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おなかすいたの?

 お気の毒さま。

 ごちそうさま、と同じ調子でさらりと言い放ったロネ・カラバの一言が襟元のボタンにひっかかる。

 お気の毒さま。そんな一言だけでジルの運命を片付けてしまうにはあまりにも。他人事だとしてもあまりにもあっけなく、情がないのではないか。

 背後から健全で眩しい金の光が外の世界への出口をまっすぐに示してくる。光によって生まれた深く影の落ちた場所からジルは私にすべての憎しみをぶつけてきた。ぎりぎり、じりじりと隙あれば私の腕や足、心臓を食い千切ろうとしてくる二つのひかりからは悲鳴や罵倒が聞こえてくるようだ。闇をでろでろに溶かしたダークチョコレートの中へ左足から順にずるずると引きずり込まれそう。恐ろしいのに、これ以上は見ているのも耐えられないのに彼女に心が釘付けになって、気持ちを許さない相手が私の手を取り外へ連れ出そうとしているのにもしばらく気づかなかった。腕に触れる温かいひとのぬくもりが、指の一本一本が不気味なほど鮮明に感じられる。

 ぎし、り、ぎし、り、みし、みしみし。

 何事もなかったかのように床に転がる灰皿を横切り、元いた場所へ引き返す私とロネ・カラバの足音とジルの血走った眼球が遠ざかっていく中でジルと私はお互いを思い合った。きっと。少なくとも私は彼女を思った。会わなければ知ることもなかった環境、感情、そして紐で縛られた物語のような運命。

 開け放たれた扉が再び閉まりきってしまうまでジルは細く閉ざされていく空間の中から、たとえ水をかけても消えない憎しみを緩めることはなかった。

 手を引かれるままに外へ出ると痛いほどの強い光が全身に降りかかり、眩しすぎて目を開けることができるまで少し時間がかかった。あれほど恋しかった午後の暖かな日差しが私を包み、人の気配がざわつく心の隣にあるというのに。昔祭りでダンスを踊った懐かしい曲をアコーディオンが奏でているというのに、私は生まれてからずうっといたこの世界がひっくり返って、まったく違うところに立っているよう。

 私が今までいたのは、いったいどこだったのだろう。薄い爪の裏側、赤い段幕の影、花の国のように飾られたフルーツタルトの赤いイチゴの後ろ。

 ロネ・カラバが木の角材で閉ざした扉の向こうには明らかに私が知っているようで知らなかった世界があるのに、時は戸惑いを覚えるほどになだらかに過ぎていく。東の少女の赤いリボンを飛ばす風、足をちくちくと刺す芝、そして、私という存在。とたんに私自身がカスタードクリームの入ってないシュークリームのシュー生地のようにすかすかに思えた。

 がこん。

 荷馬車の後ろに鍵の役目をする木材をロネ・カラバの細腕が下ろし、完全にあちらの世界と切り離される。頭の中がぼんやりとして、なんだか生ぬるい夢の中を泳いでいる気分だ。

 気がつけばロネ・カラバが目の前にいて、こちらへと古い傷跡のある手を伸ばしてきているところだった。私ははっと我にかえり、肩へ着地しそうになった優しさとも下心とも区別のつかない手を振り払う。


「シシィ」


 ぱしん、と冷たく激しく、乾いた音でロネ・カラバを拒絶した。私を荷馬車に閉じ込めた男に聞きたいこと、言いたいことがたくさんあった。くちびるを開いたら、一気に言葉が飛び出してきそうだ。どうしてこんなとこにぶちこんだの。ここにジルがいるってわかってしたの。信じられない、どうかしてる。これらを全部いちどきに彼にぶつけたい。

 それなのにたくさんの言葉たちがくちびるの裏側で塞き止められて全く出てこない。食道がきゅうううっと雑巾を絞るように締め付けられ、苦いものが込み上げてくる。黙っているのをいいことに、またどうせロネ・カラバは空気も読まず一人で長々と話し出すのだろう、と思ったが、へらへらした調子のいいロネ・カラバはそこにはいなかった。

