入学式
昨日までの僕は、来る高校生活に心躍らせていた。
しかし車で学校に向かう今の僕の心境はかなり複雑である。
と言うのも、僕が通う筈だった高校は今しがた通り過ぎた。
「私と同じ学院じゃ、不満?」
僕は青春の一時をなるみさんと同じ学校で過ごすことになった。それに対して不満はない。あるとするならたった一点。
「大丈夫よ。……ほら」
言いながら鞄から手鏡を取り出したなるみさんは、僕との距離を詰めて僕が自分の顔を見れるようにしてくれた。鏡に写るのは僕だが、到底自分自身とは思えなかった。
「どこから見ても女の子」
たった1つの不満とは、共学でないこと。
男の僕が女学院に通う、実に面白い冗談だと笑い飛ばしてみたが、こうして学院に向かっているということはつまりそういうこと。実現させてしまう白鳥家もすごいが、その為に執事の交代をしたという親父もある意味すごい。
なるみさんは大丈夫と言うが、本当に大丈夫なのか、不安で気が気でない。
「お嬢様、ユウヤさん。もうすぐ着きますのでお支度の方をお願いします」
運転手を務める長崎さんの言葉が僕には死の宣告に思える。
「改めていう必要はないと思うけれど、ユウヤを男性だと知っているのは私を含めて学院長と養護教諭の大森さんよ?」
「大丈夫です、何か問題があったら保健室に逃げ込め、ですよね?」
執事をやめて家をでるか続けるかの2択で、続けるを選んだのは自分だ。駄々をこねたりするのはもうやめよう。
「私もフォローするわ、安心して? ユミ」
如月由美、それがこの学院での僕の名前。この3年間、僕はゆみとして生活していくことを覚悟した。それから程なくして車が停まった。
「お嬢様方、着きましたよ」
長崎さんの言葉を合図に僕らは車を降り、聖鳳女学院と書かれた正門の前に立った。世界でも有数の女学院であり、その門構えはとても学院とは思えないほどに立派であった。
「じゃいってくるわ。迎えもお願いね」
いってらっしゃいと見送られ、聖鳳女学院の正門を抜けた。
綺麗に敷き詰められた石畳の道を挟むように芝生があり風に揺れている、それを更に挟むように木々が生え、枝に留まる小鳥の囀りが聞こえる。これが聖鳳女学院、しかし本当に学院なのか? 疑いたくなるのは生徒の姿がない為。それは7分間、正門から歩いても変わらず、未だ生徒の姿も昇降口も見受けられない。
「なるみさん、ここって本当に聖鳳ですか?」
疑念が心配に変わり、溜まらず聞いてみると、寝てないのに寝言を言った人を見るような顔をされる。
「いやだって、僕ら以外の生徒の姿が……」
尋ねた理由を言ってみるとなるみさんは表情を変えて答えてくれる。今度は呆れ顔で。
「聖鳳は基本寮生活よ?」
その言葉は宣告ではなく執行であった。
頭を巡るのは風呂やトイレのこと、トイレはセーフに滑り込めるかもしれないが、風呂は完全にアウトだ。そして寮で生活するとなれば寝巻き姿やもしかしたらあられもない姿を晒す人だっているかもしれない。それは同性だからとそんな姿を見せれる訳で、知らぬ間に男の僕に見られていたとなれば、彼女たちはどれほど傷つくだろうか。
今ならまだ引き返せる。固唾を呑み込んで口を開こうとした瞬間、なるみさんがくすっと可愛らしい声を漏らした。
「そんな深刻な顔しないでよ、私たちは自宅から通うんだから。それともゆみは寮から通いたいの?」
怒ってもいいかと本気で聞きたくなった。しかし聞かなくとも顔に出ていたようで、なるみさんはすぐに謝罪を述べた。
「ごめんなさい、今のはひどかったわね、反省するわ。けど、喜ばない貴方も変だと私は思うけど?」
「じゃなるみさんは自分の知らぬ間に裸は勿論、下着姿とか見られても平気なの?」
「……、まぁいい気分ではないわね」
「それを喜べって方が変だと思いますよ?」
「ん、ユミがそういうならそれでいいわ。ほら、もうすぐ昇降口よ、準備は?」
