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縺れた糸

作者: 水無月 ジュン

霜月 維苑様主催「赤い糸で結ばれた企画」参加作品です。


視点がコロコロ変わります。

 君の小指の赤い糸は、誰と繋がっているのだろう。

 僕の小指の赤い糸は、誰と繋がっているのだろう。





 ***


 外は光に溢れ、開け放たれたサッシからは「薫風香る五月」と喩えられる様に、青臭さを含んだ心地よい風が室内へ吹き込み、天井から吊り下げられたカラフルなモビールをクルクルと回している。

 新築の家特有の木の匂い。真っ白な漆喰の壁。無垢材のフローリング。真新しいカーテン。

 大きなソファ、ダイニングテーブル、部屋の隅に置かれたベビーベッド。

 全てが明るめのトーンのナチュラルな雰囲気でまとめられたリビングルーム。

 隅々まで綺麗に掃除されたそこは「落ち着いた」、よりも「殺風景」という表現がしっくりくるのは何故だろう……と慶介は思った。

 まるで、グレーのフィルターがかかったように全体がぼやけ、薄暗さを感じる。外はこんなにも明るく、その光はリビングルームにも差し込んでいるというのに……。




 慶介がこの部屋に通されて10分が経過しようかという時、ドアが開いた。

 慌てて、ソファから立ち上がり、挨拶をしようとリビングに入ってきた人物を見た途端、慶介は運命的なものを感じてしまった。


「運命」なんて安っぽい言葉を簡単に口に出来る程、慶介は若くなどない。


 社会に揉まれ、たくさんの汚い現実を突きつけられ、面倒なしがらみを棄て、自由を求め、大切な人を失って今の自分が在る。

 そんな自分が「運命」だなんて……正気じゃない。いや、正気でいられるはずなどない……。

 そんな事を慶介が考えている間にも、彼女は自分の方へゆっくり歩み寄って来る。

 自分をここまで連れてきた人物に促され、慶介と彼女は挨拶を交わした。


「初めまして…。鈴木 恵理子です…。」

「初めまして…。日下部 慶介(くさかべ けいすけ)です…。」






 ◆◆◆


 目の前に現れたのは、かつて愛した……いや、今でも心の何処かで愛している女性だった。


 5年前、突如自分の前から姿を消してしまった彼女。当時、彼女が姿を消した理由も、行き先も分からなかった自分には、彼女を探す術などなかった。

 それでも、自分の知る限り、彼女の友人や知人を当たった。皆、口を揃えて『捜すな』と言うだけだった。


 彼女が姿を消して随分経ってから、その真相をある友人に聞かされた時には眩暈がした。


 そんな彼女が目の前にいる。

 あんなに会いたいと願っても、決して叶うことはなかったの彼女が…。

 会えたのなら、「あの出来事」は、決して自分の意思とは関係ない事を説明し、酷く傷付けた事を謝り、初めから彼女とやり直すつもりだったのに…。


 それが何故、今、再会してしまうのだろう。

 今となっては、やり直す事など出来ない。


 5年という時間は長すぎた。僕にも、彼女にもいろいろな事があり過ぎた。

 お互いの立場上、決してそれは許されない。


 やり直す事が出来なくても、僕は彼女を支えたいと思った。何らかの形で、彼女と関わり、彼女の力になりたい……。







 エリコは僕にとって、初恋の人だ。


 僕は、非常に複雑な環境で育った。

 僕は自分の存在価値がわからなかった。ある日突然、対応が変わってしまった周囲に戸惑い、人間不信に陥ってしまい、大人はもちろん同世代の子どもとさえ、話すことも、関わることも怖かった。


 だけど、そんな僕を受け入れ、心の傷を癒してくれたのは小学校5年生の春に出会った彼女だった。彼女と過ごした2年近くは、僕にとって特別な時間だった。生まれて初めて、僕が僕らしくいられたのだから……。