 私の前に立つ人物の浅瀬の薄い海色をしたガラスの瞳には戸惑いが波のように浮かんでいる。こんな彼の姿を見るのは初めてだった。だけどそんなことを気に掛けられるほど今の私には余裕はない。溺れたみたいに胸が苦しくて、呼吸さえうまくできない。目頭がじわじわと熱くなり、目のレンズを通して見る画面がゆらゆらと蜃気楼のように揺らぐ。


「シシィ」


 こんなやつの前で絶対に泣くものかと歯をくいしばれば、くちびるがぶるぶる震えだす。きっと私が今にも泣き出しそうになっているのをロネ・カラバは気づいている。それも悔しい。絶対に泣いたりなんてするものか。人前で泣いたりしていいのは、女の子だけだ。守ってあげなきゃいけない女の子だけ。だけど、私はそうじゃない。だから、苦しくても辛くても泣かない。泣いたりしない。絶対の、絶対の、絶対に。

 震えたくちびるのわずかな隙間から空気が入り込み、そこから塞き止められていた言葉が流れ出る。


「彼女、お父さんに名前を売られたって」


 ぼろり。ぼろぼろぼろ。

 口を開いたとき、目からはじめの一粒がこぼれ落ちた。それが引き金となって堪えていた涙が一斉に溢れてあふれて頬を駆けていく。泣かないと決めていたのに奥歯を食い縛っても、息を止めても涙は止まらない。こんな自分は嫌なのに、どうにかしたいのに、自分自身がコントロールできないことへの苛立ちがつのる。


「わ、私、だった、ら……私だったらすべてが、世界が信じられなくなる。だって、そんなの、突然現れた落とし穴に落とされたみたい。守ってくれるって疑わないでいた大好きなお父さんに突然手を離されて、呼んでも答えてくれなくて、一人で、孤独で。前も後ろもなんにもなくて、暗闇の中全部を失ったような気持ちになって……絶望しかない」


 まさか私が泣くなんて想像もしていなかったのか、ロネ・カラバは目を少し大きくしてこちらを無言で見つめてきた。

 ジルは実の父親に捨てられた。

 よれた麻袋の下の見世物となる姿より、殺されそうになったことより、その事実だけが私の中で輪を描いてぐるんぐるんと大きくなりながらループする。どれほどの孤独と、どれほどの絶望と、どれほどの悲しみたちが彼女の心をとっぷりとはちみつレモンのように漬け込んだのだろう。

 ジルのことを今聞いたことしか知らないくせに偽善者だ、と言われればそれまでだが、ジルのこれまでのことを想像すると心を悲しみが覆いつくす。私は偽善者だし、口だけだし、ジルのことを考えて泣くことしかできない卑怯者。けれどどれだけ他人に偽善者と言われても、悲しいのは嘘の欠片もない事実。そして、私は彼女の話しか知らないが、私が知らないだけで名前の呪いの前で悲しい思いをしているひとたちはもっと、たくさんいるはず。

 暗闇の中、何度無償の愛を与えてくれると信じて疑わない父のことをジルは思ったのだろう。想像しただけでもこんなにも辛いのにこれが現実で起きただなんて。耐えられなくて逃げ出したくても、名前の呪縛が死ぬ自由すら与えない。教会や学校で語られるすべての子供に平等であるべき親の愛は、どこにいってしまったのか。


「シシィ」


 何かを言いかけてすぐに止め、瞳を伏せてから左手のてのひらを上に腕を上げロネ・カラバは涙をこぼす私の姿をしっかりと目でとらえた。


「残念だけど……君は両親に愛されて愛を愛と疑わずに生きてきたんだろうけど、世の中にはそうでない親だっているよ。僕は昔から何人も見てきた。借金のために強制的に親の命令で体を商売道具にしている女の子、子供は要らないからって売りに出す母親。そんなのはまだましなほうで、子供に愛情が持てなくて生まれてすぐの……赤ん坊が川に流れていくのも見たことがある。血が繋がっていてもこういうことがあるのに、他人ならなおさらだ…君も、よく知ってるでしょ」


 ぽたり、とまた涙が頬を流れ落ちた。沸き立つ拍手の後、アコーディオンの曲調が楽しげなものから、ゆったりとしたものへと変わる。


「……あんたが何をどこまで知ってるのか知らないけど…アルカードは婚約者を守るために私の継母に名前を売ったの。他人だからひどいことしていいわけじゃないのはわかっているつもり。だけど……結果として、私は結婚前の幸せを奪った私は………私は、アルカードとマリベル、二人にとっての世界の終わりなんだよ」


