high-five17
「おい、お前、ちょっと待て!」
晴貴は潟平駅の改札前で数人の少女に呼びとめられた。
「お前か、姐さんを泣かせたのは!」
「姐さんって?」
「亜弥べぇ姐さんだ」
少し遅れて亜弥の母が様子を見にやってきた。
「アッ、お袋さん、チワッス!」
『チワッス!』
「こんばんは。やっぱりあなた達だったのね」
「亜弥べぇ姐さんが泣いたって本当ですか?」
「ええ、久しぶりにワンワン泣いたんだって」
『マジっすかー』
少女たちは歓喜の雄叫びをあげる。
「で、みんなで何をしているの?」
「そりゃあ決まっているじゃないですか」
「亜弥べぇ姐さんを泣かした奴に、
ヤキを入れてやるんです……」
リーダー格が晴貴にガンを飛ばす。
「おい、手前ぇ!」
しかし次の怒りのセリフは横から掻っ攫われた。
「亜弥べぇ姐さんを泣かしてくれてありがとう」
『ありがとうございま~す!』
リーダー格が慌てて繕う。
「……今度亜弥べぇ姐さんを泣かした時は、
タダじゃ済まさねえからな」
『済まさねえからな~』
乱暴な言葉とは裏腹に、
少女たちは手を振りながら晴貴を見送った。
「ねぇねぇ、お袋さん。
今から亜弥べぇ姐さんの所へ行って良いですか」
少女たちは目をキラキラさせて、尋ねる。
「亜弥は泣き疲れて寝ちゃったわ」
「それって、チョー乙女じゃないっすか!」
「あたしね、姐さんが好きそうな動画集めていたの」
「私も! カワイイ動画集めたわ」
「ネコ動画! 見せて、見せて!」
少女たちはスマホで、
それぞれ一押しのネコ動画を見せあった。
かつて亜弥を中心に、
ネコ動画の可愛さに、
涙を流しながら大騒ぎした日々が……。
もうすぐそんな日々が帰ってくる。
あれからまだ5年。
あれからもう5年。
少しずつ止まった刻が動き出した。
11月14日、月曜日。
2年5組の教室。
亜弥と晴貴の机が中央に強制移動されていた。
「隅に置けない」ということらしい。
J2伊立ゾンネンプリンツの老将、
アイゼン・シュルツェン監督は、
今年70歳の誕生日を迎えた。
1990年代の名監督としてのキャリアは輝かしいが、
最近は10年ほどのブランクがある。
その間は、FIFA公認の代理人として、
若手の発掘のため各地を飛び回っていた。
久々の日本からの監督オファーに、
現役最後のチャレンジを決めた。
真面目でお行儀がよく、
規律正しい日本人には興味をそそられる。
自らのサッカー理念と、
日本人の気質は相性が良いと思われた。
とは言うものの、高齢であることは否定できない。
2016シーズンの途中に息子をチームに招き寄せた。
ドイツでコーチライセンスは取得しているので、
いずれ監督の座を譲るつもりだ。
今シーズンも中位に甘んじたが、
徐々に規律重視のシュルツェン流は機能し始めた。
チーム全体の意識統一を図るため、
ユースチームは言うに及ばず、
可能な限り、ジュニアユース、
キッズ年代の試合にも足を運ぶ。
チームを預かった以上、手抜きはしない。
ジュニアユースの試合。
神島ヒルシェゲバイ対氷戸ローゼンシュトック。
バラキ県内のライバルチーム同士の熱い戦い。
晴貴は第4の審判員として参加していた。
次の試合に伊立ゾンネンプリンツが出場するので、
アイゼン・シュルツェン監督も観戦。
息子であり実質的にチームの指揮を執るヘッドコーチ、
ユンガー・シュルツェンを従えている。
前半残り10分、アクシデントが発生した。
「パチン!」
主審は後ろから蹴られたような気がした、
振り向くが誰もいない。
「しまった……」
典型的な経験者の体験談を思い出す。
ボールは中盤で神島がキープしている。
インプレー中だが主審は即座に試合を止めた。
アキレス腱断裂。
これ以上は審判続行不能。
試合前の打ち合わせでは、
冗談交じりに晴貴が交替要員に指名されていた。
第4の審判員を協会役員に任せて晴貴は急遽ピッチへ。
主審の判定基準はしっかり把握しているつもりだ、
観客席からの心ないヤジは気にしない。
試合再開前に、両チームのキャプテンに声を掛ける、
それぞれと握手を交わすと、ドロップボール。
両選手ともすぐには動かない、
氷戸の選手がボールをタッチラインに蹴り出した。
晴貴はすかさず両選手と軽くハイタッチ。
神島のスローインから改めて再開。
急遽登場した主審は、安易に競ることはさせない。
印象づけるシーンだった。
直前に充分なウオーミングアップはできなかったが、