 彼女とは惹かれあっていたものの、素直になれない僕のせいで彼女を傷付け、小学校を卒業すると同時に、そのまま別れてしまった。



 その時の事を謝りたいとずっと願いながらも、もう会う事など無いと思っていた彼女に、再び出会ったのは高校生の頃だ。

 エリコは、僕の友人の恋人だった。

 僕は友人に誘われ、あくまで彼女の彼氏の友人として、時々一緒に出かけたりもしていたので、それなりに話をする機会はあった。機会はあったものの、友人の手前、僕はエリコに昔傷付けた事を謝る事など出来なかった。それに、謝ったところで、困らせてしまうだけだとしか思えなかった。


 謝る事が出来ないまま、友人とエリコが別れてしまい、僕らは再び疎遠になった。僕は謝らなかった事を後悔していた。




 疎遠になって更に5年後、大学最期の夏、再び僕らは出会った。

 高校の時も、そしてその時も、僕は彼女を密かに思い続けていた。なぜ、「密かに」想い続けなければいけなかったかと言えば、僕にも彼女にも、それぞれ恋人がいたからだ。


「けーちゃん、こっちがいつも話してるアッキ―、秋山 恵理子ちゃんだよ?」

「マジで…?エリコ?元気だった?」

「なになに?知り合い?」

「うん、高校の時の彼氏の友達…それに、小学校が2年くらい一緒だった。。」

「うそー?すごい偶然だね!でも、アッキーにけーちゃんの名前、フルネームで教えたじゃない?知り合いなら、その時教えてくれても良くない?」

「ごめん、私が知ってる名前と苗字が違ったから…今度は『鷹宮(たかみや)』かぁ…それにしても、よく苗字が変わるね。」


 皮肉にも、エリコは僕の彼女の友人だった。無邪気に笑う自分の恋人の友人に、不覚にもときめいてしまい後ろめたかったが、その後ろめたさが僕を踏み留まらせてくれたのだった。








 □□□


 なぜ、今になって再び出会ってしまったのだろう。

 彼がなぜここにいるのか分からない。


 何処ぞの御令嬢と結婚して、某有名企業の役員になったはずじゃなかったのだろうか……。




 あれは5年前の出来事だ。


「貴女の存在こそが、慶介さんの人生を台無しにしている事をご存知なくって?貴女のせいで、慶介さんの将来に暗雲が立ち込めているのよ?貴女では鷹宮家の後継者の慶介さんの足を引っ張るだけよ。私こそが彼に相応しいの。本当に彼を愛しているのなら、さっさと身を退きなさい。」


 突然、私の職場に乗り込んで来た女性は、私の恋人、鷹宮 慶介の婚約者だと言う。


 婚約者だの、後継者だの、彼から全く聞いたことのない話だった。

 とにかく、本人から聞いた訳ではないので、そんな話は信じられないとお引き取りいただいたのだが、彼女はめげずに毎日やってきた。

 彼女がやって来るようになってしばらくした頃、慶介と全く連絡が取れなくなってしまった。

 もともと、忙しかった慶介だったから連絡が取れない事は割と良くあることだった。しかし、1週間も音沙汰のない事なんて初めてだ。


 不安だった。

 小学生の頃の彼も、高校生の頃の彼も、大学生の頃の彼も知っている。私には、彼がお坊ちゃんだというイメージなど無い。

 その時初めて、私は彼の事について、よく知らなかった事に気付いた。彼の家庭の事や、苗字が何度も変わった経緯について、あまり話したがらないので敢えて聞かないで過ごしてきた。慶介の真面目な人柄や、不器用だけれど一生懸命なところ、私をすごく大切にしてくれて、誰にでも優しい人だと知っている…家柄なんて関係ない。慶介は慶介。それで十分な筈だった。


 だけれど、1度不安になってしまったら、疑念を抱かずにはいられない、そんな私もいた。

 彼が私に隠し事をしていないと言い切れるのか?