 今まで誰にも話したことのないことを、ぽろりとポケットに手を入れたときに誤って出てきてしまった秘密のようにロネ・カラバに打ち明けてしまう。こんな話、誰にもする予定なかった。

 

「私がいなかったら、二人は幸せになれたのに。全部、全部私のせい」


「違う」


 研ぎ終えたばかりの包丁のように、すぱん、とロネ・カラバは私の心に根付いているものを切り落とし、言いきった。


「全部、いけないのは世界の始まりだよ。なにも考えず安易にあんな魔法を世界にかけてしまった」


「……あんたも何かあったの?」


「名前のせいで両方の手のひらに先の尖った棒を打ち込まれたのさ。痛かったよ。肉に棒がめり込んでね。串焼きみたいに貫通したんだ」


 話しながら、ロネ・カラバは両方のてのひらを私の前でひらひらと裏表にする。不自然に盛り上がった古い傷にはそんな過去があったのか。聞いているだけなのに痛さを想像してしまい、身を竦める。


「だから、君はちっとも悪くないよ、シシィ。君は悪くない」


 世界の終わりという名前を持って生まれ、初めてそのことに絶望したのがアルカードとマリベルの一件を知ったときだった。アルカードの幸せを私がぶち壊しにしたのだと、あの夜、リンゴの白く可憐な小指の爪ほどの花をぐちゃぐちゃにしてしまいたい嵐のように強い衝動に駆られた。花弁を撒き散らし、枝をばきぼきと踏みつけ、折りつけ、言葉にできない感情を叫ぶ……あの激しさを今でも体が覚えている。なのに、この突然降って湧いたように現れた男は悪くないと言う。私は悪く、ないと。


「ところで、いつまでその格好のままでいるつもり? 僕としては全く構わないけど、できるならそういうのは二人っきりのときに独占したいかな」


 またこの男は空気も読まず何を言っているのか。はじめはそう嫌な気持ちになったけれど、格好、と指摘され下を見ると、びりびりになったシャツの下から黒い下着がほとんど見えるような状態。私はずっとない胸をさらし、ロネ・カラバに向き合っていたのだ。


「ぎゃあ!」


 カエルを二輪車で踏んづけたときと似たような声を上げ、私は胸元を隠すために両腕で抱き締めて、ロネ・カラバに背を向けるとその場にしゃがみこんだ。頭に熱がかぁーっとのぼる。

 信じられない。こんな姿になっているのを放置していたなんて最悪だし、ロネ・カラバにしても、もっと早い段階で教えてくれたならダメージは軽くすんだかもしれない。


「あっれー、気づいてなかったの? てっきりファンサービスだと思ってたよ。違ったんだ」


「最低! 最悪!!」


 さっきとはまた違った意味で泣きそうだ。本当に散々な感謝祭だ。私は改めて世界の始まりを呪った。


「あ、ちゃんと持っててくれたんだー」


「はあ!?」


 なんの話をしているのか。しゃがんだまま首を捻って後ろを向けば、見覚えのある押し花を手にロネ・カラバが機嫌よさげにしている。私の隣にはミートボールみたいに丸くなった私より大きな荷馬車の汚れた車輪。道中で押し潰され巻き込まれた雑草は土にまみれ、緑の先端がぴょこんと顔を出している。


「勘違いしないで、急いでポケットに突っ込んだだけなんだから!」


「えーっ、しちゃうよねー」


「ねー、じゃなくてね……そういえば、なんでいつも押し花送ってきたの? こんな乙女みたいな手紙送ってくるの、あんただけだったよ」


「乙女って……内緒にしたかったんだけど僕、実は破滅的に字が下手くそでさ」


「……はあ」


「なんていうかこれが最大で唯一の欠点とでも言うのかな。とにかく破壊的でね。僕が書いたメモは三日後には僕自身が読めないんだけど…君に初めて書いた手紙はちゃんと手書きで送ったんだ。そうしたら、聞いてよ。二週間後僕のところへ返ってきてさ。何かと思ったら目の下に隈を作った配達屋がどうしても読めなくて、家族や友人と二週間かけて解読した後に僕のところに持ってきてくれたってわけ。これからは相手に手渡ししてくれって頼まれちゃって。ま、想定内だったけどね。他のことはいろいろできちゃうんだからこれくらい可愛いものだよ。欠点が一つくらいあった方がきゅんとするだろうし。うん」


