high-five01
今日は県立高等学校の入学式。
相賀晴貴はまだ寝ている中学生の弟・結貴を起こさないように静かに着替えた。
入学したバラキ県立伊立第一高等学校は私服通学だった。
中学で着ていた詰襟の学生服を着られなくなるまで使おうと思っていたが、
入学祝いにブレザー一式をプレゼントされたので、そちらを着用した。
ワイシャツにエンジのネクタイ。
ブルーラインの入った白いニットベスト。
紺のブレザーとグレーを基調にしたチェックのスラックス。
ブレザーのエンブレムには日の出をイメージした赤いバレーボールとKonkurrentの文字がデザインされている。
Vチャレンジリーグ男子Ⅰの伊立コンクレントの公式エンブレムだ。
ブレザーを贈ってくれたのは亡くなった母親・貴美の元チームメイト達だった。
晴貴達の母は十年前に妹・媛貴を生んだ直後に他界していた。
当時からチーム宿舎のアパートに住んでいるので、
ご近所、特に母親の元チームメイトたちが何かと気を遣ってくれている。
その中でも隣に住む一家は晴貴と同い年の娘がいて家族同様の付き合いだった。
居間に寄ると父親・勝善はもういなかった。
Vプレミアリーグ女子・伊立シェーンハイトの監督をしている父は、
第64回黒鷲旗全日本男女選抜バレーボール大会に向けて既に出かけていた。
残念ながらホームタウンは伊立市から、いたちかな市に移っている。
小学生の媛貴の姿もすでにない。
まだ小学校は春休みだったが、妹はいつも朝が早かった。
おそらくもうお隣で朝食中だろう。
仏壇に向かい母親の写真に手を合わせる。
写真は試合中のスナップショット。
ショートカットで向日葵が咲いたような満面の笑顔だった。
お母さん行ってきますと心の中で唱えて晴貴は玄関に向かう。
玄関には使い古したバレーボールが転がっていた。
壁には何故か『バレーボール厳禁!』の貼紙。
晴貴は革靴を履くと、静かに102号室の扉を閉めて施錠した。
すぐに向かいの101号室のチャイムを鳴らす。
返事を待たず一呼吸置いてから持っていた鍵でドアを開けた。
「おはよう、晴貴、良く眠れたか?
やっぱり、ブレザーにしたんだ!」
ダイニングテーブルで成沢遥香がご機嫌な様子でトーストにジャムを塗っていた。
肩までのストレートヘアにワイシャツ、エンジのリボン。
ピンクラインの入った白いニットベスト。
グレーを基調にしたチェックのプリーツスカート、白のハイソックス。
壁には紺のブレザーが掛けられている。
ブレザーのエンブレムは晴貴と微妙に違っている。
日の出をイメージした赤いバレーボールは同じだがSchönheitの文字がデザインされている。
Vプレミアリーグ女子・伊立シェーンハイトの公式エンブレムだ。
「おはよう、おお兄ちゃん、良く眠れたか?
やっぱり、ブレザーにしたんだ!」
背中までの三つ編みで、ジャージ姿の妹・媛貴が遥香の真似をした。
「おはよう、晴貴、よく似合っているわよ。
……目玉焼きでいいわよね」
遥香の母・遥美がキッチンから尋ねる。
軽くパーマを掛けた髪。
ワンピースにエプロン姿。
今でもママさんバレーで活躍している。
相変わらず若々しかった。
「おはようハル姉ェ、おはよう媛貴、おはようございます遥美、ママ……」
遥香は晴貴の言葉に違和感を覚えた。
「ママ」の発音が今までと微妙に違う。
一瞬言い淀んだような気がした。
「……目玉焼きでお願いします」
ニヤニヤしながら遥香がコーヒーを晴貴に渡す。
「どうしたの? 今日の晴貴、何か変!」
「どこが変だよ!」
「おお兄ちゃん、パン2枚だよね!」
媛貴がトースターに食パンをセットする。
「今日から高校生ですものね、いろいろと変わるわよね……」
ベーコンをフライパンで焼きながら、遥美は卵を二つ容器に割り入れた。
「……ところで晴貴、今日クラブはあるの?」
遥美が尋ねる。
クラブとは晴貴が所属する地元のサッカーチーム、
J2伊立ゾンネンプリンツのユースチームの事だ。
母親が亡くなった時、晴貴は幼稚園児だった。