 不安は新たな不安を呼び、どんどん疑念は増えていく。必死で彼を信じようとすればするほど、彼女の言葉が私に重くのしかかる。




「秋山くん、君の客のせいで業務に支障が出ているんだが……。いい加減どうにかしてくれないか?」


 上司には苦言を呈され、周りからの私の評価は急降下していった。私は好奇の目で見られ、色々な噂や憶測が飛びかい、気がつけば社内で孤立していた。

 ただ1人だけ、それまで通りに接してくれる人がいた。私より2年先に入社した、とても面倒見が良く真面目な先輩だった。

 私は、どれだけ彼に救われただろう?あの頃の彼には感謝しても感謝しきれない。


 その一方、慶介の自称婚約者は私を追い詰め続けたのだった。






 ◇◇◇


「お兄ちゃん、なんでそんなに反対するの?」

綾子(あやこ)、目を覚ませ。そんな不誠実な男と結婚して幸せになれるわけないだろう?」

「不誠実?日下部さんは不誠実なんかじゃない!私とちゃんと向き合おうとしてくれているんだから!彼の苦しみを私が癒してあげたい…私が彼を幸せにするの!一緒に幸せになるんだから!」

「お前が何と言おうと俺は反対だ。それでも結婚すると言うなら俺は兄妹の縁を切るからな!いや、俺たち夫婦は綾子と縁を切る。」

「待ってよ、リコちゃんは関係ないでしょ?お兄ちゃんとの縁を切っても、リコちゃんと私は義姉妹(しまい)なんだから!」

「いいか、リコとお前が義姉妹だと言えるのは、俺の妻がリコで、俺とお前が兄妹だからだ。俺とお前が縁を切ったらリコと綾子は他人なんだ!」

「……リコちゃんと私は親友でもあるんだから……リコちゃんは、ずっと私の相談に乗ってくれていて……日下部さんに逆プロポーズして彼にOKもらったって言ったら一緒に喜んでくれたんだから!」

「それはリコがあいつの正体を知らないからだ……。」

「正体って……なにそれ?お兄ちゃんは彼の何を知っているって言うの?たった一度会っただけじゃない?あの日、彼と2人で一体何を話したの?いくら彼が気に入らなかったからってそこまで反対することないじゃない?それとも他に理由があるわけ?」

