ間合いを詰めたとき、戸板の先から隊長が声を荒げた。
「刀を捨てい! 梁の上にいる忍びも降りてこんかい」
凄む隊長の後ろには、裏木戸へ廻った兵士に捕えられた門弟、小一郎がいた。元服したばかりの十五歳。雨と血で濡れた首に鈍い光を放つ刃先を突きつけられている。
「師範、状況も考えずに入り込み、面目ありません」
息も絶え絶え小一郎が詫びた。泣いているのか、それとも雨のせいなのか目の縁を濡らしている。
ーーよくも、よくも。憤りに頭の中を熱くした
「健気な教え子だな。どうだ、こん若者を殺したくなけりゃ観念するか」
「なりませぬ。もとより死を覚悟しています。ただ、一言、詫びを入れたく……」
「案ずるな、決して死なせぬ」
「ほう、美しい師弟愛や。じゃが、こっちも部下を二人殺され、四人が深傷を負うちゅー。臭い芝居など見たくもない。さぁ、こいつを殺すか、うぬが降るか、すぐ決めるぜよ」
「笑止。それにしても戯れの好きな男だ。そなたらは二人、こちらは門弟を含めて三人いる。しかも一人は忍び、姿を隠して標的を定めている。猶のこと某は居合の達人だ。跪いて許しを乞うのは、そなただと思うが」
木刀をすて、刀の鯉口を切り威嚇した。
その気魄の漲る四郎の切り返しに、隊長が当惑する。
もっともの話である。常勝の中にあって生き延びれば何かしらの地位につける。これまでの苦労が実を結ぶ。死んだも同然の幕府側の武士とは根本が違う。人質を取って有利に見えても、斬り合えば恩賞はすべて儚く消える。
隊長は決めかねているのか、瞬きもせずに四郎を見つめている。
「二度と言わぬぞ!」
四郎は声を軋らせ躙り寄る。あくまでも威喝であったが、相手の力量も心情もすでに見切っていた。目は執念深そうだが、それもすべて保身ゆえだ。
「ふん、運のいい奴じゃ。今回は見逃しちゃるが、必ず見つけて殺すきに」
隊長が腹立ちまぎれに小一郎を突きとばした。傷を負った兵士たちを促し足早に去っていった。
「やっと消えてくれましたか」
四郎が小一郎の元へ駆け寄ると、小人の声がした。梁の上から柱に飛び移り、すーっと滑り降りてきた。
白装束は鈴掛、女人だった。四郎はどこか懐かしさを感じながら向き直る。
「そなた……」
「イズミと呼んでもらえますか。それと私の姿を見て驚く暇があったら、少年の傷の手当てをするのですね。かれらはまた来ますよ」
至極当然だった。悶絶したと思っていた兵士は二人とも息をしていない。四郎が殺したのだ。賊とはいえ心が寒い。稽古場へ運び、顔に晒を被せて冥福を祈った。
すぐに小一郎の衣服を剥ぎ、傷口に酒を吹きかけた。ヨモギをすり潰した汁を塗り、その上から膏薬を貼った。さらに晒を巻いて血止めをした。背と脇腹を裂かれた傷は幸い内臓へは達していなかった。
「会津へ、送り届けようぞ」
伝えると小一郎は途端に元気になった。鈴掛に脚絆姿の小人を訝る余裕も出てきた。
「師範、この珍妙な者はいったい?」
「詮索はあとだ。急いで出なければ今度こそ殺される」
四郎は言い置くと、奥の間に行く。
持ってきたのはありたっけの路銀と握り飯。師、水間半兵衛が、もしものためにと用意した二着の衣服。奇しくも小人と同じ修験服だった
「イズミ殿と申されたな。それを鈴掛けと知って着ているのか」
「もちろんです。法螺も錫杖もありませんが半兵衛殿とお揃いです。動きやすくて気に入っていますよ」
師を知っている?
「半兵衛殿が、山伏として諸国を修験していた頃から知っています」
なら、四郎だけが知らずにイズミと過ごしていたことになる。
なぜ気がつかない。また、なぜ師は教えてくれなかったのか。想像もしていなかった事実に胸が掻きむしられる。
問い質そうと目を見つめた。しかし官軍に刃を向けた今、しなくてならないのは速やかに小一郎を会津へ送りとどけること。四郎は着替え終えると、依然、身支度を整えようとしない小一郎を叱りつけた。
「なぜ、そちは着替えぬ」
「嫌だからです。私は武士、山伏などに身を落としたくありません」
「愚か者め! よもや水鷗流の奥義を忘れたか」
長さ七尺の錫杖を、床に突き立て叱咤した。未だ他の四人は帰ってこない。小一郎とは違い、血気に溢れ腕も達者なため討ち死にしたのだろう。反して小一郎は戦わずにして逃げてきた。正面に傷がなく、背と脇腹を斬られたのを見れば一目瞭然だ。
ここへ来た仔細も薄々想像がつく。会津藩士である父親は彰義隊士として死んだか、命令で帰国したに違いない。強がりを見せてもまだ少年。四郎を頼らなければ待ち受けるのは死だ。
「ほっときなさい。そもそも何のために、その者を送りとどけようとするのですか」
何のためにと言われてもわからない。ただ、稽古場で待っていたのも漠然と宿命なのだろうと感じている。
「だとしても謀反人、ぐずぐずしてたらかれらが来ますよ」
イズミがせっつく。四郎は言葉に含みを持たせて伝えた。
「では小一郎、ここで別れよう」
すると小一郎が慌て出した。
「ぜひ会津へ。師と共に――」