序1
津軽には、宇曽利が雪に埋めつくされたとき、八峰の麓に半妖の棲む森が出現するという秘められた伝承がある。
盲目の巫女が一人、雪を踏みしめ森を目指していた。悴む指に息を吹きかけ、覚束ない足どりで歩を進ませていた。
森へ近づくにつれ雪は激しさを増し、巫女の侵入を阻むかに降り積もる。杖もめり込むばかりで、道なのか岩地なのか汀なのか、進むべく方向を見失わせる。
立ち往生すると、たちまち蓑笠の隙間から大粒の雪が入り込み、全身の熱を奪いとっていく。棕櫚で編み込んだ蓑の内にも染みて、悍ましい悪寒も這い上がる。
――惑わされずに進みなさい。
彼方から輩である死者の声がする。おそらく行き先の森から呼びかけている。
ふっと耳を欹た。声の在りかを脳裏にとどめ道のりを測った。しかし降りしきる雪に遮断されて位置をつかめず、朧げな見当しかつかない。
巫女は代々イタコを伝承する家系の女。そのため音や気配に関しては生まれながら特異な能力を秘めていた。音から方向、距離を測り、色や匂い、形すら達観できた。気配も同様で、ただ一つ足りないのは実体のある輩だけだった。
――ここで観念するわけにはいかない。家系が絶えてしまう。
頬を叩いて鼓舞し、歩ませると、雪がいっそうの激しさを増す。踏み出す足を樏ごと埋め、さらに奥深く引き入れる。それでも感覚の失せた手を添えて足を引き上げ奥へ奥へと進んでいく。
やがて日がかげる。空気の質も変わる。
幼い頃、やはり全盲の母から何度も聞かされた宇曽利の雪景。能力を受け継いだイタコの娘が穢のないまま成女になったとき、忽然と半妖の棲む森が出現するという。
ー―雪が夕闇につつまれ藍に色を変えたなら、老木に語りかけ、森の一部となり順応するのです。
病の床に臥す母は、そう送り出した。
風を鼻で推し量る。
仄かに闇の迫る匂いがした。ならすでに森へ到達し、様相は黄泉とこの世の交錯する藍色に変化している。
匂いから色を具現させ、進んだ。
しばらくすると前方に巨木の気配を感じ、手で触れた。樹皮から長い年月を森と共に生き抜いてきた辛苦が偲ばれ、慈愛も伝わってきた。
これが……母の伝える老木?
感極まり頬を押しつけた。
おそらく先は、落ちれば凍死ぬであろう泉。覆われる雪の中より、微かに水の香りが立ち込めている。
老木の情に感謝しつつ、鼻をひくつかせる。じっと周囲の気配をさぐる。
時にして半刻。雪に埋もれ姿が森と同化するのを知覚したとき、右方に命の息吹を察知した。
――ついに見つけた。
手で胸の高まりを抑えると雪を払い、静かに巣穴へ歩み寄る。膝を屈めて息を殺し、そっと耳を傾ける。穴の中に蠢く生き物の鳴動を感じとった。
地表を覆う白い雪と同色の小動物、イイズナ。かれらは何世代に一度、突如、不思議な力を有する半妖を生む。成長しても四、五寸と小さいが、気性は荒く動きは敏捷。旋風を操り、痛みもなく血も出ぬ鎌鼬の遣い手となる。
一方で諸々の見聞を死者と共に伝え、求めるものを探し当ててくる。さらに変化し、傷を癒し、稀に時を巻きもどすという。巫女にとっては欠かせぬ輩である。
巣穴の奥行きは一尺ほど。幸い親は狩りに出ているのかおらず、穴の中に三匹の小さな子が残されていた。
通常は疾うに自立しているはずだが、導き通り人知を超えた行いが為されたのかもしれない。頭の中に浮かぶ絵は、三匹ともまだ一寸にも満たない大きさだった。
恐々穴の中に手を入れた。
刹那、指先に痛みが走る。生温かいものが染み出た。
しかし、一寸程度のものに噛まれても大事には至らない。安心せよと他の指で背を撫でた。すると一匹が心を読んだかに掌へ乗ってきた。
――よもや、それは千里眼。
感涙し、引き寄せると頬ずりをした。まさしく恩寵と、布で包んで一匹を連れ去った。