 イチゴの花の押し花をひらひらさせて、満足そうに眺めながら彼は自分で自分に納得していた。きゅん、てなんだ。


 やっぱりロネ・カラバにはついていけないが、こんな男だから大胆にもブルームの商品の中に紛れ込むなんて恐ろしいことをやってのけたのだろう…いや。そこじゃない。私こそ何を納得しているのか。お腹の空き具合からして今は二時手前といったところだろうか。日々の楽しみであるお昼も食べずにロネ・カラバといるだなんて随分もったいない時間の使い方だ。この瞬間にでも世界の始まりを取り返したい。今ごろヘレナも冷蔵庫の中の異変に気づいてヒステリーに発狂しているかも。ちょうどジョゼフが薬を持ってきてもらったところだからタイミングがよかった……いや。いや、違う、そうじゃない。危うく本来の目的を、ことの起こりを忘れるところだった。


「ロネ・カラバ、あんた、私の下着姿見たんだから世界の始まりを即刻返して!」


「イチゴの花の花言葉って知ってる?」


「無視すんな!」


 とぼけられることこそ想定内だったが、それでも腹が立つ。ぎゃんと犬のように私は牙をむいた。つもりだった。


「やっぱり、もっともっと怒らせたくなっちゃうなあ」


「ちょっ……!」


 丸まったままぎゃんぎゃんとわめきたてる私の正面にロネ・カラバが回り込んできたため、膝をぎゅっと抱き抱えるが、強引に腕を引っ張られて立ち上がることを余儀なくされる。私はさらにない胸元へ腕を強く押し付けた。この男は何を考えているんだろうか。


「嘘だよ」


 片手で前をなんとか死守する私の腕に、何かふわんとしたものと、顎先に他人の指の熱が当てられた。


「君は、僕が君のことをどんなふうに思ってるか知らないんだ」


 瞳の奥にある光を指を突っ込んででも奪おうとするようなロネ・カラバの表情に私は返す言葉を探しあてられず、ただただ彼を見つめる。なんてことはない。ロネ・カラバなのに、ロネ・カラバだというのに。ほんの一瞬でも私は彼から目を離すことができなかった。

 どこから取り出したのか、胸に押し当てられたものを受けとると、それはコーラルピンクのつるんとした生地。私の手がそれを持ったのを確認すると、彼はまた私の後ろに回る。

 まさか、と立ち上がり、両手を使って布を広げるとそれは、可愛い女の子しか着てはいけないデザインのドレス。私は絶句した。

 ウエストがきゅっとしぼられ、その下はあまり広がりのないよう、けれどふんわりと仕立てられている。広く開いた襟ぐりは肩へ引っ掛かるようになっているのだろう。シンプルな形だけど、生地が上質だから品よく見える。

 私はドレスの色とは正反対に青ざめた。さーっと引き潮のように上から下へ血の気が引いていく。


「わ…私、こんなの着られない」


 冗談ではなく、本気で着ることができない。ましてやピンク。女の子の色、ピンク。ピンクの服なんて小さい頃母親が作ってくれたスカート以来だ。きっと、マリベルならなんなく着こなせるのだろうけど私には無理。そう。マリベルなら似合う。このドレスを着てにっこりと笑う彼女をアルカードはさらに愛しく感じるだろう。だけど私はだめだ。


「じゃあずっとそのままでいる?」


「まさか。あんたの服を貸してよ」


「冗談きついなあ。裸で歩けっていうの? それともドレスは僕が着たらいいってこと?」


「そうしたいならそうしたら」


「遠慮しておくよ。だってそれ、ただの変態でしょ。そういう趣味ないからさ。でも、他の趣味なら教えてあげてもいいよ。暗くなったらね」


「もう私家に帰りたい」


 手の中にあるドレスに顔を埋める。家に帰るにしてもこんな姿では歩けやしない。ましてや、もし万が一にでもアルカードにこんな姿を見られでもしたら、彼はなんとも思わないにしても私が嫌だ。そうなるとドレスだ、ピンクだ、なんて言ってはいられない。明日着る予定だったものが今日になっただけだ。