「……とにかく俺は反対だからな。それでも結婚すると言うならば、2度と俺たちの前に顔を見せるな…。」


 それが兄と最後に交わした会話だった。


 兄は慶介とのお付き合いをずっと反対していた。

「好きな人には忘れられない女性がいる」……そう兄夫婦に恋愛相談をした時から兄はいい顔をしなかった。

 だけど、兄嫁、私の義姉のリコちゃんは私の味方になってくれた。

 リコちゃん自身、忘れられない人がいて、そんな時側で支えてくれたのがお兄ちゃんだったってこっそり教えてくれた。


 お兄ちゃんがいたから、その彼を忘れることが出来た、お兄ちゃんと結婚したからこんなに幸せなんだってリコちゃんは笑っていた。

 その笑顔は穏やかで、とても美しかった。

 リコちゃんはお兄ちゃんの事が本当に好きなんだなぁ……って、リコちゃんの笑顔を見ていたら私まで幸せな気持ちになった。

 私も、お兄ちゃんがリコちゃんを変えたみたいに、彼を変えたい、きっと変えられるはず。




 リコちゃんのお腹の中にはちいさな命が宿っていて、お兄ちゃんもリコちゃんもすごく幸せそうだった。

 そんな絵に描いたような幸せを、私が壊してしまったんだ……。

 リコちゃんから、お兄ちゃんを奪ったのは……私だ。




 ◆◆◆


 一線を越えぬよう踏み留まっていたのだが、エリコが僕の恋人の友人でなくなるのに、そう時間はかからなかった。


 ある時、僕とエリコが彼女に裏切られている事が判明した。


 僕の彼女は、エリコの恋人と関係を持っていたのだ。

 その事実を知った時、僕とエリコの中で何かが変わった。僕は、小学校を卒業する時に伝えられなかった気持ちをやっと伝え、ずっと秘めていた胸の内を明かし、向き合った。


 エリコも僕と同じ気持ちだと打ち明けてくれた。

 僕はエリコを求め、エリコは僕を求めた。




「きっと、僕とエリコの赤い糸は初めて出会った時から繋がっていたんだ。複雑に絡まっていたものが、今、やっと解けたんだと思う。」

「慶介ってそういう事言うタイプ?なんだか意外ね。だけど、そういうの嫌いじゃないよ?……赤い糸かぁ。」


 彼女はそう言いながら、自身の左手の小指をうっとりと眺めた。

 僕は、そんな彼女が愛おしくて仕方がなかった。


 エリコと過ごした時間は幸せだった。満たされていた。




 お互い大学を卒業して、社会人になって、なんとなく結婚を意識する様になった頃、僕を取り巻く環境が変わりはじめていた。

 僕にそれを受け入れるつもりなどなく、話半分で受け流していた。所詮、僕には関係ない、そう思って疑わなかった。


 受け流さず、キッパリ断らなかった事を悔やむ事になるなんて、この時の僕には知る由もない。




 □□□


「私の話が信じられないのならば、貴女の目で確かめて頂戴。」


 珍しく、職場に彼女が現れなかったその日、帰宅すると家の前には1台の高級車が停まっており、その後部座席から降りてきたのは彼女だった。

 私は彼女と車に乗り込み、今まで目を背けてきた事実を目の当たりにした。


「貴女には、身を退く以外の選択肢が無いという事、ようやくお判り頂けたかしら?」


 そう言って、やたら分厚い封筒を渡された。

 屈辱的だった。

 封筒を突き返し、そのまま車を降りた。どの辺りで車を降りたのかも、どうやってそこから独り暮らしのアパートへ帰ったのかも覚えていない。


 その日、車を降りてからの事で覚えているのは、私の部屋の前に先輩がいて、彼の胸で声を上げて泣いた事だけだ……。




 ◇◇◇


「…日下部(くさかべ)狭山(さやま)鷹宮(たかみや)…また日下部。珍しいだろ、3回も名字が変わるなんてさ。結構複雑な環境で育っているから普通の家庭ってよく分からないんだよ。御家騒動ってヤツに巻き込まれて、大切な(ひと)を失って、まだ心の何処かで僕は彼女を思っている……。そんな僕で本当に良いのか?正直、綾子を幸せにする自信は無いよ…。」

「慶介さん、私はあなたに幸せにしてもらいたい訳じゃないの。私が慶介さんを幸せにしたい。慶介さんの笑顔を見たいの。」

「未だ、忘れられない女がいるんだよ?」

「少しずつ、忘れていけばいいわ。私が忘れさせてあげたい。だから、私と結婚してください。慶介さんの妻にして下さい。」

「少し考えさせてくれないか……。」


 慶介さんはいつもさみしそうに笑う。

 そんな彼が気になって、私の猛アタックで付き合い始め、私から逆プロポーズした。

 忘れられない女性がいたって構わない。それ程に、私は慶介さんに惹かれている。


「綾子と一緒に幸せになりたい。僕も努力するから…僕の妻になって下さい。」


 彼からそんな返事をもらい、私の両親に紹介すると両親はとても喜んでくれた。

 リコちゃんはその頃悪阻が酷くて、彼を紹介することが出来なかったけれど、その話をすると自分の事のように喜んで祝福してくれた。


 兄も「おめでとう」と言ってくれるはずだと、私は信じて疑わなかった。






 ◆◆◆


 僕の知らないところで、僕に関わる様々な話が進んでいた。

 いつの間にか、僕が義父の事業を継ぐ事になっていたり、政略結婚させられる事になっていたり、本当に滅茶苦茶だった。

 全てを断り、それまで名乗っていた鷹宮の名を捨て、僕が産まれた時に名乗っていた実父の姓を再び名乗ることにした。


 その大変さは、想像をはるかに超えていた。


 そもそも、義父と血の繋がりのない僕が後継者になる事自体おかしな話だ。どうやら、そこには複雑な姻戚関係や利害関係が絡んでいたらしい。思った以上に時間がかかってしまった。


