想い出のコップ
鬼影スパナ様の「ガラスのコップを落とした。コップは割れた。私はそれを片付けた」というお題で書いてみました。(https://ncode.syosetu.com/n9429fu/)
私はその時何を考えていたのだろうか。
足元に散らばっていく硝子の破片は、今しがた私が手にしていたコップの残骸だ。
あっ! と思った時には手元から離れ。割れていた。
「大丈夫?」
心配そうな声につられて足元を見下ろしていた顔を上げると、そこには私の想い人が小首を傾げてこちらをじっと見つめていた。
大丈夫、とか、何でもない、といった簡単な単語を発することも出来ず、私たちはしばし無言のまま見つめ合っていた。
「危ないから、片づけるね」
そう言って屈もうとする姿に、過去の記憶がフラッシュバックしてきて涙が込み上げた。
中学生時代。はりきって参加した運動会の障害物競走で見事に転んだ私を、この人はいの一番に助けに駆けて寄って来てくれて、転倒する原因だった靴紐を目の前で屈みこんで結んでくれた。
あの時、あの瞬間……私は恋に落ちた。
靴紐を結び終えて顔を上げときに見せてくれた笑顔と励ましの言葉が、私の心を潤し、幸福で満たしてくれた。
でも今は、その想い出が切なく胸を締め付ける。
『今日、会えない?』
久しぶりにかかって来た電話。慌てて片づけたアパートの一室にその人が姿を現したとき、私の心臓は急な下り坂を猛スピードで駆け下りた時のように大きく脈打っていた。
私が平静を装って「久しぶり、元気にしてた?」なんて聞けば、その人も笑って「久しぶり。仕事は大変だけど、元気だよ」と返してくれた。
それから次の話題を探しながら私は冷蔵庫の中を物色し、緑茶の入ったペットボトルを取り出してコップにそそぎ入れた。
「適当に座って」
と言いながら何気なくコップから視線を外すと私たちの目と目が合い、面はゆくなった私が面を伏せるより先にその人が神妙な顔つきで、
「実は、結婚するんだ」
と告白した。
逃げる間もなかった。
「え……」
と呟いた声は硝子が割れる音にかき消された。
私はほんの少しの間だけ、息を呑み、唇を噛みしめると吐く息とともに「あーあ、せっかくの緑茶が……」とぼやきにしては大きすぎる声で言葉を零した。
サッとしゃがみ込んでまだ割れていないコップの中に砕けた硝子の破片を入れていく。
「それ、まだ使えるのに……捨てるの?」
と、聞いてくるから、私は軽い口調を意識して「そうそう」と相槌をうち、持って来て広げた新聞紙に硝子片を丸め込みながら言葉を続けた。
「このコップ、セットのやつだったから。でももうかなり古いやつだし、そろそろ整理しようと思ってたからちょうど良かった」
うそだ。
本当はお気に入りだったけど、相手に気を遣わせたくなくて嘘をついた。
「今日は来てくれてありがとう、結婚式楽しみにしてるね」
私、ちゃんと笑えてる?
「ご結婚、おめでとうございます」
ヒラヒラと手を振って初恋の人を玄関先から見送ったあと、私は緑茶を片づけ、財布をもって外に出た。
あの人が来るたびに使っていた古いコップはもう捨てた。
今日はこれから、新しいコップを買いに行こう。
そうして私も、変わるんだ。