交通事故で右足にひびが入り、1カ月ほど入院していた。
昼間から一日中横になっているので夜、眠れなかった。
病室での寂しさも夜の不眠に輪をかけた。
病院からの初めての外出が母親の葬儀だった。
幼馴染の遥香がずっと手を握っていてくれた。
当時は母親の死の意味が理解できなかった。
成長するにつれて、母親の死は自分の入院が一因だと思うようになる。
同時に不眠にも悩まされることになった。
少年団でサッカーをするようになってからは、疲れ切るまで練習に打ち込んだ。
両親譲りの運動神経で上達は著しかった。
すぐにゾンネンプリンツから声が掛かり、ジュニアユースでは中心選手となった。
中学校ではバレーボール部に所属し、こちらでも二年生からレギュラーになった。
双方に折り合いをつけながら両立させていた。
通学している学校とは違う世界でのびのびと活動する代わりに、
一時はクラスでは孤立することがあった。
中二の時は些細な誤解からイジメの標的にもされたが、意に介さなかった。
自分の居場所が明確にあったので、平然としていられた。
「今日のクラブは休みです」
「そう、良かった、それじゃみんなで学校に迎えに行くから。
どこかでお昼を食べてからお墓参りに行きましょうね。
何時頃が良いかな……」
容器の卵をフライパンにサッとあけて形を整え、蓋をしながら遥美は続ける。
「……遥香もいいわね、媛貴はどうする?」
「何時でも大丈夫よ。
どうせみんなで入学式にも乱入して写真撮りまくるのでしょう?」
「媛貴も行く! ママたちみんな来るんでしょう!」
そこで遥香は合点が行ったように手を打った。
「あ、そっか、素衣お姉ちゃんと、直お姉ちゃんが来るから、
それで晴貴は緊張しているんだ」
「何でだよ」
「だって素衣お姉ちゃんと直お姉ちゃんを、お嫁さんにするんでしょう?
二人ともその気満々よ」
遥香が晴貴を茶化した。
「それはいつの話だよ! もういい加減にしてくれ!」
「あらあら、それじゃ二人とも悲しむわよ、ウフフ……」
遥美が笑顔で目玉焼きのプレートを晴貴の元に運ぶ。
「う~ん、……までそんなことを……」
遥香はまた違和感を覚えた。
今日の晴貴は遥美を「ママ」と呼ぶのを意識的に避けている気がする。
「結貴はどうするのかしら」
「あいつは放っておいても大丈夫。
一人前に反抗期らしいから……」
「晴貴はそんな事なかったのにね……」
二人のやり取りを聞いていると、やはり晴貴は遥美の呼称を誤魔化している。
何を考えているのか遥香は気になった。
「やっぱり変ね、晴貴!」
遥香は食事を終えた晴貴のネクタイを引っ張って立たせた。
「あんた一体何を企んで……いる……の?」
遥香は強烈な違和感を覚えた。
今度は視覚的に。
「晴貴……、また背……伸びた?」
たしかひと月前の中学卒業までは同じくらいの背丈だったはずだ。
それまでは常に遥香の身長の方が高かった。
だが今は、明らかに遥香が晴貴を見上げている。
遥香は足下を見た。
晴貴が背伸びしていないか、何かに乗っていないか確かめた。
晴貴は照れたようにそっぽを向いて答える。
「多分、10センチくらい……」
「ああ、おお兄ちゃんが一番大きい!」
媛貴が手を叩く。
遥美もキッチンからわざわざ戻ってきた。
「まあ、本当だ、男の子の成長期ってこうなのね……」
遥美は感慨深げに晴貴を見回して気が付いた。
「……あら、スラックスの裾、これじゃ短いわね。
……すぐに直さなければ……ああ、でも今からじゃ……」
困惑する遥美に、晴貴が言う。
「良いですよ、今日は、しばらくは我慢します」
遥香は何故かムッとして掴んだままのネクタイを引き寄せた。
「これで勝ったなんて思わないで!」
「何の話だよ」
晴貴は苦笑する。
遥香はネクタイをポイっと放す。
ムスッとしたまま壁に掛けられたブレザーを着て後ろ髪を整える。
「ハル姉ェ似合っているじゃん」
「ハルカお姉ちゃん似合っているじゃん!」
晴貴がからかうと媛貴が真似した。
遥美は目を細めてその様子を眺めている。
「うっさい!