 そんな問題を片付け、エリコに会いに行くと、彼女が住んでいたはずの部屋は空き部屋になっていた。

 そして、僕の家には、かつて僕が彼女に贈ったペアリングと「今までありがとう」とだけ書かれた真っ白な便箋が残されていた。






 □□□


「秋山、辞表出したって本当か?」

「はい……。」

「これからどうするんだ?実家にでも帰るのか?」

「地元には…帰りません。彼との思い出がありすぎるから……。どこか知らない土地でやり直そうと思ってます。」

「なぁ、俺じゃダメか?」

「鈴木さん?……急にどうしたんですか?」

「急に……じゃないよ。ずっと好きだった。……鈴木じゃなくて(はじめ)って呼んでくれないか?」

「…………。」

「戸惑っちまうよな。なぁ、秋山。新しい土地で……と言っても、一人じゃ何かと大変だろ?俺と一緒に来ないか?実は……この春、異動するんだよ。ルームシェアしないか……決して同棲じゃないぞ?秋山の仕事決まるまで、俺が家賃負担するからさ、家事代行してくれると非常に助かるんだが…。」

「……肇さん、いくらなんでもそれは甘えすぎです。」

「好きな女の力になりたいだけだよ。あわよくば、弱味につけこんで、口説こうとしている最低な男なんだからさ、秋山……いや、恵理子だって俺を利用すればいい。」

「本当に利用しても良いんですか?」

「俺はお前に利用されたい。」

「甘えても良いんですか?」

「好きな女に甘えられたら本望だ。」

「……一緒に行っても良いですか?」

「勿論だよ、恵理子。……これから『リコ』って呼んで良いか?『エリコ』って俺が呼ぶ度、彼を思い出すことが無いように…あいつと同じ呼び方は癪だからな。」

「肇さん……。」

「なんだい、リコ?」

「肇さんのご厚意に甘えて、あなたを利用しようとしている最低な女ですが……よろしくお願いします。」

「こちらこそ最低な男だけれど、よろしくな。」


 私は、先輩の厚意に甘えてばかりだった。

 現実を知ったあの日、肇さんの胸で泣き、慶介への気持ちを彼にぶつけていた。肇さんが、私に好意を持っているだなんて知らなかったとは言え、酷い話だ。


 会社を辞めた私は、肇さんに手伝ってもらって、慶介との思い出の品を処分した。

 そして、春から、肇さんとルームシェアという建前の同棲を始めた。

 肇さんは私にとってかけがえのない存在になっていった。いつの間にか彼を愛していた。そして、彼もそんな私にたくさんの愛を注いでくれた。


 彼と過ごした日々は、楽しいばかりではなく、辛いことだってたくさんあった。

 父と母を立て続けに病気で亡くしてしまった私を、彼はすぐ側で支えてくれた。家族を失ってしまった私に、彼は希望を与えてくれた。


「…家族を失ってしまったけれど…リコは独りじゃない。もし、リコさえ良ければ…俺と結婚して、家族にならないか。」


 同棲を始めて3年、私は肇さんの妻となった。






 ◇◇◇


「肇さん……起きて……目を開けて……お願い……お願いだから……今日だって一緒に買い物に行こうって約束していたのに……なんで……名前だってまだちゃんと決めてないよ……出産の時、立会ってくれるんじゃなかったの……絶対さみしい思いをさせないって言ってくれたのは嘘だったの……ねぇ、肇さん、いつもみたいに笑ってよ、『リコ、うるさいぞ』って叱ってよ……お願い……お願い……肇さん……1人にしないで……肇さん……。」

