親愛なるシシィ様
“親愛なるシシィ様”
はたして今日まででいくつこの宛名を目にしただろうか。
私はテーブルの上、山積みになった手紙を前にうんざりしながらピンク色の封筒をひとつだけ指先でつまみ上げたけど、中身を広げようとしてやめた。ちっとも開封する気になんかなれない。
一切まざりけのない生クリームの白、わざとらしいまでに着色料たっぷりのピンク、花壇に咲くデイジーの黄色、妖精のまぶたを彩るラメ入りの淡いブルー。いろんな色の封筒があるけれど、その表には全部が全部に例の親愛なるシシィ様、と記されている。もし、この中に根性のひん曲がったシシィ様、口の悪いシシィ嬢、などと書いてある手紙があれば開ける気も起きるのだけど。
どうせ読んだって中身は同じ。どうしたら会ったこともない、話したこともない女にそんな言葉を向けられるのかと言いたくなるほど、ごてごてと着飾ったわざとらしい私に対する賛美の数々と、最後には決まり文句の“あなたを必ず幸せにする、結婚してください。”
はあ、と息を落とし私は右手に持っていた手紙を後ろへ放り投げた。見慣れた文章の羅列の行方など知らない。彼らの脳みそは間違いなくメレンゲで出来ているのだろう。
誰がどんな気持ちで贈ったのかなどわからないが、応接間に一時的に運び込まれたのは薄っぺらい封書だけではなく、たくさんのプレゼントも一緒だ。大きいボックスから小さいボックス。ほとんどがご丁寧に可愛らいリボンが結ばれ、花まで添えてある。窓の下、右端にあるボックスに掛けられたピンクのリボンは明らかに歪んでいる。あれなら私の方が結ぶのうまいかも。それに、淡いグリーンのプレゼントボックスになら私は白のレースのリボンをかける。きついピンクではなく。
「まーっ、今日もすごいわねぇ」
扉を開け放っていたため、店の奥と繋がった工場から応接間を通りすぎようとした従業員のヒルデが中にいた私に気がついて声を掛けてくる。ヒルデの横幅のある大きな体にくっついてきた、クッキーのバターと小麦、バニラビーンズの香ばしくあまぁい香りが私のところまで届く。
彼女が両手で持つ藤で編んだカゴには透明なビニール袋に入り、リボンで結んである白と青の砂糖でコーティングされた祝福のドラジェがたくさん入っていた。もうすぐ彼女の親戚の結婚式があるのだ。
「いいでしょ。集めておいて冬になったらこれを暖炉にくべてマシュマロ焼くの」
「ラブレターで焼いたマシュマロを食べるなんて、世界中どこ探したってあんただけだよ。あっ、制服なんか着て。後でこっち来てくれるの。大丈夫?」
「平気。エプロンつけたら行く」
「そう! 最近新人の子のフォローばっかりで。仕方ないって言ったら仕方ないけど。シシィが出てきてくれたら大分楽になるもの。じゃあ待ってるわね」
鼻にくしゃっとシワを寄せ、ヒルデは笑って部屋の前を過ぎていく。彼女は今は亡き私の父も母も知っており、長いことここ、私の両親が立ち上げた洋菓子店ブルームで働いてくれている。
お店の雰囲気や味が変わってもずっとブルームに居続けてくれるヒルデみたいな人は稀だし、私にとっては唯一の理解者だ。
七歳のとき優しい母が亡くなった二年後に新しい母親、つまり継母が来てからというものブルームはがらりと変わってしまった。
それまでは手作りの味を大事にしてきて、生クリームも手作業で愛着を込めて泡立てていたのに、今ではあちこちにできた支店へ毎日納品する分として大量生産するためすべて自動のボタンひとつで作動する機械が行っている。
母が楽しげにスポンジにシロップを染み込ませていたショートケーキを作るのも流れ作業。昔は狭いキッチンで父と母が笑い合いながらケーキや焼き菓子を作っていて、私はテーブルに座って甘い香りの中、二人を眺めているのが好きだった。すべてがすべて手作業で作るために一日に販売できる個数には限度があったけど、今より味はあったかくて、優しくて、一口食べたらどんな心にも花が咲く不思議な力を持っていた。町のみんなが両親の作るブルームのスイーツが大好きで、すぐ売り切れたり、店から家まで片道二時間はかかる伯爵家の執事が遠路はるばる二段重ねのケーキをお願いしに来ていたのを覚えている。