……行ってきます、ママ」
母親の返事も聞かずに遥香は玄関に向かう。
行ってらっしゃ~いと媛貴が追いかける。
「それじゃ、俺も……」
「晴貴、『お母さん』に挨拶はしたの?」
遥香が乱した晴貴のネクタイを、きちんと直しながら聞いた。
「はい、さっき済ませてきました」
遥美は満足そうに頷いた。
「そう、行ってらっしゃい。
遥香をよろしくね、同じクラスになれるかな?」
遥美は食器をかたづけ始めた。
今日は元チームメイトに報告する事が盛り沢山だ。
さて何からツイートしようか。
玄関から遥香が「行くよ」と叫ぶ声が聞こえる。
「あの、行ってきます……その……」
またしても晴貴は言い淀んだ。
遥美は背を向けたままふと洗い物の手を止めた。
ためらいながらも晴貴は思い切って言いたかった言葉に力を込めた。
「……行ってきます……遥美『母さん』……」
「……行ってらっしゃい……」
遥美は振り返れなかった、晴貴が初めて自分の事を「母さん」と呼んだ。
玄関で待つ遥香は聞き耳を立てていた。
こちらの玄関にも何故か『バレーボール厳禁!』の貼紙がしてある。
晴貴が靴を履くのを待って遥香はぼそっと言った。
「みんな待っているよ」
「ハルカお姉ちゃん、おお兄ちゃん、早く、早く!」
ドアを開けバレーボールを抱えた媛貴が急かした。
アパートの前は舗装された駐車場で、この時間はほとんど空いている。
そこに10人程の子供たちが集まっていた。
みんなこのアパートの子供たちだった。
1994年のバレーボール「プロ事業化」の時、親会社の伊立製作所では実業団バレーボールの強豪チーム「伊立北部(男子・女子)」を抱えていた。
紆余曲折の末、現在では女子がVプレミアリーグの伊立シェーンハイトに、
男子はVチャレンジリーグ男子Ⅰの伊立コンクレントに主体が移った。
エンブレムが酷似しているのはそのためだ。
その過程で伊立製作所に残った者も多く、伊立地域のクラブチーム、
関東地域リーグ・伊立北部シュトゥルムとして活動を継続している。
伊立北部バレーボール部独身寮の隣にあったこのアパートには、
地元伊立製作所に籍を置く関係者の宿舎としての役割が残っていた。
「本当だ! ハルキ兄ちゃん、でっかくなった」
「ハルカお姉ちゃん可愛い!」
子供たちが次々に集まってきた。
媛貴が色々と吹聴していたらしい。
子供たちの母親も遠巻きに見ている。
カメラを構えている者もいる。
ほとんどが遥美・貴美の元チームメイトだ。
皆、亡くなった貴美の忘れ形見の成長を気に掛けていた。
移籍や引退・結婚などで伊立市を離れた者も、何かあると集まってくる。
ひと月前の卒業式でもそうだった、遥香と晴貴の進学する高校に制服がないと知り、
入学祝いのブレザー一式をプレゼントしてくれたのも彼女たちだった。
幸いなことに貴美の遺児たちは三人ともすくすくと成長した。
亡くなった母親のチームメイトを○○ママ、○○ママと呼んで懐いていた。
駐車場では子供たちが自然に輪になった。
遥香と晴貴が一番年長だ。
「それじゃ今朝は特別にトス100回、スタート!」
遥香が宣言してバレーボールのトス回しが始まった。
このアパートで伝統的に行われている子供たちの朝の約束事だった。
登校前に時間が合った者同士でトスを行う。
相手がいなければ一人でも行う。
今日はまだ春休みの子供たちが多く、いつにも増して盛況だ。
ミスをしても回数のリセットはしない。
おおらかにトス回しを楽しんでいる、みんな笑顔だった。
ここのアパートにはもう一つ約束事がある。
室内バレーボール禁止がそれだ。
そうしないと必ず室内の何かが壊れることになる。
バレーボールがしたければ外のコートか体育館に行け、それが掟だった。
隣接する独身寮にあった専用体育館は震災でダメージを受け、取り壊されていた。
跡地に屋外コートが残ったが再建の見通しはない。
キッチンで遥美は洗い物を終えた。
壁に現役時代の集合写真が留めてある。
当時の実業団強豪チーム、伊立北部女子。
その中の貴美に話しかけた。
晴貴は大人になったよ、結貴も媛貴もみんな良い子に育っているわ……。
写真の中の貴美はいつもにも増して笑っているような気がした。
遥美は目尻の涙を拭い、ツイートするためのスマートフォンをいそいそと取りだした。
外ではトス回しが100回に達した。
歓声を挙げて子供たちがお互いにハイタッチを交わす。
最後に遥香と晴貴がハイタッチを交わす。
今まで何回も何回も交わしたハイタッチだが、今回はちょっと勝手が違った。
晴貴はわざと屈もうとしない。
遥香は目一杯背伸びする。
「やるじゃない!」
そう言って遥香は思いっきり両手を打ちつける。
「何の事かな?」
とぼけながら晴貴は両手をしっかりと受け止めた。
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ドキドキ、ワクワク、ハヤクコイコイ、シンニュウセイ・・・
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