「リコちゃん……もうあなたは休みなさい。あなただけの身体じゃないのよ……。」

「肇さんと離れたくありません……私も一緒に……肇さん、迎えに来て……一緒に連れていって……」

「何をバカなことを!そんな事を言ったら肇が悲しむぞ!リコちゃんはもう休みなさい。」


 私のせいだ……。

 私がお兄ちゃんを呼び出さなかったら……。


 私と口論になったあの日、兄は帰らぬ人となった。普段積もらない雪がうっすら積もり、スリップしたトラックが兄の歩いていた歩道に突っ込んできたのだという。


 即死だった。


 お兄ちゃんを轢いたのはトラックだけど、私が呼び出さなければ、あの時間にあの道を通ることは無かったのだから、私のせいだ……。

 私がお兄ちゃんを殺したも同然だ……。






 ◆◆◆


「日下部さん……あなた、忘れられない女性がいるそうですね。なのに、妹と結婚するとか不誠実すぎやしませんか?」

「……仰る通りです。」

「もし…もしですよ、そのあなたが忘れられないという女性が目の前に現れたとしたら、あなたはどうするのですか?妹への気持ちが揺らがないと言い切れますか?妹だけを愛し続ける自信がお有りですか?」

「彼女が…僕の前に現れる事などあるわけありません…。結婚したと聞きました。」

「質問にきちんと答えて下さい。仮定の話なんです。現れる事などあるわけないというのは答えになっていません。」

「綾子さんを愛し続けるよう、精一杯努力致します。」

「…努力?…それはつまり、自信がないと?あなたは他の男と結婚した女性と妹を天秤にかけるおつもりですか?それじゃあ話にならない。」

「決してそういう訳では……。」

「あなたと話すことはもうありません。では失礼します。」


 エリコを失ってから5年。

 今の僕には、僕を支えてくれる婚約者の綾子がいる。

 しかし、綾子の兄は、僕と彼女との結婚を頑なに反対していた。会う前からあまり印象は良くなかったらしいが、実際に会って話をして、余計に彼を怒らせてしまった様だった。

 彼が言う通り、僕は不誠実だ。自覚があったから、とても反論など出来なかった。


 その日以来、僕が彼と会う事は2度と無かった。

 そして、数ヶ月後。彼が綾子と僕との結婚を反対していた本当の理由を知ることとなる。




 □□□


 肇さん、私が愛しているのはあなただけです。

 あなたが、綾子ちゃんの結婚を頑なに反対していた理由は、私と慶介を会わせたく無かったからなのですね……。

 そんなに、私は信頼されていなかったのでしょうか。私があなたの元を離れるとでも思ったのでしょうか。


 もう一度言います。

 私が愛しているのは、肇さん、あなただけです。

 なのに、なぜ、あなたは私を置いて1人でいなくなってしまうのですか?

 私が離れる事を心配していたあなたが、なぜ私から離れてしまうのですか?


 なぜ、私達を連れて行ってくれないのですか?

 そう思うのはもうやめました。

 だって、あなたに怒られたから。


 私は、あなたの遺してくれたこの家で、あなたの遺してくれたこの子と2人、強く生きていくことを決めました。

 あなたが、それを望むのならば……だから、時々、会いに来てください。

 たとえ、夢の中でも構わないから……。




 ◇◇◇


「綾子ちゃん……。肇さんの気持ちを汲んでくれてありがとう。だけど、もう四十九日も済んだことだし……綾子ちゃんの幸せそうな姿を見れば、きっと肇さんだって分かってくれると思うの。だから、もう話を進めても良いんじゃないかな?お義父さんも、お義母さんもそう仰ってるわ……。」