それが今はどうだろう。
確かに売り上げもぐんと上がって貴族のお嬢様たちがお持たせにはブルーム、と話されるほど知名度も上がり、町の中でもいくつか店舗を構えるようになった。さらに不運なことに父が亡くなってからは継母が店のすべてを取り仕切り、今では他の大きな町にも進出する話も出ているほど。両親の味を大事にしたい私の気持ちはおいてきぼりで、継母はどんどん話を進め気がつけばブルームのスイーツたちは心に花を咲かせる魔法を失い、ただの砂糖と小麦のかたまりになってしまった。
工場で出来上がった焼きたてのガレットを一口かじってもぼそぼそと味気ない。なんにも心に響かないし、笑顔にもなれない。ただ甘いだけのカロリーが高い食べ物にがっかりして、私はいつからかブルームのスイーツを食べなくなった。
それでも店に出るのは好きだったため、小さなキッチンを取り壊しご丁寧に応接室まで作られたブルーム本店で制服を着、販売もする。味は変わっても両親の作り上げたブルームの看板を守りたかったのだ。
焼き菓子を包む包装紙も女の子たちが喜ぶ可愛らしいものが何枚も増え、ケーキのデザインも花を模した飴細工が乗ったり、カップケーキも小さい頃読んだおとぎ話の絵本のようにカラフルにデコレーションされている。店のディスプレイも季節によって変わり、スワン型の陶器に入ったすみれの花の砂糖漬けは予約で何ヵ月待ち。だけど、それでもやっぱり私は昔のブルームがいい。優しくてあったかい、心に花咲き気持ちの向こう側に虹のかかる味。
壁に固定された全身の映る大きな鏡の前に立って、私は髪に皆と揃いの白いフリルのカチューシャをつける。白いエプロンには染みもシワもない。青い膝丈のワンピースにも解れなし。腰をひねって後ろで結んだエプロンのリボンを確認する。縦結び。ピンクのリボンを掛けた知らない誰かのことは言えないけれど、これが私の精一杯だ。
「いらっしゃい、カメリアさん!」
応接間を出、レースのカーテンをくぐると、感謝祭のディスプレイがされた店内を楽しそうに友達同士でスイーツを選ぶ若い女の子たちで賑わっていた。私はカウンター内から店内の平均年齢をぐっと上げている近所のおばさんを見つけ手を振った。
「シシィ! しばらくぶり!」
こちらに気づき、ぱっと笑顔をくれたカメリアおばさんが女の子たちを掻き分け近寄ってきてくれたので私もカウンターの下をくぐって店内に出る。
お気に入りのシンプルなネイビーのドレスにパールのネックレスを付けていた。私は継母の服装より、こんな品のある着こなしの方が好きだ。カメリアさんは父が亡くなる一年ほど前に川を越えた町の外れから引っ越してきて以来ブルームの常連客だ。中には味が変わったからと離れていってしまったお客さんもいるけれども。悲しいがそれは理解できる。
下から板を押し上げたら簡単に出られるのに、いつも横着してここを通ってしまう。腰を屈めたことで制服の裾を踏んでしまい体が前のめりになるけれど問題ない。
「ああ、ああ! 気を付けて」
心配されて大丈夫、と笑顔を返せばカメリアさんは私の乱れた顎のラインより少し上にある前下がりの金髪を直してくれる。
カメリアさんはたくさんのひとだかりができているガラスのケーキケースの方を向いて背伸びをする。そこへ、出来立てのケーキがいっぱいに乗ったトレイを手にひとつづつ持った従業員の女の子が店の裏からやってきた。
「あのケーキ、売れてるみたいね」
「ありがたいことにね」
私は肩をすくめた。お陰さまであのケーキだけで今日はすでに一つのトレイにケーキが十二個乗るトレイで五個分は商品が出ている。
「今日は店に出ていいの」
「うん。ヘレナもいないから好きなだけ出れるんだ」