大丈夫だと強く頷き返して、視線を正面に向ける。
小さな丘の上に立てられた校舎は屋敷を連想させるもので、やはり学院らしさはなかった。それでも昇降口には同じ制服を着る人たちがおり、なるみさんに同じ質問をしなくて済んだ。
校舎に入って、より多くの生徒とすれ違うようになったが、訝しげな視線を向けてくる人がいないことになんとも言えぬ居心地である。しかし向けられても困るのだから、男としては複雑だ。
「可愛い子でも探してるの? きょろきょろして」
わかっていて言うなるみさんの言葉を僕は無視することにした。
「そういえばぼく、じゃなかった私たちのクラスってどこですか?」
昨日聖鳳に通うことを知った僕は、未だにどの教室が自分のクラスなのか知らない。逸れたときのことを考えて、聞いてみたのだがなるみさんは頭を振った。
「私もまだ知らないわ」
ならどうやって知るのか、様々な疑問が浮かび上がる。
「聖鳳女学院はね 教会で、聖鳳の生徒として3年間、心身を鍛えて立派な淑女になります。みたいな祈りを捧げたあと、所属するクラスを教えるのよ。で、今向かってる場所は保健室よ」
言い終えると共に開かれる引き戸。途端に鼻腔についた薬品の匂いに少しばかり顔をしかめてしまう。しかしこの匂いにも馴れないといけない、この場所は今後幾度となく駆け込む可能性のある場所なのだから。
保健室の広さは一般的教室の2倍はあった。棚の中で鎮座する薬の数は多い、ベッドの数も当然のように多く 全部で10床 その内1つが使われていた。まるで小さな病院だ。
しかし寝ている人がいるのにカーテンも閉めないのはなぜだろう、そうおもった矢先、なるみさんは眠る女性の元へ行き、耳下で囁いた。
「大森先生、起きてください。女装が似合う美少年がお待ちですよ?」
「なにっ? ……おお、なるみくん、すまない、寝ていたよ」
「みれば分かりますよ」
「で? 私に抱かれたい女装少年はどちらに?」
「あちらに」
……どこから突っ込めばいい?
「おお、君か。最初の場所はどこがいい、選ぶ権利をあげよう」
訳のわからないことを言いつつ堂々と立つ姿はまるで男。しかしなるみさんとはまるで異なる肉のつき方、主に胸が。
第一印象はあまりいいものではないが、かもし出す風格はなんとも頼り甲斐のあるものであった。こういった人間の扱いには馴れている。相手のペースにのまれず、自分のペースを維持すること。
「初めまして、大森さん。如月です」
僕は彼女たちのやり取りをなかったことにして、笑顔で答えた。
「失礼、興奮してしまったよ。私は大森恵子だ、よろしく如月くんいや、ゆみくん」
大森さんは言いながら笑顔で握手を求めてきた。そのときの顔は不覚にもかっこいいと思え、お互い性別が逆なら、そうなってもいいかもと、思えてしまうから怖い。
「しかし実に見事だ。もはや才能と言えるな」
嬉しくもない才能である。しかし大森さんが他人に気を遣うような人には思えない、つまり本心からの言葉。もしかしたら誰にもばれることなく3年間やっていけそうだと、少しだけ自信が持てたの事実だった。
「じゃ挨拶も済んだことだ。そろそろ本題に入ろう」
ふざけた様子を瞬時に消し去って、そう切り出した大森さんは、僕がこの場所をどういう風に使うのが良いのかや、注意する点を教えてくれた。
「カーテンが閉まっている時は注意しなさい。私が寝ているならカーテンは閉まっていないからね」
「わかりました。ご丁寧にありがとうございます」
「礼なら無用だ、どうしてもと言うならその身体でしてくれる方が好ましいよ」
言いつつ再びベッドに潜り込む大森さんは、きっと多くの生徒から信頼されているのだろう、そんな風に思った。
「それじゃ教会に向かいましょ、お祈りの仕方は?」
「大丈夫です、覚えてますよ」
そんな会話を最後に僕らは保健室を後にした。