「リコちゃん……ありがとう……。」


 リコちゃんは、あの日以来笑わなくなってしまった。

 1人で暮らすには広すぎる新築の家で、お腹の中の小さな命と2人、暮らしている。時々、私や母が泊まることもあるけれど、その頻度は少しずつ少なくなっていた。


 お兄ちゃんを失った直後、リコちゃんはお兄ちゃんの後を追ってしまうのではないかと本気で皆が心配して、母と私がその家に押しかけて彼女を見守っていたけれど、ある日を境にリコちゃんは強くなった。


「肇さんに怒られました。私はひとりじゃないんだって。私には、肇さんが遺してくれたこの子がいるのに……バカなことを考えるなって。私がこの子を守らなかったら誰が守るんだって。」


 リコちゃんのお腹はどんどん大きくなって、私が触っても、その胎動をはっきり感じる事が出来る程だ。

 夢に出てきたお兄ちゃんのお陰で、リコちゃんは変わった。相変わらず笑わないままだったけれど、外へ出るようになった。




 リコちゃんは、あの日、私がお兄ちゃんを呼び出した事も、私と口論になっていた事も知らない。

 亡くなったお兄ちゃんの手には、リコちゃんが好きだったケーキ屋さんの紙袋が握られていたから、リコちゃんも、両親も、ケーキを買いに行って事故に遭ったものだと思っている。

 だけど、ケーキを買ってそのまま帰っていたらお兄ちゃんはこんな事にならなかった。私が近くにいるなら話がしたいと呼び出さなかったら……。


 言えなかった。私がリコちゃんとお兄ちゃんの幸せを壊してしまっただなんて……。


 なのに、リコちゃんは、私の幸せを望んでくれている。




 両親の意向もあって、慶介さんには、お兄ちゃんの葬儀に参列してもらわないことにした。それをありがとうだなんてリコちゃんに言われると申し訳なくて、苦しくて……。


 リコちゃんに結婚の話を進めたら?と言ってもらって1ヶ月。

 私は慶介さんをリコちゃんに紹介することにした。

 お兄ちゃんがリコちゃんに遺した家に彼を連れて行くのは気が引けたけれど、予定日間近で体調の優れないリコちゃんの外出は避けたほうが良いだろうと、母体の安全を最優先させた私の判断だった。






 ◆◆◆


 綾子の兄の事故で彼女との結婚の話が保留になっていたが、彼の四十九日の法要を終え、再び話を進める事となった。


 そんなある日、義姉を紹介するからと1軒の新築の家を訪ねた。


 結婚をして丸2年。マイホームを購入し、子を授かり、幸せな未来を思い描いていたであろう綾子の兄。


 彼の妻はどんなに辛かった事だろう。

 その痛みは、本人にしか分からないはずだ。


「リコちゃん、勝手に入って少し待っていてって。お腹が張って苦しいみたい。私、様子見てくるね。」


 綾子は鍵を取り出し、慣れた様子で玄関の鍵を開け、僕をリビングに通すと待つように言った。


 綾子が義姉を連れて僕の前に来た時、綾子の兄が、僕と綾子の結婚を反対していた本当の理由を知る事となった。




『もし…もしですよ、そのあなたが忘れられないという女性が目の前に現れたとしたら、あなたはどうするのですか?妹への気持ちが揺らがないと言い切れますか?妹だけを愛し続ける自信がお有りですか?』




 彼は、僕の目の前に、僕の愛した女性が姿を現わす事を知っていたのだ。

 僕の愛した女性は、綾子の兄の妻となっていたのだから……。






 ***


 インターホンがなる。

 ソファに預けていた重たい身体を起こしモニターに映る姿を確認した恵理子は溜息を吐いた。

 彼女は渋々玄関へ向かい、扉を開けた。


「申し訳ないけれど……綾子ちゃんならもう出掛けました。……失礼します。」


 恵理子は、昨日義妹が連れてきた婚約者にそう告げると扉を閉じようとした。

 しかし、慶介はそれを遮った。話があるのだと言う。


 綾子はいい子だ。

 彼女と付き合ってまだ3年だが、本当の妹のようでもあり、親友のようでもある。

 恵理子が最愛の夫を失った後も、ずっと親身になって自分を支えてくれた恩人でもある。彼女自身だって兄を亡くして辛かった筈。

 昨日だって、体調が優れない恵理子の側で、色々面倒を見てくれた。

 そんな綾子を悲しませたくない。それ以前に、恵理子にとって目の前にいる慶介は最早なんの感情も無い他人だ。自分が愛しているのは今も綾子の兄、肇だけだと胸を張って言える。