「そう。シシィに会えて嬉しいけど、やっぱり心配だわ。この前も物騒な騒ぎがあったでしょう」
「平気、あんなの」
オレンジショコラやローズ、塩キャラメルやヴァニラといったディスプレイ用のマカロンが盛ってある繊細な細工が施された背の高いガラスの皿の前でプライスカードがぱたんと倒れていることに気づき、私は直しながら会話を続ける。
物騒な騒ぎ、と言うのは先週ナイフを突きつけられた件だ。
「あんたねぇー」
笑い飛ばした私にカメリアさんが顔をしかめた。
「アルカードに剣も教えてもらってるし。こう見えて結構上達したのよ」
近くにあったラズベリーとミルクの飴を交互に絡ませた長いキャンディスティックを瓶から抜き取り、剣に見立ててふざけて構えれば、近くにいた上品そうな栗毛の女の子と目が合い、くすりと笑われた。
「そうかもしれないけど! 何かあってからじゃ遅いんだよ」
カメリアさんはキャンディスティックを手でさらりと避ける。私の目の前でさらに眉間にシワを寄せた彼女が本気で言ってるのよ、と目で訴えてきた。
「平気、平気! 何かあってもこの前みたいに返り討ちにしてやるわ。それに、アルカードもいるから」
「……そうね。アルカードがいたら安心だけど、いつでも一緒ってわけにいかないからね。ヘレナがあんたのこと大っぴらにしなければこんなことにならなかったのに……」
カメリアさんは声を潜めてため息を着く。本当に彼女の言う通りだ。私も苦笑する。でも、ほんとは冗談で笑えない状況にあった。
ひんやりと冷たく、心臓を簡単に抉られそうなほど鋭いナイフをつきつけられるのも、市場で後ろから羽交い締めにされてこもった埃の匂いがする麻袋に小麦の代わりに詰め込まれそうになったのも、すべて継母が私の秘密を世に公表してしまったから。
私たちはみんな、生まれたときに授かった名前がある。
それが本当の名前なんだけど、本当の名前は魔法の力を持っていて、そのひとの本当の名前を知っている相手は当人のすべてを縛り、支配し、手に入れることができる。
これを呪いと呼ぶひともいる。私もその一人。どうしてこんな仕組みを世界を始めたひとは作ってしまったのだろう。いつからかは知らないけれど世界が始まった遠い昔からそうなっていて、おじいちゃんのおじいちゃん、そのまたおじいちゃんもそれが当たり前の世の中。
日常で私たちは両親のくれるはじめのプレゼントとなる名前を使っているが、魔法の効力を悪用して本当の名前を理由をつけて奪い、一日でうちの焼き菓子セットひとつ買えるかどうかのお給金で一生、自らの下で働かせる人だっている。あるいは、政略結婚。またあるいは、子供を金のコイン一袋で売る親。
私は世界の始まりを憎んでいる。世界の始まりはバカだ。いづれこんな世の中になってしまうって考えたりしなかったのだろうか。ずる賢く、手を汚さずに甘い蜜を舌先に乗せる人間が、くもりのないまっすぐな目をした人間をうまいことそそのかし、名前ひとつですべてを縛る。呪いの効力は絶対的。
「シシィ! また店になんか出て!!」
ヒステリックな棘を持つ声に一瞬店内の楽しげなざわつきが止まるが、すぐに復活する。カメリアさんの顔色も変わる。誰かなんてすぐにわかった。
「……ヘレナ、今出たばかりよ」
持っていたキャンディをカメリアさんに預け覚悟して振り返ると、案の定真冬に青い滝が凍った色をした目をつり上げた長身のヘレナが私を上からぐっと押さえつけるように睨んでくる。背が高いのに、さらに十五センチはあるピンヒールをいつも履いているから余計に背が高く見えた。
「あなたはスペンサー家の大事な一人娘なのよ。お店になんて出なくて結構」
絶対にそう言ってくるだろう、とこの台詞を声に出すと一言一句違わず、私とヘレナは同じ言葉を同時に重ねた。彼女は面白くなさそうに私の目線に合わせ曲げていた腰を直す。もう耳が発酵して落ちてしまいそうなくらい何度も聞いている言葉だ。鳥かごの九官鳥だって覚えてしまったし、もしかしたら庭によく来るカラスでさえ覚えていつか話し出すかも。