晴貴は割り切って、前半の残り時間をそれに充てた。
最初からトップギアで駆けまわった。
常に先読みをしてボールの近くに侍る。
氷戸GKのキックから中盤の競り合い。
神島ディフェンダーの手が、相手選手の背中に触れる。
距離を計っている程度で、押している訳ではないが、
晴貴は強く笛を吹いて、プッシングの反則を取った。
ボールが空中にある間に、落下点付近へ移動している。
至近距離で真横から見ているので、
反論のしようがない。
時間を置かずに同じ事が再び起きる。
晴貴は再び笛、反則を取った。
「競り合いで手を掛けるな!」
神島の監督がチームに注意喚起。
晴貴の現役時代のプレーは覚えている。
たしか高校チームに移籍したはずだが、
こんな形で再会するとは思ってもいなかった。
この若い主審には見えているぞ、気をつけろ。
氷戸が中盤左から、大きくサイドチェンジ。
ジャンプして身体全体で阻もうとする神島選手の袖を、
音を立ててボールが掠めた。
「ノーーーーーッ」
ボールを追いながら主審が叫ぶ。
ハンドをアピールする隙を与えない。
故意に手でボールを扱ったわけではないし、
試合の流れを大きく変えたわけでもない。
反則でないのなら、プレーオンとは言わない。
試合は続行。
前半残り僅か。
氷戸のフルバックがフリーで、浮いたボールを扱うが、
剥がれた芝の跡でボールがイレギュラーして、
バランスを取って広げた手に触れたように見えた。
「ノーーーーーッ」
故意に手でボールを扱ったわけではない。
ゴール前で相手にフリーキックを与えるのは、
果たして公正といえるのか。
否。
一度走り寄りながら、次の展開を読んで方向転換。
『試合を続けなさい』
それが主審のメッセージだ。
試合は何事もなく前半終了。
ハーフタイム。
神島の監督は選手に告げる。
「笛が鳴るまでプレーを止めないように。
つまらない反則はしないこと」
氷戸の監督が選手に告げる。
「自分で判定する必要はない。
ゲームに集中しなさい」
審判インストラクターは主審に告げる。
「急な登場にもかかわらず良く動けている。
自分で示した判定の基準はブレないように」
後半戦、主審の存在が消えた。
両チームの選手はプレーに集中している。
晴貴は必要なときにのみ現われて試合を邪魔しない。
1点ずつ取り合って引き分け。延長戦・PKはない。
試合終了後、
晴貴は両チームの数人の選手から、再会の挨拶を受ける。
神島の監督が主審にスッと近付いてきた。
「ナイスゲーム」
それだけ晴貴に伝えると、自チームの選手を迎える。
こちらも顔見知り、氷戸の監督からは握手を求められた。
「相賀君、氷戸に来る気はないのかな……」
「ありがとうございます」
晴貴は苦笑して一礼。
観客席の最前列には、
アイゼン・シュルツェン監督が降りてきていた。
「ギープミーアフュンフ」
身を乗り出して右手を出し出した。
晴貴はハイタッチで応える。
「アイングーテスシュピール」
良い試合だったと告げて身を翻す。
付き従う息子のユンガー・シュルツェンに命じた。
「ハルキの動静にアンテナを張っておけ、奴は化けるぞ」
長い間、新人の発掘に携わっていた。
その嗅覚には自信がある。
「父さん、チームから手放すのが早過ぎたのでは?」
「それは違うな。
あのまま在籍していてもチームの毒にしかならない。
本人のためにもならない。
ハルキは自分で運命を変えつつあるようだ……」
アイゼン・シュルツェンは席に戻ると、
通訳を介してチームマネージャーに連絡を取る。
「サッカー協会のユース審判員育成の件はどうなっている?」
「思うように人材が集まらないようです。
締め切りが二度延期されましたが、
それもとうに過ぎています」
「企画自体が無くなってしまったのか?」
「規模を縮小して、西日本をメインに行われる予定です」
「締め切りなど関係ない、是非推薦したい逸材がいる。
推薦文は私が書くので、応募の用意をしてくれ……」
『ユース限定2級審判員の育成』
ユース世代の若い審判員を対象に、
ユース年代以下のカテゴリーでのみ通用する、
2級審判員を育成する、サッカー協会のプロジェクトだが、
そもそも対象となる高校生の3級審判員が多くない。
いずれ『ユース限定1級審判員』も視野にあったが、
当初の目論見を若干変更して、
十代の3級審判員の育成と技術向上を主眼に置いた。
J2伊立ゾンネンプリンツの監督から、
