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稀に見る嘘つき

アリアンローズへ10月31日提出後11月02日誤字を訂正しました。

 枯葉の下に隠れるように低く落とされた声、簡潔な言葉。これまでとは明らかに違う彼の態度に彼がケーキではなく、本当に私の名前を奪いに来たことが改めて明確になる。求婚者たちの定型文みたいなカードに混じっていた押し花は、やはり彼らと同様、純粋なものではなかったのだ。彼の目的は私に生まれながらにかけられた呪い。キスだって挨拶がわりでできるわけだ。

 水に溶けない油のように混沌の浮かんだ瞳の奥に対し怯みそうになるのを爪先に力を入れてぐっと堪え、私は私を壁とロネ・カラバ自身の間で追い詰めてくる彼を見上げた。


「嫌よ」


 上ずった声はまるで下手な女優の演技のように聞こえる。それでもなんとか私は自分を奮い立たせた。


「あれ。おかしいなあ。僕の予定だと君の名前をここでもらって、夕方の便で出発するつもりだったのに」


「私の名前なんかどうするの? 私だってこの名前がどんな特別なものなのかわからないのに」


 またいつもの軽い調子の彼に戻ったロネ・カラバは目を丸くする。わからないの、こんな簡単な答えが? とでも言いたげだ。


「うーん、まずくちびるを切り取って未来でも語ってもらおうか。それともディナーに心臓を焼いてガーリックバターでいただくとか?」


「それ噂でしょ。本気にしてるの」


「君自身、君の名前の持つ力がわからないのに、噂だって言い切れる?」


 それはそうだ。反論できずに私は空気だけを短く飲み込む。そうだけど、それほどまでに強力なものは弱虫で意固地な私の体には宿っていない。そんな気がする。


「あーあ、仕方ないなあ。教えてもらえるまで君のこと僕のそばから離せなくなっちゃったよ」


 壁に突いていた手を宙に浮かせ、私からも距離を取ると、ロネ・カラバは仕方ない仕方ない、と繰り返した。何が仕方ないのだろう。私を解放し、彼はチョコレートの像の在処を話して私を諦めここから退散する。それだけで済む話だ。


「いやいやいやいや。おかしいから」


「おかしい? どうして? 僕にしてみたらシシィの方がおかしいよ。なんで僕に君の本当の名前くれないの? 僕の名前は今すぐにでも君にあげられるのに!」


「いやいやいや。いらないし。大体、本当の名前ってそういうものじゃないでしょ」


「へぇ。ならどういうものなの」


「本当の名前は、愛し合っているひとたちだけの秘密……そういうものじゃないの」


 自分で答えておきながらだんだん恥ずかしくなって、視線をついっと横へ動かす。どうして私がこんな話を押し花好きな男としなくてはいけないのか。


「えっ、なら問題ないよね」


「話聞いてた!?」


 愛するどころか体も細っこくて、顔も女の子みたいで、流行りの服を選び、香水をつけた男なんてまるで興味がない。同じ条件の猫か鳥の方がよっぽどいい。


「ひどいなあ。僕のどこが不満? このあたりじゃ認知度が低くてもあたりまえだけど、家だってまあまあの名があるし、領地も広い。料理もできる。トマト煮込みとかね。それにチェスも得意だし、顔だってそんなに悪くないでしょ」


「会って二日しか経ってないひとを愛せるわけ、あ、り、ま、せ、ん!」


「トリスタンとイゾルテは? 知ってるだろ、二人は出会って三日間くらいで愛が芽生えて全うして」


「あのひとたちは例外!」


 疲れた。一話すと十で返ってくる攻防戦のような会話にぐったりして思わずため息を落とした私の前でロネ・カラバは首の後ろを掻いていた。


「大丈夫。悪いようにはしないからさ」


「心臓食べるとか言ってるひとが!?」


 ぱっ、と私の指を勝手に絡め取るとロネ・カラバはチョコレートの像たちの隙間をぬって冷蔵庫の外へと私を引っ張っていく。その勢いで自分の声が耳の横で流れた。


「なんなの、勝手にキスしたり連れ出したり! 私行かない!!」


 ロネ・カラバは開けっぱなしの棺の横を過ぎ、重たい扉を片手で易々と閉め外へ出たが、工場内にはやはり誰の姿もなかった。高い天井に私の声が響く。ぐんっと力をこめて手を高くかかげ振り払うと、ロネ・カラバはアルカードがエプロンを置いていた作業台の前で振り返り、立ち止まった。斜陽を含んだ色の前髪が揺れる。


「あっれー、もしかしてシシィ、僕のこと意識しちゃったのかな? 君の周りの男はどうか知らないけど、僕だったら……君にキス以外のことも教えてあげられるよ」


「なっ……!!」


 ぐっと顔をキスできそうな距離まで近づけて、ロネ・カラバがまた低い声で囁きかけてきたため、私は慌てて頭を後ろへ引いた。頬の筋肉がひきつり、それ以上は言葉が出てこない。こんな辱しめを受けたのは生まれて初めてだ。タイプでもなんでもないし意識なんかするわけない、その腰から下がってる剣だってどうせおもちゃなんでしょう、と訴えたかったのに、そうする前に突如としてスプーンですくわれるように体がふわんと浮かび上がった。


「ひゃ……何すんの!?」


 決して軽くはない私をロネ・カラバは楽々と横に抱え普段通りに歩き出す。香水の香りがぐっと近くなり、視線の高さには彼の顎。噛みつくように叫んでも彼は動じない。足が地につかないふわふわとした不安定感。やり場のない両手を胸の前で小さくする。


「君は騎士付きのお姫様だからね、特別大事に運んであげる。それも世界中が欲しがってるお姫様だ」


「そんな柄じゃないし! ほんっと…下ろして、下ろしてってば!」


 これ以上の勝手は許したくなくて、ロネ・カラバの肩をぐいぐいと押し、宙で足をばたつかせて空気を蹴った。彼の細い腕は一度暴れる私の抵抗にぐらついたが、すぐに持ち直してそれからはびくともしない。なおも抵抗を続けながら、細いキャンディスティックみたいな腕のどこにそんな力があるのだろうかと私はくちびるの裏で悔しさに歯を食い縛った。


「いいの、世界の始まりがどうなっても。一日中炎天下に置いておいてもいいし、僕が腕から食べてもいいんだけどなあ。あっ、腕じゃなくて足にしようかな」


 正面を見据えてロネ・カラバが工場の出入り口を通過する。天井がばっと明るくなり、薄暗い場所から急に強い日差しを浴びて目が眩む。

 

「いいわけがないよねぇ。明日の十時にはお城でお披露目がある。アスランのお店の名前に泥を塗るような真似、君はできないはずだ」


 今、なんて?