「店に出た方が売れ行きの商品だってわかるし、お客さんから直接感想だって聞けるのよ、出ない方がおかしいでしょ?」
「それは店のスタッフの仕事。あなたのすることじゃあありません」
私の両親の店なのに。
反発したいのを舌の裏側に巻き込んでぐっと堪える。
「あなたの仕事は手紙に全部目を通してお見合いをすること。今日の分は全部確認したの?」
「……してない」
「だったら、することはわかっているわね?」
継母は笑っているのにすごく嫌な印象だ。ひとを嘲るような、常に上からしか見ていないような。思わず笑顔を返したくなるような笑い方じゃあない。
だけど父は死神の鎌が振り落とされる直前に、継母と仲良くしろと告げて私の目を見ながらすうっと眠るように違う世界に行ってしまった。私の中でこれは絶対である意味、魔法みたいな効力を持っている。
黙ることですべてを守り、カチューシャを外すと、いいこね、と言わんばかりにヘレナの手が伸びてきて私の右巻きのつむじがある頭を撫でる。直接店に出ることはないとは言え、これが飲食店を経営する者の指だろうか。きちんと指摘する隙なく整えられ、ぺったりとした不自然なエメラルドブルーで固められたネイル、その上を角度が変わるたびきらきらと光るスワロフスキーが飾る。可愛いでしょう、今度あなたも連れていってあげると幾度となく声をかけられたが、私はこういったものに興味がない。もっとオシャレをしたらいいのに、とヒルデにも呆れられる程。
まつげを長く見せるための道具も、恋をしたように頬を染め上げる花びらの形をした粉も、人形のような肌になれる金細工のブラシも何にも持っていない。唯一使うのは母が遺してくれた豚毛の黒いブラシ。それ以外は持っていないし、必要性を感じない。確かに可愛くなりたい、という願望がないわけじゃない。
でも、可愛くなったって私には無駄なこと。
いつもどおり継母ヘレナのことが腑に落ちず頭の後ろにもやもやしたものをかかえたまま、店の裏側に出ると砂糖の入った袋を業者から受け取るアルカードの後ろ姿が見えた。それだけで今の今までかかえていたものが一気に吹き飛んで、私の中に風が入ってくる。それは暖かく、両親の洋菓子とは違った花を咲かせる。
彼はしっかりとした褐色の筋肉質な腕で業者が一度にひと袋しか持てない砂糖を一気に三つ受け取って、相変わらず力持ちだな、兄ちゃんと声をかけられると無言で黒髪の頭を下げた。普段から愛想はないけれど真面目で誠実なひとだ。
二人のやり取りを遠くから眺めていた私に業者のひとが気づき、被っていた帽子を取って挨拶してくれたため、アルカードもこちらの存在に気づいてしまって私は緩んでいた口元を引き締める。おかしな顔になってないだろうか。いや、おかしいのはもともとだけど。
「今日は店に?」
表情ひとつ変えず重たい袋を持つアルカードに尋ねられ、紫の花をつける木々の並んだ裏門から町へ戻っていく馬車の音を聞きながら無言で首を縦に降る。髪型はおかしくないだろうか、顔は赤くなってないだろうか、もしなっていたら、それをどう思われるだろうか。
そんな思いばかりが体の周りをぐるぐると渦巻く。
「よかったな」
よかった、そうは言っても彼は笑ったりはしない。心がこもっていないわけではなく、そういうひとなのだ。それでも私は嬉しくなる。笑顔に、というよりにやけてしまいそうになる顔の筋肉を抑えるのに必死だ。この二年間、ほとんど一緒にいるのに私はアルカードにちっとも慣れない。
「でもヘレナが思っていたより早く帰ってきたから今日はもう出れないの」
「そうか」
「そう」
沈黙。後が続けられず、お互いが無言になった。ただ何も言わずにアルカードの髪と同じ色をした瞳が私を見てくる。それだけのことなのに、私の頭はうわわあああ、と混乱した。何か話すことはないだろうか、さっきカメリアが来ていったよ、明日は雨が降るみたい、とか?