日本サッカー協会審判部に推薦文が届いた。
バラキ県に活きの良い高校生審判員がいる。
その事実は把握していた。
熱い推薦文に審判部は動いた。
伊立第一高等学校サッカー部の3級審判員、
2年生の相賀晴貴に研修会参加の要請が来た。
冬季休業期間中に摂津県かうべ市において、
ユース限定2級審判員の育成を目標とする、
3級審判員を対象にした研修会が開かれます。
是非ともご参加ください。
期間中に開催される第25回全日本高校女子選手権大会と、
その大会に備えた練習試合で実技研修を行います。
参加予定者は、関東・中部・九州から各1名、関西から3名、
その他に、関西中心に4級審判員が若干名。
なお、遠方からの参加者には、
宿舎の手配をしますのでご連絡ください。
晴貴は、高鈴剣次に電話して居候をお願いする。
12月23日から、1月9日まで。
冬季休業明けの1月10、11日には、
一高恒例の第3回実力考査がある。
学業を疎かにしないためにも、
寝食付きの安定した環境が望ましい。
もちろん高鈴剣次は快諾。
それを知った娘のめぐみは大喜び。
研修会に参加する若干名の4級審判員には、
吉備師恩学園の女子マネージャー、
大津優季と松平知も含まれていた。
高鈴めぐみの自主練習は熱を帯びていた。
「ポーン、サッ!」
「ブ~ン、トン、トン」
「ポーン、サッ!」
「ブ~ン、トン、トン」
曲に合わせたリフティングもだいぶ上達したが、
まだしっくりする曲が見つからない。
伊立遠征ではBKBのヒット曲を使って、
晴貴が実演して見せてくれたが、
めぐみにはテンポが速すぎた。
晴貴と最初に出会ったあの時の、
ミディアムテンポの曲が気になる。
もうすぐ晴貴兄ちゃんがお家に来る。
こんなクリスマスは初めてだ。
こんな年末は初めてだ。
こんなお正月は初めてだ。
こんな冬休みは初めてだ。
こんなにドキドキするのは、初めてだ。
早く12月23日にならないかな。
早く晴貴兄ちゃんこないかな。
「上手くなったな」って、褒めてもらうんだ!
12月16日。
伊立市民会館で、
スーパーサイエンススクールの中間報告会が開かれた。
注目はバラキ高文連自然科学部研究発表会で、
審査員特別賞を獲得し、
29年度の総文祭への出品が決まった気象部。
新部長の遥香が登壇すると、下級生から黄色い歓声。
武道の達人で、
Vプレミアリーグ伊立シェーンハイトの練習生。
気象予報士を目指す理系の才女。
離別する彼氏(?)の高速バスを、
自転車で追いかけた悲劇のヒロイン(笑)。
文武両道を地で行く姿が、
虚実含めて過大評価されている。
遥香は先輩女子が作った原稿を頼りに、
『伊立地方の逆転層 ~伊立森林火災と原発事故~』を解説。
新たに放射能事故のパートが加えられている。
遥香に心酔する一年生5人が頑張っている。
2月の成果発表会までには、
臨界事故のパートも加わる予定。
何て優秀な後輩たちなのかしら。
同級生の森山博美と共に、
気象予報士試験対策にも余念がない。
でも試験って修学旅行から帰ってすぐよね。
これは言い訳に使えるかも。
伊立駅の動く歩道上。
「ハル姉ェ、凄ェじゃん。
杜の都総文祭って、文化部の甲子園」
晴貴はただただ驚嘆するのみ。
「アンタこそ、一体何がしたいのよ?
わざわざ、かうべ市までレフェリー遠征なんて」
遥香は驚きを超えて呆れている。
「そっちだって、理系がそんなに得意だなんて知らなかった」
「うっさいわね、晴貴だって分かるでしょう、
どうにもならない流れがあるのよ、世の中には……。
よもぎちょうだい」
晴貴の買った「福ろうドーナツ」のアラカルトから、
お気に入りをつまみ食い。
「それはダメだ、じゃあシナモン返せ!」
「アンタはアップルだけ食べていなさい!」
「ハル姉ェこそ、レーズン好きなくせに!」
遥香の指ごと、食べかけのシナモンドーナツにかぶりつく。
「うわっ! 汚なっ!」
反対の手の、残ったよもぎドーナツまで晴貴の口にねじ込み、
舐められた指を晴貴のブレザーに擦りつける。
「ねぇ、冬海ぃ……あたし達って、お邪魔虫なのかな?」
「そんなことないと思うよ、亜弥ぁ……」
画材を買いに氷戸へ行く多賀冬海と、
それに同行する小木津亜弥。
ついでにいつもの映画鑑賞。
バレーボールの練習のために、
いたちかな市に行く二人と道連れになった。
亜弥と晴貴はつき合っている……、
ことになっている、はずなのだが。