 睫毛の先端まで驚いて逃げ出すことを忘れてしまった。アイストローチをなめたときのようにすうっと喉の辺りがひんやり冷たくなる。声のした方を見上げれば、口角を上げたロネ・カラバのくちびるは悪いことを考えている人のもの、そのものだった。


「どうしてあんたがお父さんの名前知ってるの……?」



「あれ、適当に言ったんだけどね。当たっちゃった? アスランなんて名前、流れ星を見れる確率と同じくらいのことだから、そんなことがあってもおかしくないんじゃない」


 さし入れてもさし入れても、指の隙間を通りすぎる水のように、つかまえどころのない、話せば話すほどに謎ばかりが深まる男を私は呆然と見つめた。奥行きのある、秘密と考えを隠した瞳。父の名前を適当に言ったようには思えなかった。頭の中にある線に何かがぴん、と小さく引っ掛かる。

 一度にわっと津波のようにして押し寄せてきた一連の出来事を脳が処理しきれずにいたため、私はただくちびるを半開きにして彼を眺めることしかできなかった。


そんな私を不思議に思ったのか、ロネ・カラバは足を止めた。

 私がぼんやりしている間に彼はぐんぐん先へ進み、気がつけば木の下に繋いであった黒い小さな馬車の前に立っていた。

 これは…おそらく病院の先生の、ジョゼフが所有するものだ。長い尻尾を振る馬のおしりに白い模様が一つだけある。間違いない。継母のために薬をわざわざ届けにきたのだろう。彼女は精神安定剤を飲んでいるから。


「急におとなしくなっちゃってどうしたの? そっちの方が運びやすいし助かるけど。あ、でも君のきれいな足が揺れてるのを見るのは悪い気しなかったよ。むしろよかったかな……ところでいつもどうしてそんなに短いの履いてるの? 大人に意地悪されても文句言えないよ。例えば、僕とか。君の名前だって、ずっと黙っている気かもしれないけど、最悪体を暴いたらわかることだから」


 暴いたらわかる。それがどんなことを意味するのか今日不覚にも最低な初めてのキスをした私にだって理解できる。ロネ・カラバは意味ありげにふっと笑ってから再び正面へ向き直った。

 生まれたときに授かった名前は、通常普段ひとに見せることのない場所に刻まれている。それを見せるのは人生をまるごと捧げられる、愛する相手だけ。

 その場所を暴くと彼は言っているのだ。なんとも思っていない私とキスだってできる男だ、そんなことは何でもないのだろう。

 ブルームの一人娘であるのに、店の心配をそっちのけにしてしまって申し訳ないけれど、私はこれから自分の身に起こることへの恐怖を感じていた。これまでは未遂で終わってきた諸々の件が、相手は違えど今回は最後まで遂行されようとしているのだ。

 ナイフを突きつけられ、刺されたら死んでいたかもしれない、麻袋に入れられて運ばれたら一生ルッペンには戻ってくることができなかったかもしれない。これまでは、しれない、で終わってきたことが現在進行形で自分の身に起きようとしている。

 怖い。

 こんなときのために一人でも自分を守れるようアルカードに剣術を教わったっていたのに、私は剣を向けてきたわけでもない、ただ私の体を暴くと言ってきた男の前で動くことができないでいる。ここはすでに冷蔵庫の中ではないからチョコレートの像だってない、思う存分暴れることだって可能なはずなのに。

 表からありがとうございました、というヒルデの声が聞こえてきた。店は忙しいだろうし、工場の従業員たちはここから離れた休憩室にいる。ヘレナは行きつけの洋裁店までドレスを取りに行くと行ってまだ戻ってきていない。その証拠にヘレナの馬車が工場の脇から消えている。

 アルカードは。

 アルカードも今は休憩室だろう。裏口から丘を下ればしばらく誰も私がいなくなったことに気づかない。だけどだめだ。彼を頼るなんて。

 ふっと頭の中にどうして助けを呼ばなかった、という昨日のアルカードの声がよみがえった。助けて、と一言放てばきっと彼は助けてくれるだろう。けれどその四文字がどうしても言えない。例え聞こえる距離ではなくとも。母に奪われた名前のせいで、不本意に助けられたくなかった。


「シシィが今ここで名前をくれるならすぐにでも世界の始まりの場所を教えるし、君だって解放してあげる」


 私を下ろし、腕だけをしっかりと拘束したまま手慣れた様子で馬車からハーネスを外すと、ロネ・カラバは満開の紫の花をつけた木を背にして馬の手綱を握って問いかけてきた。


「僕に名前を寄越すか」


 名前を寄越すか。

 その言い草に私は苛立ちを覚えた。ちょっと待って。寄越す? くださいって頭下げるんじゃなくて? しかも吹いたら飛んでいきそうなコットンキャンディみたいな男に?

 火花みたいなちりっとした怒りはすぐに全身へ着火し、私は眉間に皺を寄せてロネ・カラバを見据えた。

 このまま連れ去られるのも、大切な感謝祭のチョコレートの像を失うのも、鈍いのために体を暴かれるなんてそんなのはまっぴらごめん。大体、私は誰かに守ってもらうような砂糖菓子で出来た女の子じゃあない。チュールをたくさん重ねたドレスも、形のいい上品な色をしたきれいなリボンも、顔に絵を描くような化粧だって似合わない。


 さっきまでの自分はどうかしてた。

 恐怖心の中で縮こまって小さくなっていた私が消え失せてしまうと、目の前がぱっと開けて見えなかった周りの様子がよく見えるようになり、車輪の脇に木から落ちてきた小さな花に混じって長さ五十センチほどある太めの木の枝が転がっているのが目に入った。

 こんな棒じゃあロネ・カラバの剣にはとうてい太刀打ちできないのはわかっているけれど多少の時間稼ぎにはなるだろうし、キャンディスティックよりは実用的だ。さあ、やるなら今しかない。


 腹の下にぐっと力を入れ、息を吸い込むと私は彼曰くきれいな足を高く上げて無防備な男の腹部を思いっきり膝で蹴りつけた。

 むにゃりと柔らかいわけでも、かちかちに固いわけでもないひとの肌へ膝が食い込む。一瞬のことだったけれど嫌な感触だ。ロネ・カラバは油断していたのか、低く呻いて私に蹴られた箇所を抱え込み、一歩後退する。

 ぐっと掴まれていた腕が自由になり、急いで棒を拾って彼に向かって構えた。髪が乱れて前に一束、垂れ下がる。激しい運動をしたわけじゃないのに心臓がばくばくと音を立てていて、浅い呼吸を繰り返した。いくら身を守るためとはいえ他人を蹴るなんて初めてのことだ。腕にはロネ・カラバに押し付けられた指の跡がくっきり残っている。

 なかなかいい場所に膝が入ったのか、ロネ・カラバはげほげほと噎せ、膝に手をつきながら下げていた頭を持ち上げた。

 ヒットしたことに安堵も歓喜も出来ず、苦しげな彼を見て少しだけ、ほんのひとつまみくらい少しだけ、申し訳なく思ってしまった。


「なるほど…君が他の女の子たちみたいに長いドレスを好まないわけだ……構えもいいね。結構な先生でもついてるのかな」


 御者の椅子に持っていた馬の手綱を引っ掻けたロネ・カラバはまだ辛そうにしていたけれど、軽い口ぶりは相変わらずだった。馬がちらりと長い顔をこちらに向ける。


「世界の始まりがどこにあるのか教えて!」


「手が震えてる。構えはしっかりしてるけど、先生に教わったのも基礎の基礎だけ…違う? それとも、先生は基礎の基礎しか君に教えたくなかったのかなあ?」


 自覚はなかったけれど揶揄するように指摘されはっとする。

 アルカードは継母に、刺繍や料理以外のことを娘に教えるなと言われていたところを、私が無理に頼み込んで稽古をつけてもらっていたのだ。やや凹凸のある棒を握る手に力がこもった。


「……私の名前は誰にもやらない!」


 もうどうにでもなってしまえ。半ばやけになりながらロネ・カラバの右肩を狙い、勢いをつけ足を踏み出した。駆け出すとじゃり、と小石が足の裏で鳴り、体が風の中に突入する。

 ロネ・カラバは剣を引き抜くでもなく、構えるでもなく、こちらをただ見ているだけだ。私みたいなのは楽勝だとでも言うのか。棒を振り下ろせば当たる距離まで来て、狙いを定め破れかぶれになって力一杯振り下ろした。

 がしり。

 下ろしきる前にものすごく強い力が棒に加わる。肩に当たる直前でロネ・カラバが棒を手で止めたのだ。

 