丘を下った馬車の回る車輪も遠のき、店のざわめきと木の葉が擦れて囁く音だけになり、困った私ははっとして彼に駆け寄った。
「重たいでしょ、ひとつ持つ!」
「平気だ」
「大丈夫、これも練習のひとつってことで」
「こんなものは練習にならない。おまえは女だろ」
突然異性の扱いをされてひるんだけれど私は彼のそういう対象にはならないと骨から細胞から分かっていたので、無理矢理に一番上に乗っかった砂糖二十キロを手にとった。ずん、と二十キロの重さが腕から肩にまでのしかかる。確かに重い。でも持てない範囲じゃない。
「ほら、持てた。言ったでしょ!」
「腕が震えてる」
僅かに表情を和らげたアルカードを見れたのが嬉しくてたまらない。再び心の中一面に花が咲いたような気持ちになる。それはバラだったり、デイジーだったり、いろいろだけどとにかくみんな満開で私の隙間という隙間を埋め尽くす。
「この震えが筋肉にいいんです!」
「そうなのか?」
聞いたことないが、というような面持ちでアルカードが私を見下ろしてくる。私より二十センチは背の高い彼を見上げるのが好きだ。特に、顎とか喉のラインとか。こんなこと、仲のいい友達にも話したことがないけれど、なぜかヒルデだけは知っている。
「そういえば、今年はロマーナに帰るの?」
ふと、もうすぐ迎える感謝祭のことを思いだし、工場までの道のりを歩くアルカードに問いかけた。ロマーナというのは彼が生まれた灼熱の太陽の国でここから船で二日ほど行ったところにある。
「いいや」
「ええっ、どうして!? ヘレナに言われたの?」
思わず足を止め、大きな声を出してしまった。毎年感謝祭のときは店も工場も休みになるため、きまって従業員も長い連休に入る。
「そうだ」
「なっ…! 少しの間一人でも平気だから、アルは帰りなよ、去年だって帰れなかったのに! 私ヘレナにお願いするよ、だからアル」
「いいんだ」
「よくない!」
絶対に良くない。
アルカードは私の身を守るためにと継母が仕事を兼ねた旅行先のロマーナの港で腕のたつ彼を見初め、無理矢理連れ帰ってきたひとだ。そう、無理矢理に本当の名前を剥奪して。
「私は一人でも平気、そのためにこの二年間、アルから剣を教えてもらってきたんだから!」
なんとかそれを訴えたくて言葉を探す。どう言ったらわかってもらえるだろう。でも最大の難関はアルカードではなくヘレナだ。そこをクリアできれば彼は故郷に戻ることができる。
「マリベルが待ってるよ……!」
最後の一滴の生クリームを絞り出す要領で私は彼女の名前を喉から声にした。
マリベル。アルカードの婚約者だ。
名前を継母に奪われた今、婚約なんてなかったことだとアルカードは以前話してくれたけど、きっと心はそうじゃない。潮風と悲しみで湿った封筒が月に何通か彼のもとに届いているのを知っている。マリベルに会ったこともないけれど、アルカードが選んだひとだ、きっと優しくて可愛らしくて、守ってあげたくなっちゃうような存在に違いない。私とは、正反対のところにいるような。
婚約者の名前を耳にしてアルカードは何かを考えたようだったけれど表には出さなかった。
「俺の仕事はおまえを死ぬまで守ることだ。余計なことは考えるな」
そう残し、彼は私を追い抜くと工場の入口にどんどんと進んでいく。
死ぬまでだなんて。