「着る気になった?」


 周りを見渡して立ち上がった私に明るい声を向けてくるロネ・カラバが憎らしい。そして、同時に彼は靴を差し出してきた。甲が浅くきらきらと輝くそれは、地上に一番先に落ちてきた滴が朝日が反射したときの光を何日分もかき集め靴の形に固めたようだ。


「いい!? これは仮装だから! 私はこれから仮装するの」


 さすがにブーツのままドレスを着ることはできないので、強引に靴を受け取り、自分に言い聞かせるようにロネ・カラバへ主張した。仮装だと思えばなんてことはない。ピンクのドレスを着た私を笑いたかったら笑えばいい。仮装とはそういうものだ。


「はいはい」


「誰も来ないように見張っといてよ」


 荷馬車がたくさん並び、ひとも大勢いるというのに、見世物小屋の周辺はひとの気配すらなかった。このいかにもというピエロのペイントが原因だろうか。私はドレスで胸元を隠し、荷馬車の裏側へまわる。山へと繋がる生い茂った木々と荷馬車の間でもう一度周囲を確認して腹を括ると、ぼろぼろになった服を脱ぎ捨てた。

 ジィーッ、と背中のファスナーを下ろし袖を通したところで私は荷馬車を見つめた。この、木材一枚隔てた向こうにジルがいる。彼女は今何を考えてどんな気持ちになっているのだろうか。おそらく、私たちは二度と顔を合わせることはない。金や銀のスパンコールをちりばめた星座の運命に定められていなければ。


「やっぱり! サイズもぴったりだね! ほんとよく似合ってるよ、ブルーと迷ったんだけどそっちにして正解だった。これからはずっとそういう格好したら? 僕も蹴られずに済むしね」


 渋々ロネ・カラバの前で仮装姿を晒せば彼は嬉しそうに目を輝かせる。これには驚いた。本当に、きらっとしたのだ。対する私は居心地が悪いったらない。肩が開きすぎているからすーすーするし、何より眼下に広がる長いドレス。これを今私が着ているのかと思うと恐ろしくてたまらない。鏡で自分の姿を確認できないのが不幸中の幸いだ。


「ねえ、聞き忘れてたけどこのドレスどうしたの。なんかおかしくない? もしかして私を閉じ込めてる間にどこかから」


 ぐうう。

 ドレスの出所を追求しようとしたところで、盛大におなかが鳴って私は口を開けたまま固まって、その後を続けることができなくなってしまった。


「おなかすいたの?」


「そう! 悪い!? なんにも食べてないんだからおなかくらいすくわよ!」


 恥ずかしすぎて食ってかかるが、ロネ・カラバは私をからかうわけでもなく、ふん、と首を傾げる。最悪だ。私は両手で自分の両頬を包む。下着姿を見られただけじゃなく、おなかの音まで聞かれてしまうなんて。


「ならこれ、あげるよ」


 これ、と後ろに手をやると、ロネ・カラバは私に何かを差し出してきた。それは彼の手のひらより小さな白い袋に入った何か。袋のうっすらと油で汚れている。


「なにこれ」


「いいから」


 袋とロネ・カラバを交互に見、私はそれを受け取った。かさり、乾いた音を立てた袋の中を見たとき私は一瞬呼吸を忘れてしまうほど驚き目をみはり、もう一度ロネ・カラバを見上げる。彼はいいから食べたら、という具合に首を傾けた。いいや、まさか。そんなわけがない。だってこれはもう二度と誰にも作ることができない物のはず。それとも、ただ似せて作られただけ?


「どうしたの、このアーモンドフィナンシェ」


 たっぷりのバターとさらさらの小麦粉、砂糖にミルク、それぞれが持つ本来の香りが混ぜ合わさった優しい香りの中に素焼きアーモンドの素朴な香りが加わって、どんな悲しいことの後でも手を出さずにはいられないように出来ている。焼き加減といい形といい、私の手の中にあるアーモンドフィナンシェは願っても祈っても、どれだけのお金を積んでも手に入らない、両親が小さなキッチンで作ってくれた四角い焼き菓子そのものだった。