「一生? 君の好きな相手にも?」


「そんなひといない!」


 あと少しなのに、どんなに力をこめても私の手が震えるだけで、彼が片手で握る棒はびくともしない。これが本物の剣だったらまた違ったかもしれないのに。ロネ・カラバは秘密を隠す森の緑色をした目で私を見下ろす。

 無駄だとわかってもなんとか一撃は食らわせたくてさらに棒を握る手に力を加えたが同じことだった。現状は変わらない。


「……嘘つきだなあ。君は稀に見る嘘つきだ」


「だとしてもひとのこと言えんの!?」


「知ってる? 類は友を呼ぶ。だから嘘つきの周りには嘘つきが集まるんだ。ひとにつく嘘は信用をなくす。だけど自分につく嘘は自分をなくす」


「きゃっ……!」


 ロネ・カラバの腕にぐっと力が入った次の瞬間、ばきん、と音を立て目の前で棒が折れてしまった。信じられない。こんな優男のどこにそんな力があるというのだろうか。まっぷたつになった折れ口は白く青臭く、木の繊維でぎざぎさしている。

 まださっきのように抵抗する術はあったはずなのに根本的な力の差を見せつけられてまたもや怯んでしまった私の手をロネ・カラバは社交ダンスのときのように紳士的に取ったかと思うと、がしゃん、と銀鼠色をした鎖のついた腕輪を私の手首に装着した。

 ちょっと待って、これじゃあまるで奴隷だ。それにバッグすら持っていない軽装の彼のどこからこんな重たい荷物が現れたのか。私は驚きただ口をぱくぱくさせて彼を見やる。


「これで決まりだ。しばらく付き合ってもらうよ」


 ロネ・カラバが青空より爽やかに鎖を持ち直し馬に近寄りステップに足を掛ければ、彼に引っ張られた金属がじゃらん、と重たく鳴り、必然的に私の体も引き寄せられる。まさか、このまま馬に乗った状態で私を引きずる気だろうか。それこそ拷問だ。町へ通じる道は木々に囲まれ山道も同然で、木の根が道の真ん中から顔を出しているところだってあると言うのに。


「ほら、おいで」


「わあっ!」


 愛犬を呼び寄せるように鎖をぐっと引き、いつの間にやら馬上にいたロネ・カラバは上半身を屈めて地上から私の脇に手を入れると、かなり強引に引っ張り上げた。きちんとした対応をこの男に求めた訳じゃない、けれどロネ・カラバは私の腹部を馬の背にひっかけて、その上で手綱を握る。体の真ん中が馬の背で引っ掛かっているだけ、という横抱きにされるよりさらに不安定な状態だ。手で革製の鞍を掴み、足はぶらぶら、靴のサイズが少しでも大きかったら脱げてしまいそう。視線もぐんと高くなり、紫の花のおしべとめしべが見えるくらいの距離にある。

 まさか、このまま走るんじゃないよね、という私の気持ちが顔にそっくりうつっていたらしい。


「動いたら落ちるからね」


「そんなこと言われなくてもわかってる!!」


「ならよろしい」


 何がよろしい、だ。今はじっとしている私だけどされるがまま、ロネ・カラバに流されるのを認めた訳じゃない。動けるのならなんとかしたい。しかし、腕にはいかがわしい鎖、ここは馬上。どうしていいのかわからない。アルカードならきっとうまい具合に逃げ出す方法をぱっと考え付くのに。

 あまりにも不本意。あまりにも不甲斐ない。そのため口の中が苦くなった。何が一ヶ月は一人で大丈夫、だ。一ヶ月どころか一日も持たなかった。悔しくて馬を殴りたい衝動に駆られるが、しない。ジョゼフ先生の馬に罪はないから。息を吸い込むと土埃と汗の混じった馬の匂いがした。


「おっ、シシィ。これからデートか」


「……先生!」


 声をかけられ、すぐ先を見ればいつからそこにいたのか、この日差しの中外套を羽織る白い髪と髭のジョゼフの姿があった。今は心療内科でヘレナや他の患者さんを診ているが、昔はお産専門でおぎゃあと産まれた私を取り上げてくれたときの写真はもっと髪も多くておでこのしわも髭もなかったし、もっと話し方や立ち振舞いもしっかりとしていた。なんでも、この前は自分の家と隣の家を間違って帰宅したらしい。お互い年月がたった、ということだろう。

 いつもヒヤシンスみたいな黄色いシャツに茶のベスト、優しい黒い色のパンツに穏やかな黒い色の外套、という同じ服装で、外套のポケットには一口サイズのクロスグリのジャムパイをむき出しで入れているようなひとだけど、今日の彼は私にとって救世主だ。心なしか輝いて見える。救世主は自慢の髭を顎に添って撫でた。


「それとも駆け落ちか?」


「まさか! 先生、私拐われそうなんです!」


 腕にはまる拘束具と鎖をじゃらん、とひとつ揺らし示して訴えた。独特な口調のゆったりとした喋りが私を焦らせる。ロネ・カラバに何を言われてもされても涙は出てこなかったのに、私は泣きそうになった。


「拐われる? そういうごっこ遊びか。若いな。おまえも惚れたやら腫れたやらそんな年になったか」


「どう間違えたらごっこ遊びに見えるんですか!?」


「けれど人の馬を使うなら承諾を得てからにするのが道理ってものだ。わかってると思うがな」


 必死で訴える私の横をすうっと通り過ぎ、馬の首をしわしわの手で撫でながらジョゼフは彼所有の馬に勝手に騎乗した男の顔を見上げた。

 信じられない、私の周りには普通の感覚を持った話の通じる相手はいないのか。ふと、長い睫毛の丸い目をした馬と視線がぶつかる。ここまできたらこれも運命のように思えてきた。


「ザウエル……?」


 悲壮感でいっぱいになっているところへ、ジョゼフが知らない男の名前を口にした。

 ザウエル。ザウエル?

 ここにいるのはロネ・カラバだ。やはり、年月に伴い頭がぼんやりとしてきているのだ。

 首を上げて彼の表情を確認すると…彼は、ぺらぺらの赤ん坊の爪より薄い言葉の尽きない口を真一文字にしてにこりともせず、頬を固めジョゼフに向かって人違いです、と放つ。

 でもそれもほんの僅かな時間だけのことで、ロネ・カラバはジョゼフにひとの良さそうな顔で笑いかけると私の腹部を腕で抱え、反対の手で下がっていた上半身の鎖骨部分から肩にかけて腕で押さえるとぐっと持ち上げてきた。

 

「落ちちゃうじゃない!」


「言っただろ、大事に運んであげるって。シシィがいい子に賢くしてたら落ちないさ」


「ほんと……腹立つ!」

 

「君が僕にそんな感情を抱いてくれて嬉しいよ。ほら、とりあえず足を開いて。良い意味で」


「あんたって最高に気持ち悪い」


 あのまま洗濯物みたいな状態でいるのは嫌だったのでロネ・カラバに腰をしっかり固定され、馬上でまず上半身をきっちり起こしてから足を持ち上げ、鞍を跨いだ。どこかの金具部分でむき出しになった足を擦ったらしく、じりり、と太股の内側が痛む。


「言っとくけどあんたに従うわけじゃないから」


 首を後ろに回し、肩に顎を乗せてロネ・カラバを睨み付けるが、彼はやはり相変わらずで余計腹が立つ。絶対に世界の始まりを見つけて、隙を見て逃げ出してやる。


「では馬をお借りします」


「感謝祭の後は産院がとくに混み合うから早めに行けよ、ザウエル」


「僕はそんな失敗しませんよ。それにザウエルでもありません」

 