 だと言うのに、目の前のこの男は何を考えているのだろうか。

 肇が、頑なに綾子と慶介の結婚を反対していた理由が少しわかった気がした恵理子は、彼を家の中へ入れる事にした。

 本来ならば、慶介をこの家に、肇とこの先何十年も一緒に暮らすはずだった家に入れたくなど無かった。まして、この男と2人きりでなど、あり得ない。

 しかし、彼にははっきり伝える必要がある。玄関先でする様な話では無い。きっと、その様子を肇が何処かで見ていて、分かってくれるはずだと恵理子は思った。




「日下部さん、お話とは一体なんでしょうか?」


 恵理子の余所余所しい態度に、慶介は動揺を隠せなかった。

 慶介の知っている恵理子は、明るくて屈託無くよく笑うとても可愛らしい女性だった。彼女に「慶介」と名を呼ばれる度、暖かく、甘く、幸せな気持ちになった。

 しかし、目の前にいる彼女は、暗い目をして、ニコリとも笑わず、冷たい印象しかない。


「エリコ……僕に何か出来ることはないか?こうやって、再び出会ったのは、運命みたいなものなんじゃないかって思う。……例えば、叔父として……お腹の子の……父親代わりに……なるとか……エリコを支えられたら……」

「あなたは一体何を考えているんですか?あなたが支えなくちゃいけないのはただひとり。綾子ちゃんでしょう?肇さんがあなたと綾子ちゃんの結婚を反対していた理由があなたにあるとなぜ未だに分からないんですか?」

「それは……僕とエリコが昔、付き合っていたから……。」

「初めは私もそう思いました。でも、違うんです。あなたが、私に執着しているからです。……私が愛しているのは、今も肇さんだけです。そして、私にとって、綾子ちゃんは妹です。私にとってあなたは、義理の弟。変な感情を持たれては迷惑です。それに……私が付き合っていたのは日下部さんではありません。狭山 慶介くんの事は純粋に好きでした。鷹宮 慶介さんとは本気で結婚を考えた事もありました……でも、正直いい思い出などありません。辛くて、苦しくて、惨めな思い出しかないのです。そんな時、私を側で支えて傷を癒してくれたのが肇さんです。私は、一生肇さんの妻でい続けると決めました。もうこれ以上、ふざけた事を言うのはやめて下さい。」


 淡々と語る恵理子に、慶介は何も言い返すことが出来ずにいた。そんな慶介に、恵理子が語ったのは、これ以上慶介と話す事などないという彼女の意思表示だった。



「もし、あなたがどうしても『運命』だと言いたいのならば……私とあなたは、『噛み合わない歯車の様な運命』なんです。私の小指の赤い糸は、昔、あなたのものと繋がっていたように思えた時期も確かにありました。でも、あれはただ縺れていただけなんです。その糸はとっくに解けて、私の赤い糸は、今でも間違いなく天国の肇さんと繋がって固く固く結ばれているんです……。」

お読みくださりありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[一言]  感想書くのが遅くなってしまい申し訳ありません!!  私情がかなり忙しかったため……本当に申し訳ありません……。  『縺れた糸』。タイトルからしていかにも黒そうな、水無月様らしい作品だと思…
[良い点] こういう描き方もあるのですね。 男女の想いの違いに考えさせられました。 最後の言葉に、想いの強さが集約されていますね。 切ないお話でしたが、とても勉強になりました!
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