教会はコの字の校舎の北西に位置し、保健室からはそこそこの距離がある。向かっているとすでにお祈りを済ませた生徒が多いのか、校舎に引き返す生徒とよくすれ違う。その中の数名に僕らが着ている制服とは違う、スカートの丈が長い制服を着ている人たちがおり、足を隠せていいなと思った。
「あれは生徒会役員が着用するものよ、目立つから貴方には向かないと思うけど?」
なるみさんの言う通り、自然に目がいってしまった、加えて役員などしている時間はない。いいものを見つけたのにと落胆していると、教会が見えてくる。
しかし教会周辺には当然の如く生徒の姿はなく、すでに祈りの時間は終わったと言われたとしてもなんら不思議に思わない。
「大丈夫なんですか?」
「あら? 皆と一緒に淑女を目指すって祈りたかったの?」
祈りたくはないが、他人の考えていることなんてわからない。一緒に祈っても問題ないのでは? と思った。
「大半の人は純粋に、本気で淑女になろうと祈っている。その中でやる気のない祈りを捧げるのは彼女たちに失礼でしょ?」
真面目にすることが時に嗤いの対象になる。それを恐れる人たちはここにおらず、彼女たちを侮辱してしまったことを僕は後悔した。しかし悔やむ前にするべきことがある。
「ありがとうございます。なるみさん」
それはなるみさんへの感謝だ。彼女もまた淑女を目指すためにこの学院に入学した筈。なのに僕がいることで皆との祈りに参加できなかったのだ。
「感謝なんてやめなさい。礼を言うなら私の方、なんだから」
それはどういう意味なのか、すぐさま聞き返そうとしたが、なるみさんは逃げるように歩く速度を上げた。機会を失う前に問いかけたかったが、言葉は喉で突っ掛かり、何も聞くことができなかった。今の僕にできることは、彼女が自ら言葉を紡ぐ日が来ることを祈るぐらいだけであった。
僕らの祈りの儀の進行役は事情を知っている学園長が時間のない中 足を運んで勤めてくれた。優しい人だと素直に思えのは、他の教職員を遠ざける他に、本気で淑女になりたいと祈ってもいいのよと、場を和ませる言葉まで言ってくれたからだ。しかし優しいだけの人ではなかった。儀式が終わって別れ際、相手を知りたいのなら、自分を晒すのがいいわよと、悩みを見抜いて助言までしてくれた。
しかしそれは的確な助言ではないと教室に向かう最中に思った。僕となるみさんは出会ってもうすぐ10年近くの付き合いになる。10年前、初めて彼女を目にした時、僕は彼女を人形だと勘違いしたのを今でも鮮明に思い出せる。まるで人の手で作られたかのような容姿というのもそうだが、僕が人形だと感じてしまった最大の原因は容姿の話ではなく、何事にも無関心だった彼女の心の無さ、まるで演じるべきものを待っているかのような……、なら今のなるみさんは演じるべきものを見つけただけで、昔と変わっていない、のか? わからない。それを知る術もまたわからない。わからない事だらけに、学院長の助言は正しかったと思い直したくなる。けれどそれを認める事はこの10年が無意味のものだったと思えて嫌だった。
なるみさんは僕と出会えて変われたか、なんてとても聞けない。言葉を変えて、出会えてよかったのか、思い切って聞いてみよう。
「なるみさんっ! ……いない」
すぐに周辺に目を配るが、姿はない。
らしくもなく思考を巡らした結果がこれだ。しかし反省するより先に探さなければと、先日の買い物で買ってもらった携帯を取り出して発信する。しかし繋がらない、馴れない携帯を使うより足で探したほうが早いと最初に思いついた教室へ向かう。逸れる以前からお互いが目的地としていた教室、きっといるだろうと思ったが、クラスメイトの姿はあってもなるみさんの姿はなかった。次の場所をと踵を返したところで甲高い声が響いた。
「あぁああの!」
驚いて声のした方に目を向ければ、黄金色の髪を2つに纏めた、とても同級生、あるいは上級生には思えない少女が僕を見ていた。
彼女が声の主だろうか?