 最早二人の会話に口を挟む気にもなれない。

 ぐっ、とロネ・カラバの踵が馬の横腹を押すと、賢い馬は走り出す。

 私が世界の終わりの名を持っていることを、唯一私の両親の他に私の本当の名前を知っているジョゼフは手を振って盗まれた、いや、彼にとっては貸し出した愛馬を見送っている。病院までは距離があるのに歩いて帰る気なのだろうか。もしかしてそこまで考えていないのかもしれない。ジョゼフは反対の手でポケットからジャムパイを取り出していた。馬は風を全身で切り、青々としたハシバミを追い越してどんどんブルームから遠ざかっていく。じゃらん、じゃららん、と腕の鎖が鳴った。

 前へ向き直り、なるべくロネ・カラバに接触しないよう背を浮かせるが、彼が後ろから手綱を握って馬を走らせている以上、完璧に離れるというのは落馬を意味した。


「なんで私が棒を向けたとき、剣を抜かなかったのよ」


 時折カッコウの鳴く木々に囲まれた道を進み、香水の匂いに鼻が慣れてきた頃、私はぽつり後ろにいる男に問いかけた。

 実際そうだから仕方がないが、女だから大したことないと見越してのことだったのか。彼の答えはこうだった。


「ああ。僕の剣、実は抜いたら花が咲く仕組みになってるんだよね。腰から下げといたらそれっぽく見えるしいいかなと思って。ピンクのバラと真っ白なユリと…なんかそれっぽい花がぱって咲くんだ。可愛いでしょ。後で君にも見せてあげ…え、見たくない?」



 どうしてこうなった。

 女の子みたいに会話の内容があっちへこっちへ飛んでいき、ぺらぺらとおしゃべりが止まらないロネ・カラバであったのに、彼は今黙って馬を町の方へと走らせている。どこか他の土地出身だと言っていたはずなのに、厄介なことにルッペンの地理を知り得ているらしい。ブルームの裏から町へ下りるとき、曲がり道を誤ると船着き場の方に出てしまうのだけど、彼はそこを躊躇せず町に続く道を進んだ。

 いったいぜんたい、私や私の周囲のことをやけによく知る彼は何者なのか。 亡き父の名を知ることは調べれば可能だとしても、アルカードに対する私の気持ちは誰にも話したことがない。ヒルデにだってそうだ。彼女は勘が良いから気づいただけであって。きっと口外だってしない。そんなにロネ・カラバは呪われた私の名前が欲しいのか。手に入れて、何を望むのか。

 私は深い底無し沼へ注ぎ込むようため息をつく。不覚にも銀の鎖で犬のように扱われ、世界の始まりのチョコレート像を期限までに取り戻せる確証もなく、いつ体を暴かれて名前を横取りされるかわからない状況に不安を感じないわけがなかった。 そして自ら口にした拐われた、という表現には若干の違和感と首の骨に絡み付いてとれない綿のようなもやもやを感じながら、身動きのとれない私は黙ってロネ・カラバに後ろから抱き締められる体制でいるしかない。初めは鼻につく香りでしかなかった蒼い色が目に見えるような香水にも徐々に慣れはじめてきたことに気づいた。

 山道を下りきると樹木がざっと開ける。さらさらと流れる小川にかかる石橋の上を渡ればカツ、カツ、と鳴る馬蹄の音が小気味良く響いた。渡りきってしまうと、たくさんの生活感に溢れる住宅がぎゅうぎゅう詰めに並ぶ光景が広がる。

 窓から窓へは洗い立てのタオルやシャツなどの洗濯物が伝い、はためいている。そのまま丘へ視線を上げると木の隙間からブルームの工場が見え、煙突からは白い煙がもくもくとのぼっていた。

 誰か私が消えたことに気づいたひとはいるだろうか。もしくはジョゼフが誰かに話したとか。シシィはデートに出掛けた、と。

 気が遠くなって私は何度目かわからない息を落とした。それも大勢のひとの声やアコーディオンが奏でる軽快な音楽にかき消されてしまう。

 家の並ぶ居住地の手前には芝が敷き詰められた広場があり、そこで毎年旅芸人の一座が黄色いテントを張って余興の練習をしているのだ。

 赤色に白抜きでヴィートルート一座、と書かれた大きな荷台のついた馬車が何台も止まり、ごうごうと赤毛を逆立て燃え盛る火の輪くぐり用のスタンドがついた輪っかに目を奪われる。長い鼻をのばす白い子象の耳には飾りのためのピンクドットのリボン、つぎはぎだらけ、もといカラフルなベストを着た小さな猿は自分のことを猿だと思っていないふうに見える。

 他にも荷台から荷台へ細いロープを渡し、空中散歩の練習をする夜がふける前の青色をした派手な衣装の少女。同い年くらいだろうか。彼女なら途中でひっかかった洗濯物をなんなく救助することが出きるだろう。そして、それを遠くから目を輝かせて眺める近所の子供たち。頑丈そうなライオンの檻の前で鞭を振るう固太り調教師、カゴに入ったリンゴを上品に運ぶ女性。あのリンゴをシナモンのきいたアップルパイにしたらきっと美味しいと思う。けどそれは象のごはんだった。

 たくさんのひとたちが銘銘に仕事をこなしているため、裏からやってきた私たちに気づいたひとはいないようだ。


「楽しそうだね。シシィもあんな衣装着てみたら? 絶対似合うと思うよ」


 あんな、とロネ・カラバが指を指した向こうには赤い下着となんら変わりないような衣装を身にまとった長身の髪が長い女性が大きな銀細工の施された鏡の前で自分の姿をチェックしているところだった。

 ああいう服は綺麗な女のひとしか着てはいけないと思う。ましてや私みたいな前か後ろかわからないような体型の人間が選ぶべきものではないし、そもそも女の子らしい、女性らしいものには抵抗感がある。明日も色こそ白と控えめなものの、レース何重にもあしらわれたドレスを着なくてはいけないという罰ゲームにしか思えないイベントが待っているというのに。


「ケンカ売ってんの? あんな服絶対着ない」


「どうしてそう取っちゃうかなあ。僕の言い方が悪かった? 君に似合いそうだったからそう言っただけなのに。笑ってよ、笑った顔の方が可愛いし、シシィのドレス姿見てみたい」


「そんなに笑った顔が好きならドレス着て鏡でも眺めとけば」


 手綱を引き、馬を止めるとロネ・カラバは近くにあった手綱を引っ掻けるのに良さそうな木の枝を見つけ、そこへくくりつけた。私を縛る鎖まで巻き付けるのかと思ったが、鎖はロネ・カラバの手にぐるぐると巻かれ、握られたままだった。


「勝手にこんなところへ連れ出して悪かったね。でも君のおかげで助かったよ。ご褒美も何もなくて申し訳ないけどこれで許してくれるかな?」


 ぶるぶると濡れた鼻を鳴らす馬の横に立つと、ロネ・カラバは馬の目の下辺りにくちびるを落とす。なるほど、私は馬と一緒なわけだ。


「そんな顔しちゃってシシィもしてほしいの?」


「次同じことしたらあんたの口の中にバニラエッセンス突っ込むから」


 完全に歩みを止めて草を食み始めた馬の背を跨いでステップに足を掛け、地面へ降りた。ロネ・カラバが手を差しのべてきたけれどそれは無視。

 アコーディオンのどこか懐かしく引き出しの奥を引っくり返したときに出てきた小さな宝物達のような調べを聞きながらわしゃ、と柔らかい芝生の先端から地面までを足の裏で踏みつける。このとき私はいつも申し訳ない気持ちになる。


「さて」


 左手を腰に当て、首を右に傾げながら右手で私を繋ぐ鎖を握るロネ・カラバは私のことを上から下まで舐め上げるように眺めると、今度は視線を山手の方へ向け首を左に傾け、ふん、と何か考えているようだった。