「嘘」


 忘れていたはずの古い記憶が香りを通じて心の奥から、私という体を作る血液や肉、ありとあらゆるものの奥から当時のままぶわっと湧き上がって溢れてきた。

 小麦粉で白くなった黒いエプロン、古いオーブンから放たれるぼんわりとした熱。泡立て器の先端からたらたらと垂れる黄色の生地、ボウルの下の白い布巾。きれいに割れた卵の殻、計量カップ、海辺に落ちているシェルではなく四角い型。ああだこうだと笑いながら話している父と母が、椅子の上で二人を見ている私に気づき微笑んでくる。整ってはいるわけではないが優しい顔立ちの父に対し、母はきれいで、指先なんか砂糖細工みたいだった。顔は違うのに、同じ笑顔で二人は私を見つめる。そうしていつもこう言うのだ。可愛いシシィ、どうしたの。幸せみたいな顔して。

 幸せみたいな顔、というのがこのときはわからなかったけど、確かにこのとき私は幸せだった。父がいて、母がいる。普通のことだと思っていた。ずうっと、この時の中で私は過ごしていくのだと疑いもしなかった。けれど、違った。

 ずっと食べたかったのに、すぐに口に入れることができず、しばらくアーモンドフィナンシェを眺めていたが少ししてからゆっくりとくちもとに運ぶ。これが他の店のものかどうかなんて食べたらわかることだ。

 くちびるに甘さが触れ、さっくりとした外側に歯が入り、しっとりぱさつきのない中身にたどり着いて一口目。口の中で優しくほろほろとほどけていく。

 温かで、優しく、心に寄り添い、端から端まで喜び、幸せ、希望、願い、安堵、笑い。あの頃と変わらない鮮やかな虹がはっきり、くっきりかかる。どこまで遠くに走って遊びに行っても振り返ればいつもそこにちゃんとある私の家族そのもの。

 香りが鼻から抜けたときに確信する。間違いない、正真正銘、これは昔のブルームで売っていたアーモンドフィナンシェだ。

 また涙がこぼれそうになるのを堪えて、私はぱくり、二口目に入る。遠い過去の中にだけしか存在しない両親がひどく近い場所にいるように感じる。温かい。雪降る朝暖炉で踊る炎より、午後の窓を通して入ってくる陽の光より。三口目で両親の夜中目が覚め、腕を求め泣く子供のように夢中になり、四口目でフィナンシェを頬張ったまま、泣いた。鼻が詰まって味がわからなくなってしまうのが嫌なのに涙は止まらない。人前でなくなんて初めてのことなのに、一度決壊した涙の生まれる場所は簡単には修復しないらしい。

 やっぱり、これがブルームの味だ。

 今お店で出している洋菓子たちは確かに花があって見た目こそ可愛らしいけれど、ただそれだけ。納得できない商品を両親が作り上げた店に出している自分が恥ずかしくなってきた。私がまだ大人でないからと義理の母がすべて取り仕切っているけれど、権利はもともと私のものだし、目をつぶっていたブルームのために働いてくれている工場のひとたちに休みをきちんと与えない彼女のやり方は間違っている。店舗を拡大しても人件費がかかるから工場の人は増やさないとも言っていたからこのままじゃあどうなるか目に見えている。

 利益ばかりを求め大量生産する洋菓子はブルームのものじゃない。

 見た目は地味でもひとつひとつの作業に愛着を込め、笑いながら作る。それがブルームの洋菓子。今店に出ているケーキも、ドラジェも、マカロンもフリュイも。ブルームの看板の下にある他の店の洋菓子だ。

私は私の心に従わず、父の遺言を守るため本当にしたかったことをひた隠しにしてしまっていた。

 くるりと先端の丸まったリボンや花柄の包装紙で包まなくったってブルームの洋菓子はそれだけでおいしいし、心に虹がかかるのだから、外側じゃなくてもっと内側を大切にしなきゃいけないのに。アーモンドフィナンシェを飲み込むたびにずっともやもやとしていた違和感がすっと消えてなくなるような気がした。


 焼き菓子に夢中になっていて忘れていたもう一人のことを思いだして正面を向くと、ロネ・カラバは泣きながら洋菓子を頬張る私をじっと見つめていた。なんだかばつが悪くて目を擦り彼を見据える。泣いてばかりいる私のことを今度こそ茶化してくるはずだ。そうしたらなんて返そうか。身構えているとロネ・カラバは