「……えぇっと、私、かな?」
「あ、はい。……っとその、き、如月さん、ですよね?」
「え? えぇ、そうですけど」
なぜこの少女は僕の名を知っているのか、考える間もなく答えがわかった。
「……よっかた。白鳥さんが貴女を探していたのですが……」
よっかた? とは何か。気になったがそれよりも気になる情報を口にしていた。
「なる、白鳥さん、どこにいったかわかるかな?」
「そ、それは……ガーデニングエリアへ……」
「ん、行ってみるよ、ありがと」
そう言いながら僕は走り出した。
「……あぁぁぁ、教室で待っていてと……言ってたのに……」
小柄な少女が言っていたガーデニングエリアは正門から校舎に向かう途中、左手に見えていた。校舎の中を走るより、中庭を抜けたほうが早く安全。花壇が作る道を抜け、大きな桜の木の横を通って南側の校舎に入る。廊下を走り抜けていると、前方に保健室が見えてくる。なるみさんがいる可能性は低いが、大森先生に探していることを伝えておけば入れ違いになった時の保険になると保健室に入ることを決めた。
扉を開けるとそこには大森先生と腰を覆い隠すほどの髪を有する女性いた。そこまではいい、しかしなぜ見知らぬ少女は少しだけ頬を赤めながら制服を脱ごうと、肩を露出させているか。思考は停止、けれど開けたばかりの扉を本能的に閉めることができた。刹那、止めてしまった足も自動的に動いた。なるみさんを探す為ではなく、この場を1秒でも早く離れるために。
「待ってくれゆみくんっ! 誤解なんだ!」
悲痛な叫びが耳に届くも、僕はそれをなかったものとした。
気が付けば、ガラスをドーム状に張り巡らせたガーデンハウスの前にいた。どの経路を使ってここまで来たのかわからないが、肩で呼吸を整えなければならないほど、全力で走ったことだけはわかり、2つの懸念を抱く。1つは全力で駆けているところを見られている可能性、もう1つはその間になるみさんとすれ違いになっていること。前者は陸上部だったとか言えばいいとして、後者が杞憂でなかった時が困る。今一度 携帯に連絡してみようとするも結果は同じ。携帯での連絡は諦め、たどり着いてしまったものは仕方ないと、とりあえずガーデンハウスの中に入る。
走ったばかりということもあり、ハウス内はかなり暑く感じた。僕は首を締め付けているリボンと第一ボタンを解いた、リボンは無くさないようにと無造作に手首へ括りつけて奥に足を進める。少し進むと葉に水滴を付いている植物があり、誰かが水を撒いたことが伺えた。その人がなるみさんの行方を知っているかもと探した途端、なるみさんによく似た人が優雅にお茶をしているのを見つけた。
実際のところ、8割方 なるみさん本人なのだが、逸れる前まで纏められていた髪は下ろされ、昔から付けている蝶のような形になったリボンも今は外されている。しかも着ている制服が生徒会役員専用のものになっているではないか。この短期間に何があったのか、近づいていくと僕が声をかける前に彼女は振り返った。
「……ユミ、どうしてここに?」
本人であることに胸を撫で下ろす。
「それはこちらの台詞ですよ。教室にいないし、携帯も繋がらないし、大変でしたよ」
「レイナに会わなかったの?」
名前に覚えはないが、もしかしたらという人物には思い当たる節があった。
「金髪の?」
両手で拳を作って頭に乗せて聞いてみれば、それがツインテールの意味だと理解したなるみさんは少しだけ笑ってから頷いた。
「会ってここに向かったと聞いたので飛んできましたんだけど……」
「……そう、あの子に教室で待つようにと伝えてもらう予定だったのだけれど……」
聞いていないという表現は正しいが間違ってもいる。正確には聞く間も惜しんで走り去ってしまったのだ。レイナさんには悪いことをしたと、いない相手に心中で謝罪。そしてこれ以上レイナさんの印象を悪くさせない為にも話題を変える。
「それで、どうしてこちらに?」