「シシィは髪を伸ばしたことないの?」

「…小さいときは長かったけど。それが何」


「あまぁいアカシアの蜂蜜みたいなきれいな金髪だからさ。伸ばしたら似合うだろうなって…わっ、怖い顔! ほめてるんだよ、妙に勘繰らないでほしいなあー」


「勘繰られるようなことしてるのはどこの誰」


「えっ、僕!?」


「ええっ!?」


 足してみたり引いてみたり、割ってみたりと計算なのか素の状態で言っているのかは知らないが、ロネ・カラバは鎖をぐるぐると巻いて私を彼の腕にぴったりと寄り添わなくてはいけない距離までにしてしまうと、先生の馬を残し一座のいる広場の脇へと進んでいく。それも何台か大きな荷馬車が止まっているところの一番端にある古い荷馬車の方へ。 ふっと鏡の前に立つ女性と鏡越しに目が合う。彼女は私たちになんか興味はないのかすっと夜の始まる前の紫色を乗せ、小さな星をまぶした薄いまぶたを伏せてしなやかな腕を伸ばしてポーズを取る自分の姿をチェックすることに没頭していた。


「これからどうする気」


「君次第だよ」


「さっきも言ったけど私の名前は誰にもやらない。諦めて世界の始まりの在処を白状したら」


「金貨より、名誉より君の名前がほしい。だけどあの甘ったるくて喋りもしない男は僕には必要ない……ね、言ってることわかるでしょ?」


 ロネ・カラバにぐっと瞳の奥までのぞき込まれて、私は眉間に力を入り、ぐっと喉にものがつかえ返事に詰まってしまった。足元に若く柔らかい芝生の先がちくちくと刺さる。

 自惚れている訳じゃないけれど、なんだか、こう、映画や、お芝居の中は勿論、町の中で見かける恋人を持つ男性が好きなひとに対して向けるような、そんな眼差しをしている気がする。会話のあちこちにアラザンみたいに散りばめられた言動といい、かなり思わせぶりだ。

 いいや。まさか。

 そんなことがあるわけない。一瞬でもそんな風に考えてしまった自分に吐き気がする。馬鹿だ。私は大馬鹿だ。この男は私の名前を奪いたいだけ。そして、様子をうかがいながらからかっているだけだ。


「本当に君って反応が可愛いね。誰かと付き合ったこととか、僕みたいに言い寄られたりしたことないの」


「言い寄る……!?」


 驚いて声も私の体の中身もひっくり返ってしまう。無意識にロネ・カラバから距離を取ろうとしたけれど、鎖がそれを許さず、それどころか腰を掴んで引き寄せられる。じゃらん、と鉄がぶつかった。


「そんなに反応がいいと嬉しくなっちゃう」


 彼は声をワントーン低く落としてまたじっと私を見つめたまま、ネイビーのシャツについたポケットから鎖と同じ色をした鍵を取り出した。


「なにそれ」


「なんだと思う? 一番、不思議の国が開く鍵、二番、人喰い伯爵の閉ざされた部屋の鍵、三番、どれでもない」


「三番」


「残念、外れ。答えは四番の鎖の鍵、でした」


「四番なんて言ってないじゃない!」


 めんどくさいのと騙されたのとで苛立ちが増し、ついロネ・カラバの肩をぱん、と手で押してしまった。けれど彼はびくともしないし、あははと感謝祭を楽しむ子供のように笑って再び歩きだす。


「言う前にシシィが答えちゃったんだよ。君って本当におもしろいね、僕の名前あげるから君の名前ちょうだい」


「さらっと言うな」


 連れられるまま私の足は彼に従順だったけれど、束縛されていない自由のきく足でロネ・カラバの足を裏側から膝を曲げて蹴ってやった。


「わっ、それなんて技? かっこいい! それも剣の先生に教えてもらったの? 僕も使っていい?」


 先程同様ちっとも怒らず、反対に目を純粋にきらきらさせるロネ・カラバにぐっと息を飲む。

 ぐったりすると同時に、気持ちの隅で彼との会話を少し楽しんでいることを自覚してしまい、私は打ち消すように慌てて首を横に振った。これも彼の計算、策略、筋書きのひとつなのかもしれない。だいたい、世界の始まりを勝手に持ち出した上、私の名前を力付くでも奪おうっていう野蛮なひとと一緒にいて楽しいだなんて間違っている。私は怒りと嫌悪を込めて彼に接するべきであるのだ。これが正しい在り方だ。


「えっ、何……?」


 人気のない大きな荷台の後ろで足を止め、ロネ・カラバは私の腕を取ると、錆びた腕輪に鍵を差し込んだ。かちゃん、と丸が割れて腕から鎖が離れると一気に軽くなる。

 突然解放された私の脳の上でクエスチョンマークが踊った。訳がわからず、ロネ・カラバに説明を求める視線を向ければ、彼は肩をすくめただけだった。

 いつの間にか私たちは広場の一番端に並んだ古い荷台の大きな荷馬車の前に来ており、これもヴィートルート一座所有のものだとばかり思い込んでいたが、この古い荷台は幼少期の私を震えに震え上がらせ悪夢まで見た見世物小屋のものだった。薄気味悪いピエロが私ににたり、と笑いかけている。


「すこーし、用事があるんだ。


だから君はここでおりこうさんにして待っててくれるかな、もちろん、そうするよね? だってここで逃げ出したらブルームは町中どころか国中の恥さらしになっちゃうもんね、ねっ?」


 首を傾げながら念を押してくる年上の男に対し、不覚にも可愛いと感じてしまい、私はいっそ消えてしまいたくなる。いつから私はこんなふうになったのだ。おかしい。間違っている。


「だから、ここで待ってて。絶対に迎えに来るから」


 ここ、とはどこか。そんなことを考える暇もなく、私はロネ・カラバに背中を痛くない程度の力で押された。

 いつそうしたのか。

 目の前にある荷馬車の後ろ扉が半分待ち構えるように開いており、明かりひとつない真っ暗な闇の中へ私は体まるごと放り込まれた。


「なっ……ロネ・カラバ!!」

 

 固い板の上に膝をついて振り返ろうとしたとき、外の光がすうっと細くなっていき、ロネ・カラバは大きな扉を閉めてしまった。

 ばたん、どすっ、ゴッ。 音からするに、角材で完璧に荷台の中へ閉じ込められてしまった。中は恐ろしいくらいの暗闇で、幼い頃に感じた恐怖が蘇ってしまい、胸のうちがざわざわする。 自身の腕の形も見えない空間の中さまようように手を伸ばして触れた扉の内側から拳を強く叩きつける。

 よりによってこんな場所にとり残されるなんて最悪だ。早く出たくて、外の光を浴びたくて必死に存在証明を叩きつける。その度にどん、どん、と音が中に響いた。

 闇は恐ろしい。夜に無理矢理に抱かれた気持ちになる。しかも、ここは見世物小屋の荷馬車だ。

 どれだけそうしていただろうか。恐怖心をそのまま板にぶつけまくっていたけれど、無駄だと悟り、私はその場に立ち尽くした。あれだけ賑やかだから、きっと誰も気がついてはくれないだろう。無音の空間になってしまうと、今度は闇が重圧をかけてくる。吐いた息さえ押し潰されてしまいそう。

 隔離されたここは全くの別世界のようで、アコーディオンやひとびとの声も遠く、こもった土埃と湿った木材の匂いがする。しん、とした無音の状態も私を圧迫してくるようだ。

 闇に形を奪われた場所でにどんどんと追い詰められて、隅に身を寄せ座り込む。

 闇は嫌いだ。闇を連れて、取り替えのきかない家族を奪い去った夜も嫌い。血の繋がらない継母に流れる血は冷たく緑色をしているんじゃないかと思うほど私とは別人で心の距離も天国より遠い。