「シシィは家族や大切なものがどんなものなのか知ってるんだね。それ、おいしかった? 気に入ったのならまた作ってあげる。焼き菓子だけじゃなくてケーキも作れるよ。君のために三段ケーキ作ってあげる。軽い甘すぎない生クリームで包んだ、フォークが止まらないくらいおいしいやつ。ね、僕のことちょっとは好きになってくれた?」


 と、想像していたようなことはせず、また私に腕を伸ばしてきた。それを拒否しないでいると親指が私の涙をくっと拭い取る。触れられることが嫌で嫌で堪らなかったのに、今はすんなりとロネ・カラバを受け入れることができた。

 それよりこの焼き菓子を彼が作った? まさか。いろんな可能性が浮かんだけれど、考えるよりは聞いた方が早いし、今度こそ聞き出したい。私はお腹の真ん中に感情を寄せ集め置いて彼を見据えた。


「ロネ・カラバ、あんた一体誰なの? おかしいことばっかりだよ。アルのことだって、父の名前も。このアーモンドフィナンシェだってレシピも残ってないから亡くなった私の両親以外は作れないはずなのにどうしてあんたが持ってるの。ちゃんと答えて」


 初めて私は怒りや邪推のないありのままの素直な気持ちでロネ・カラバに挑んだ。彼がしたことは許せないけれど、彼もまた軽い口調で自分の中に何かを隠しているのかもしれない。

 ロネ・カラバはくちびるをきゅっと結び、一拍置いてから話し出した。すぅ、と息を吸い込む音がする。


「僕は君を世界で一番必要としてる男だ。何度もそう言っているのに、君はこれ以上何を知りたいの」


「冗談は大概にしてよ。だって」


「冗談だなんて。あのね………わかった。君の名前。君の名前にはもうひとつ、魔法がかけられてる。僕に名前をくれたならそれを解いてあげることができる」


 同じことを言わせるなとばかりにロネ・カラバは早口になりかけたが、私の顔を見て感情を落ち着けるともとの口調に戻る。その事より、私の頭は後半の話でいっぱいになった。

 

「もうひとつの魔法……?」


 そんなこと誰にも聞いたことがない。世界の終わりという呪いの他にまだうんざりする呪いがかけられているとでもいうのか。私はドレスを指でぎゅっと握った。


「そう。それがなんなのかは解いてみないとわからない。ただ、しっかりと鍵のかかった簡単には解けない魔法だ。もしかしたら、一生そのままかもしれないし、こればかりはやってみないとわかんないな」


「今、できるの?」


「いいや。君の名前を僕にくれたときに一緒に解かないとできない」


 魔法を解くって。

 いくら押し花を作ったり、洋菓子作りが得意だといっても、そんな大それたことをできるわけがない。包みをほどくのと訳が違うのだ。

 おそらく、ロネ・カラバも私のように秘密を持っている。

 誰にも話せないような、たとえ話したくても話したら恐ろしいことが起きてしまいそうで口にできない、胸の中にぴったりと白いアイシングで張り付けていることが。


「ほんとはあんた、知ってるんでしょ。私の名前を使ったら何が起きるのか。みんなが話すようなおかしな噂じゃなくて、誰も、私さえも知らない本当のこと」


 アコーディオンの演奏が止み、あたりは人々の話し声に包まれた。子供の泣き声、大人の真剣な話、すべてがごたまぜになってひとつの音を作る。私は、私たちは遠く離れたところからオーブンに突っ込まれる前の生のパイ生地の上、それを見下ろしているようだった。ぶん、と突然やってきたコガネムシが肩を掠めて町の方へ飛んでいく。

 虫の羽音が完全に聞こえなくなってもロネ・カラバは私の問いに答えない。またはぐらかす気でいるのだろうか。視線だけを横をずらし、地面を眺め、体の重心を左足から右足に移す。そうしてから、ようやっと、私の方を向いてくれた。

 教えて、お願い。

 目だけで訴えると、ロネ・カラバはうん、と一度首を縦に降った。


「僕は君の対になる存在。君の名前でこの呪われた世界を終わらせられる」


 これが彼の秘密。

 どっしりと重みのある言葉の前に、私はくちびるの中心が冷たくなるのを感じた。


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