「その件の子に水をかけられたのよ」
驚きは隠せなかった。行為的に人が嫌がることをするような子には見えない。むしろ逆で、嫌がることをされそうな感じであった。そんなことを考えていると、なるみさんは水を被る経緯を口にした。
「まぁ逸れた貴方に連絡しようと前を見ずに歩いていた私にも原因はあるのだけれど」
言葉遣いこそ棘がないが、口調と視線には棘があったが、決して僕だけが悪い、といいたい訳ではない。互いに反省すべき点はあり、巻き込んでしまったことを謝らなくてはならない。
「レイナさんにはあとで……」
謝っておきます、と続けるつもりだったが、なるみさんの背後から近づいてくる女性を見て言葉を失った。
桃色のふんわりと軽く波打つ髪におっとりとした顔、背筋を伸ばしてお腹を包むように手の平を重ねて立つ姿はまるで教科書に出てくる絵のような立ち姿。その美貌に言葉失った訳では断じてない。僕は彼女の名前を知っている、同時に彼女もまた僕の名を知っていた。
「あら、もしかしてユウくん?」
「アスカさんっ? どうしてここに?」
混乱のあまり、不用意に答えてしまった。ここでは由美であることを忘れて。失敗したと気づいたのはなるみさんの冷めた視線に気づいたときだった。
「私の記憶違いじゃなかったら? ユウくんは男の子の筈だけど……」
歩きながら口を動かすアスカさんはなるみさんの隣にたどり着くと足を止めて、視線を少しだけ落とした。
「もしかして切ったの?」
何をとは言うまい。言えば主導権が完全にアスカさんのものになる。しかしなんと切り返せばいいのかわからず、沈黙を貫くことにした。
「その辺にしてくれるかしら?」
待っていたと言わんばかりに、途端になるみさんは口を挟む。
「はぁ~あ、どいつもこいつも、年食ってつまらなくなったわね」
アスカさんは心底つまらなそうに息を吐き捨てた。
鳳飛鳥――おおとりあすか―― 一見、誰にでも優しく常に笑顔を振りまき、そして人が嫌がることも率先してやるような人間に見えるが、実を言えば違う。
「昔はもっと、阿呆丸出しの反応してくれたのに、あぁ~」
他人を貶めることを好み、また他人の不幸を蜜のように好む人間。
僕が大森先生の言動や行動に苦なく対応できたのも、今思えばこの人のお陰であり、感謝してもいいかなと思えるから不思議だ。
「成長とは、そういうことでしょ」
どこか遠い目で告げるなるみさん。
「ホント、つまんない人間になったわね、2人とも」
純粋で居たいと願っても、この世界は穢れが多すぎる。
「そんなつまんない人間の相手なんかしたくないの、承諾してあげるからさっさと失せなさい」
「ありがとう、こちらも」
「失せなさい」
なるみさんの言葉を遮ってまで、アスカさんは僕たちの退場を願う。なるみさんは静かに立ち上がり、一礼してから校舎へと向かう。僕もなるみさんを見習い、口を閉ざしたまま頭を垂らしてガーデンハウスを後にした。
なるみさんに追いつくや否や、僕はアスカさんの言葉について尋ねた。
「取引よ」
当然、何のと聞き返した。
「貴方の正体をばらさないようにって。けど貴方は公表したいのかしら?」
そんなつもりはないと反論しようとしたが、首筋から腹をなでる風を感じて思い出す。慌ててボタンとリボンを付け直す。
「それでこちらは何を?」
「あいつの本性をばらさないようにってだけよ」
根拠があった訳じゃない、けれどそれは嘘だと確信した。
取引は互いに利害が一致、あるいは害を受けても得られる利が魅力的でなければ成り立たない。正体がばれた時の僕らの害と、本性がばれた時のアスカさんの害、そして沈黙を通したときの利。加えて言えば公にした時、1年多くこの学院に通う者と今年通うことになった者の言動の信憑性、やはり釣り合わない。
しかし考えても答えはわからない。これ以上考えてまた逸れることになっても笑えない。一度考えることをやめて、なるみさんの後を追うことに集中した。