 両親の他に優しく感謝の念を抱かずにはいられない友人はいるけれど、それでもどうしたって埋まらないものもある。

 寂しかった。

 父を亡くしてから、私はずうっと渇いてきりきりと肌を刺す孤独の中にいたように思う。常に断崖絶壁の、一歩踏み外したら落ちてしまいそうなぎりぎりのところに立っていて、ときおり、ぱらりぱらりと砂や小石が谷底へ落ちる。振り返っても手をさしのべてくれるひとは誰もいない。

 両親が生きていてくれたなら。温かい、帰る場所があったなら、そこはどんなに幸せの香りとぬくもりに満たされていることだろう。

 

「助けて、アルカード」


 膝の間に頭を置いて、私はとうとうずっとしまっていた言葉を外側へ、世界へ解放してしまった。温かい息が顔と足の間でこもる。口の中から現れた言葉は今日までいくら口を大きくあけてもあまりに体積があるため喉でつかえて出てこなかったのに、出してしまえばあっけないものだった。

 ずっとアルカードに助けてほしかった。

 あの晩。ロネ・カラバと初めて会った晩に彼に助けられたときは私が知ってる言葉では表せないくらい胸が震えるのを感じた。知っている言葉でいうなら、嬉しかった。けれど、こう示すとあっと言う間にあれだけの感動が陳腐なものに変わってしまうから、あえて嬉しいとは言えない。とにかく、あの瞬間は胸がたっぷりの水や光に満たされてあふれ出るほどだった。

 強さと優しさを兼ね備えた理想のひとに無条件で愛される、顔も声も生年月日も知らないマリベルのことが私は羨ましくて仕方がなくて、どろどろした嫌な気持ちを持ったことだってある。嘘。正確には、今も持っている。あなたの愛するひとと、これから一緒にいられるのは私、きっともう会うことはなくて、あなたはうちで使うカカオと手紙を寄越すだけ、と。ふと、普段は心の奥底に沈んでいる最低な自分が顔を出すことがある。その度に自己嫌悪に陥った。

 私がブルームの売れ筋商品であるエンド・オブ・ザ・ワールドを口に出来ないのは、カカオに込められた私を恨むマリベルの呪いに飲み込まれるんじゃないかって軽く、でも強く、

根深く深層心理まで思っているからだ。笑われるかもしれないけど結構本気。町の人や洋菓子にうるさいヒルデさえも絶賛するチョコレートケーキの中にはひっそりと、でもしっかり他人の怨恨という中毒性のあるスパイスが入っている。

 他人の嫌な話は自分のことではないから、お気の毒様と同情しても内心はそうでない。自分に関わりのない辛い話はひとによっては、ああだこうだと自分勝手な見解をつける良い時間潰しとなり、自身の幸せを見直すきっかけともなり、優越感に浸れるものでもある。

 そういう物質がケーキの製造担当も、ヘレナさえも知らないうちにエンド・オブ・ザ・ワールドには混入しているのだ。

 マリベルは私を恨んでる。


そうでなかったらマリベルはどこまでもまっさらで清らかな生まれたての聖女で、私は陰湿でとことん嫌な女になってしまう。だから、彼女には私を町中引きずり回して極刑で殺してしまいたいと思うほど憎んでもらわなければいけなかった。

 と。こんなふうに考えてしまう私だからきっとアルカードには愛されることはない。マリベルは私が考えるような酷いことを思ったりはしない、だからアルカードの胸の深い場所にずっといられる。

 もういっそのこと、ロネ・カラバに名前を打ち明けてしまおうか。

 闇の生ぬるさに溺れてしまいそうになり、膝を抱える腕に力を入れてさらに小さく虫のように丸まり縮こまる。こんな名前を持っているから苦しめられる。何が起きてももうどうだっていい、本当の名前を解き放って気楽になりたい。

 みしっ。板が軋む音がして、肩がひとつ、跳ね上がった。顔をあげて正面を向くが、闇がすべてを守っているため何が起きたのかわからない。ただ軋んだだけなのならいい。いつロネ・カラバは戻ってくるのだろうか。早く角材を外して太陽の光で闇を暴いてほしい。


「誰?」

 

 薄いガラスのような、ボンボンの砂糖菓子の部分のような、ぱきんとすぐに割れてしまいそうな女の声奥から聞こえてきた。おどおどした、頼りなげな印象だ。


「ごめんなさい、悪いことしに来た訳じゃないんです」


 侵入者だ、と大事にされては困る、私の後ろにはいつだってブルームの看板がついて回るのだから。


「あの、なんていうか、私、閉じ込められてしまって」


「苛められているの?」


 闇の隙間を縫うようにして声が帰ってくる。こんな光の全く入らないところにいるなんてどういう待遇の、または身の上のひとなのだろうか……余計なことを詮索しようとして自分が恥ずかしくなる。


「苛め……そんなところです」


「ならあたしと一緒だね。あたしずうっと酷くされているの、まるでひとじゃないみたいに。団長の犬のほうがよっぽどいい生活してるわ」


「犬のほうが? まさか」


「冗談でもなんでもない。本当。あたしたち見世物小屋の見世物は団長に名前を奪われて一生ここから逃げ出せない」


 そこではっとした。もしかして、彼女が名前を奪われた見世物小屋の怪物と呼ばれる存在なのでは…? 見世物小屋の荷馬車さえ恐ろしかった私はメインである見世物を見に行ったことなどあるわけがなく、



テントの隙間から中を覗き見た男の子の話も耳を塞いで聞こうともしなかったくらい。

 女性の声を聞く限りでは年配でも、とびきり若いわけでもなさそうだ。


「あなたの体にも特別な場所に本当の名前が刻まれているでしょう? あたしの名前はね、そうじゃなかった」


「え…?」


 衣擦れの音がして彼女が立ち上がり、その場から移動しているのがわかった。


「あたしの名前はひとからすぐ見える場所にある。例外だったの。それに家が貧しくてね。その日暮らしの生活に耐えきれなくなった父に小さい頃名前を売られてしまった」


 ぐっと胸が詰まった。

 父というのは、彼女の実の父親なのだろうか。全身を安心して預けられる存在であるはずの父が子供の名前を生活のためとはいえ、見世物小屋の団長に売り付けるだなんて。こういう事例があることは知っていたが、まさか、その本人と出会うことになるとは。

 それに、名前が見える場所にある。そんなひとが存在するなんて聞いたことがない。みんな、本当の名前は貞操と同じで守るべき場所にあるとばかり思っていたのに。

 しゅるり、しゅるり。衣擦れの音が止まって、何かを彼女が擦った。すると次の瞬間には小さな火が灯り辺りがぼんやりと柔らかな光で明るくなり、闇と恐怖は部屋の隅へ追いやられる。

 姿を現した女性は私に背を向けて立っていた。埃を被ったランプが天井から吊り下げられ、揺れている。

彼女は所々破れた長く質素なワンピースを着て、その肩は十メートル以上離れたここからでもわかるほど華奢、とういより骨張っていた。

 そんなことより、私が驚いたのは彼女の頭部だ。すっぽりと首の下までよれた麻袋を被っている。彼女の口調や物言いが普通、つまり道にいて買い物をしているような普通のひととは違ったら、確実に取り乱していた。

 間違いない。私は確信した。彼女が見世物小屋の怪物だ。

  

「ひととまともに話すの何年ぶりだろ。あたし、ちゃんと喋れてる?」


「もちろん」


「よかった。あたしジル。本当の名前よ。あなたに言ったって、もう団長に名前を取られちゃったから平気」


「本当の名前って初めて聞きました。私はシシィです」


 両親の本当の名前も私は知らない。何度か教えてとねだったけれど、パパとママだけの秘密だからと結局教えてもらえなかった。

 話しながらずっと恐れていた血まみれピエロの荷馬車の中の様子を見渡すと、ジルの足元にはプラスチックの皿と欠けたコップが転がっており、そこを狭く区切るようにして低い棚が置かれていて、棚より先は磨かれたテーブルに椅子、と清潔を保たれているようだった。他にもギターや、棚には家族写真、銀色の犬の餌入れ、大きな空っぽの水槽。ソファーには柔らかそうなクッションが並んでおり、壁には海の絵が掛けられ、その横にリードと鞭がぶら下がっている。ジルが言っていた犬のほうがいい生活をしている、とはこういうことか。

 酷いにも程がある。背中からじりじりとジルの名前を奪った人間に対し怒りが込み上げてきた。

 こんなにもあからさまに差別を受け、暮らしているひとと会うのは初めてのことだが、ジルの言う通りまるでひとではないような扱いだ。これも世界の始まりが作った呪いのせい。私に何か出来たらよかったのに、何にも出きることがない。世界の終わり、だなんて名ばかりだ。


「シシィって、あんた、スペンサー家の……?」


「あ、はい」


 ずっと背を向けて彼女はこちらを向こうとはしない。小さなくるぶしにほつれたワンピースの糸が垂れ下がっている。


「団長が話してるの聞いたわ、スペンサー家の一人娘が世界の終わりって名前持ってるって」


「でも名前だけですけどね。私はお菓子を少し作るくらいしか出来ることは」


「嘘」


 話している途中だった私の声を二文字でぴしゃりと跳ねのけた彼女はさっきまでとどこか様子が違うのを肌でぴりり、と感じ身を強張らせた。


「世界の終わりだったら、特別な力を持っているんじゃないの」


「いいえ、そんなものは全く」


「嘘。あんたの血で刻まれた名前を洗ったら契約が切れて自由になれるって聞いたわ」


「血……!? そんなことがあるわけ」


「嘘。うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、うそうそうそうそうそうそ」


 荒々しく叫んだと思ったら、今度はぼそぼそと独り言のようにジルは同じ言葉を繰り返した。体がぶるぶると小刻みに震えていて止まらない。寒さから来るものではなさそうだ。頻りにうそ、と繰り返すジルに私は説得を試みる。


「名前だけなんです。血で洗うとか、心臓を食べるとか…そんなことしても呪いも消えないし、死なない体にもなりません。特別なことは何も出来なくて、ほんと、どこから広まったのか噂ばかりで。私自身驚いているんです。信じてもらえないかもしれませんが、本当になんにもできません。あっ、でも、もしよかったら近いうちに私が焼いたレモン風味のマドレーヌとキャラメルのシフォンケーキ持ってきます! 生クリームもたっぷり! そうだ、それ以前に甘いもの、お好きですか? もし苦手だったらチーズケーキをお持ちしますけど」



 一人でペラペラと背を向けるジルに捲し立てたあと、はっとする。まるで私、このしゃべり方はロネ・カラバのようだ。いや、そのものだ。何をするかわからないジルに恐怖を抱きながら、ひどい嫌悪感を感じて私は両の二の腕を手のひらで擦る。


「あの、ジル……?」


 お願いだから、先ほどと同じように平素に戻って話をしてほしい。普通に喋れてる、って。ジルがどうするのか、緊張で爪先をびりびりさせながら見守っていると、彼女はゆっくりと振り返る。真の恐怖は暗闇ではなく、暗闇の中に隠れていたのだ。 正面を向いたジルの使い古した麻袋には、丸い小さな黒い穴がちょうど目の部分にふたつ、開いており、襟ぐりは伸び、鎖骨は水が汲めそうなほど窪んでいる。首の色は肌色でなく淡い珊瑚のピンクや痛々しく腫れた赤とまだら。油をかけられた火傷のあとだ。

 これが名前を奪われた者の哀れな結末のひとつ。

 幼いうちに近所の男の子はテントの隙間からジルを見たのか。現在より数倍も弱虫だったあの頃の私だったら一人では眠られなくなるほどショックを受けたはずだ。その証拠に私の足はこの瞬間にも逃げ出したくなっているのだから。


「きれいな服、羨ましいな」


 ぽつり、ジルが呟く。出会ったとき、数分前と同じ口調のジルだ。落ち着きを取り戻してくれたのだろうか。それからケーキはどっちがいいんだろう、シフォンケーキか、それともレアチーズか。ゼリーが好きなら濃いコーヒーゼリーに朝霧みたいなミルクムースを乗せてもいい。


「きれいな肌、きれいな髪、きれいな顔」


「そんなこと……」


「あるわけがないって!?」


 突然怒りを巻き付けた大きなかなぎり声をあげたジルに私の心臓がぱんと固まりひっ、と短く息を飲み込んだ。ケーキどころの話ではない。神経という神経が収縮してしまった。体が、脳が、緊急事態だと悟り警鐘を内側でわんわんと鳴らす。ロネ・カラバはどこで何をしているのだろう、少しの用事なら戻ってきてもいい頃合いだ。洋菓子のレシピだって、少しは少し、ほんの短い間のことを指すのにこれは一般的に少しとは呼ばない。そして、洋菓子というものは繊細であり、分量ややり方を少しでも誤るととんでもないことになる場合が多い。


「あたしを見て! 肌も火傷でぼろぼろになって台風の前は必ず痛むし、服なんて雑巾と同じ。靴はもう何年も履いたことないし、ケーキの味なんかとうに忘れたわ!」


 あまりの勢いに圧倒されて言葉が出なかった。かける言葉もない。私が何を言ったって気休めや、哀れみになってしまう。

 ジルの荒々しさは、すべて心の内側からやって来ていて、これまでどれだけ大勢のひとにやじを飛ばされ、罵倒され、真冬に温かなスープさえ手に入れられない指先の冷えや、ひととして対等にひとの前に立てない屈辱や悲しみ。自分をまさか売られるだなんて考えもしない相手から裏切られた癒されることのない心の深い深い、じくじくと膿んだ傷をさっきの声に乗せいちどきにぱぁんと弾けさせたみたいに見えた。


「あんたはケーキ屋の一人娘でちやほやされて、部屋も家族もあるんでしょう? いいなあ、いいなあ、いいなあ、いいなあ、いいなぁ!!」


 しきりにジルはいいなあ、と繰り返す。まるで壊れたレコードのようでそれ自体が音楽に聞こえてくる。いいなあ、という彼女の言葉に空間が支配され、歪みさえ生じてきたように感じた。

 逃げ場はどこかにないのだろうか。目だけを動かして扉を探すも薄暗くドアノブさえ見つけられない。


恐らくはないのだと思うが、それでも希望を捨てきれない。

 壁にかかる鞭を視線で捕らえる。彼女は女性で、傷つき、悲しみ、すべてに絶望している。そんなひとに手をあげられるわけがない。

 みし、みし、みしり。床を軋ませながらランプの光を背にこちらへ近寄ってきたジルに気づき、慌ててこの場がどうにかなりそうなものを探した。調度品、ギター、家財道具。これらをどう頭を使って役立てるか。またちらりと黒く長い使い込まれた鞭が視線を掠めた。

 いいなあと繰り返す声が徐々に近く大きくなる。ゆっくりと、けれど確実にジルとの距離は詰まってきて、逃げるにもここは荷馬車の中、広く大きめに作られているといっても荷馬車の中。結局私は動けずじまいで、壁にぴったり体を寄り添わせるだけで精一杯だった。

 最後にいつ洗ったのかわからない黒い足を一歩一歩前に出し、重みのない体と憎しみを連れてジルは私の腕一本分ほど離れたところで足を止める。麻袋に開いた穴の隙間からのぞくまぁるい眼球が私をじいっと逃がさぬよう見つめていた。

 こんなことを言ったらいけないけど、正直なところ側に来たジルを目の前に鼻をつまみたくなるほどだった。アンモニアと、埃と、汗をごたまぜにした強烈な臭い。普段、脳を麻痺させるバニラや深みのあるリキュール、癒しの砂糖の甘い匂いの中で生活している私はこれほどきついのものは初めてだ。

 誰が彼女をこんな風にしてしまったのか。娘より生活を優先し、名前を売った実父か、金貨と引き換えに名前を奪い呪いの契約を結んだ団長か。または追い詰められた彼女の精神か。違う。世界の始まりだ。私たちは皆、犠牲者だ。忌まわしい魔法の契約さえなければ、ジルだって町のその辺で買い物をしている普通の女の子のはずだった。

 ジルはゆっくりと両手を伸ばし、呼吸を最低限に押さえ、広がった五本の指を壁に白いゲッコウのように張り付かせていた私の腕を取る。細い木の枝に捕まれたのかと思った。かちこちになった私はされるがままで、ジルの背中の向こうにある鞭をちらちらと見ながら彼女の次の行動を見守る。


「呪いのせいで死ぬに死ねない。自分を殺したいのに、呪いがさせてくれない。ナイフの先もあたしから逃げていっちゃう」


 ゆっくり、感触を確かめるようにしてジルが私の腕を何度も行き来して撫でる。乾燥してがさがさの指の腹が数回、ひっかかった。

 早く誰か来てくれはしないだろうか、団長でも、団長の犬でもいい。とにかく第三者の介入が必要だ。誰か、誰か、誰か。お願い。結局口先ばかりで一人じゃなんにも出来ない私は見えない神様に都合よく祈る。


「お願い。あたしのことを世界から自由にして」


 神様に私が呼び掛けたのと同じ言葉を私に用いてジルは両の手で私の手をぎゅっと包み込んできた。その目には苦しみから逃れたいと新しい生活を夢見る光が浮かんでいる。


「顔を見て眉を潜められるのも、罵倒されるのもまっぴら。生まれ変わって、あたしは普通のひとになりたい。優しい父と母と暮らしたい」


 あなただって、ひとだ。

 喉まで出かかったけれど、またおなかへと下がっていってしまう。ひとであることは平等で誰とも比べようがないのに。やるせなさ、無力さ、悲しさが足元で透明なゼリーのように固まった。

 ジルの目の中で水分が揺らぐ。ひとであるのに、ひとになりたいと願う背景を、心情を想像して胸が引き裂かれそうになる。


「お願いよ、世界の終わり。あんたならそれが出来る」


「そんな……それって」


 頬が引きつって口角が右側だけ不自然に上がるのがわかった。彼女が私に何を頼もうとしているのか理解した上で理解するのを頭が拒否する。無理だ、そんなことは私にはできない。


「団長が死ねって言うまであたしは死ねない、だけど、世界の終わり、あんたならできるでしょ? だって、あんたは世界の終わりなんだから。ねぇ、ねぇ、ねぇねぇねぇねぇ!」


 両肩をがしりと肉が食い込むほど掴み、ジルは強く私を揺さぶった。がくがく頭が前後を行き来して、二度ほど私は壁に後頭部をぶつける。ごん、と音がして広がる鈍い痛みを感じ、やめて、と彼女を制してもジルは全く聞き入れてくれない。私が特別な力でジルを助けることが出きると信じて疑っていないのだ。

 どうしよう。混乱しながら彼女の手に手を重ねると、今度は肩を掴んでいた手がシャツの襟元に移動し、びりりりり、と思いきり引き裂いた。

 声にならない声とは正にこのことだった。シャツが女の人の力でこんなに簡単に引き裂けるなんて、と呆然となる。


「服なら何枚もあるんでしょ? 一枚や二枚大したことないはずだよね」


「ジル、少し落ち着いてよ」


「嘘つき!」


「私本当になんにもできない!」


「嘘つき、嘘つき!!」


 一度大きく破けた服をさらにぼろぼろにしたいらしく、ジルはむちゃくちゃになってシャツを引っ張ってきた。

 今日はおかしい。産まれてから二番目におかしな日だ。店の商品とファースト

キスを奪われ、名前を寄越せと手錠をかけられた上、見世物小屋の怪物改めジルと対面。それもこれもロネ・カラバと関わってから。

 

「やめて!」


 無我夢中になってジルの肩を押すと、彼女はその場にばん、と尻餅をついて倒れてしまう。あんなに細い体だ、折れてしまったんじゃとはっとして空気より重い罪悪感を肺の中に溜めていると、ジルは獣が一週間ぶりにやっと獲物を見つけたときのような勢いで私に向かって飛びかかってきた。慌てて避ければジルの体は壁にばん、とぶつかり、再び私をめがけてやって来る。どうしたら落ち着いて話を聞いてもらえるのか。ひとになりたい、と言っていた彼女の言葉がふと浮かんできた。


「血を頂戴、あんたの血を浴びて呪いを解くんだ」


 ジルの手にはガラス製だろうか、透明な灰皿が握られている。あんなもので殴られたら血液だけじゃおさまらない。ぶつけられたときの衝撃を想像してしまい、ぞっとして私は今度こそあの鞭を手にする覚悟を決めた。急げば十分に間に合う距離だ。服がびりびりのぼろぼろになって下着が見えているのも忘れて垂れ下がる黒い鞭を見つめる。そのときだった。

 ぎいい、という木材が唸る声と共に暗闇を切り裂いて眩しい光が荷馬車の中へ差し込んできた。あまりの光の強さに目を少し開けるのが精一杯だったが、その隙間から一人のひとの形が見えた。痛くなるほどの光に瞼を腕で隠す。ジルも私と同じ状態のようだった。

 ロネ・カラバだ。

 助かった、という心からの安心感と同時に彼に対する苛立ちが沸き上がってくる。少しの用事の間に私は命を落とすところだったのだ。きっと彼はまたあの調子でごめん、ごめんとへらへらしながら一人でぺらぺらと話し出すのだろう。

 落ち着いたら絶対にまた殴って蹴って文句をたっぷり頭の上からぶちまけてやる。


「お待たせ、シシィ。ちょっと手間取っちゃってさ。ごめんね……って、あれ、新しい友達でもできちゃったの? 女の子達の間じゃ帽子のかわりに袋が流行ってるのかな、新しいね。僕もしてみようかなー、ブルームの手提げあたりで」


「ロネ・カラバ!」


 憎しみと苛立ちを込めて彼の名を呼ぶと、その隣でジルは灰皿を残し一目散に逃げるようにして奥の方へ引っ込んでいった。


「何かあったの?」


「あったも何も…殺されそうになったんだから!」


 ようやく目が慣れてきた頃、全く状況を把握していない暢気な男はふぅん、とだけ言ってジルが引っ込んでいった奥を見つめた。ふぅん、って。それだけか。危うく血を全部抜かれるところだったっていうのに!


「いったいどうして」


「彼女、自分の名前を私の血で洗って呪いを解くって。そんなことできないって何回も言ったのにわかってくれなくて」


「……そういうこと」


 足をかけて中へ乗り込んで、ロネ・カラバは奥の方でしゃがみこみ、震えながらこちらの様子をうかがっているジルを見つめた。


「生憎だけど、彼女は本当にそんな力はないんだよ。世界の終わりは君たちの願いを叶えるためにいるわけじゃない……君には心底同情する。でも、呪いは一生解けない。お気の毒さま」


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