食道がきゅうっと締め付けられて泣きそうになった。アルカードの背中が遠くなっていく。
蜂蜜の滴る幸せだけが待っていた二人を引き裂いたのは私だ。
私がこんな運命の元に生まれなければ、世界の始まりが名前で縛られる世界を作らなければ、アルカードとマリベルは幸せになれた。そして、私もアルカードと知り合うこともなく良心の呵責に苦しまずに済んだ。
どうして。
二人の幸せを願うほど私は自分と世界の始まりが許せない。
手ににじんだ汗で袋が滑りそうになり、私は慌てて抱え直す。砂糖二十キロはやっぱり重たかった。
砂糖を運び終えたときには腕がひきつり、指の間接や手のひらが真っ赤になっていたけれど、こんなものはアルカードとマリベルの胸の痛みに比べたら大したことじゃない。工場に私が着いた頃には彼の姿はもうなかった。店の裏からはそんなに離れた場所ではないはずなのに。もしかして私と顔を合わせたくなかったのかもしれない。
再び応接間に戻り、山積みの封書を前に革張りのソファーに腰をどすんと落とす。面倒だ。店で接客をしてプレゼント用の包装をしたり、ケーキを詰めたりする方がずっといい。
ふとその中に一枚、良くも悪くも悪目立ちする金色の封書を見つけた。私はそれを手に取る。彼は決まって宛名を書かない。裏側にはロネ・カラバ、と差出人の名前だけが印字されているだけで、中身は。
びりびりに上を破いて中身を取り出すと、封筒からは四角い白い台紙に貼られた緋色の三角形をした特徴的な花びらをしたコリウスの押し花が出てきた。
このロネ・カラバという人物だけが唯一宛名を書かず、薄っぺらい内容の手紙を送ってこない人物だった。もちろん、どんな相手なのか私は知らない。押し花は紫陽花だったり、すみれだったり。きっちり隙間なく透明なコーティングシールを用いて台紙に貼られた乾いた花が同封されている。
どうして押し花なんか贈ってきたりするんだろう。生花やブリザードフラワーはよく贈られてくるけれど。あんまりにも謎すぎてロネ・カラバの名前だけは覚えてしまった。
カードを指先でつまみ裏と表を眺める。裏は白紙。
「どう、お見合いする気にはなれた?」
はっとして戸口に目を向けると、ノックもなしにヘレナが入ってきた。私は押し花を膝の上に置く。彼女は部屋に入ると窓際に積まれたプレゼントボックスの方へ足を進めて値踏みするような視線でふん、と目を細めそれらを見つめている。
「お願いがあるの、ヘレナ」
「なにかしら」
ヘレナは私に見向きもせず、小さなプレゼントボックスを手に取ると、中からビロードの布が貼られた老舗宝石店のボックスを取り出した。
「もうすぐ感謝祭でしょ、アルカードに休みをあげてほしい。去年だって帰れてないし、きっとご両親だって心配してる」
ぱか、と開いた箱からヘレナの枝みたいな指先がつまみ上げたのは大きな石のついたリング。ジルコニアなんかじゃない、本物のダイヤモンドだろう。朝日の中の氷の欠片よりも、ミルキーウェイを流れる星よりもきらきらと眩しい。リングを自分の指先にはめて、ヘレナは満足そうな笑みを口許に浮かべた。
「私なら大丈夫、アルカードにこの二年、ずっと剣や護身術を習ってきたし、一ヶ月くらいなら自分で自分のこと守れるよ。だからお願いヘレナ、アルカードを」
「お継母様」
「え?」
「おかあさま、でしょう」
「……お願い、お継母様」
気持ちに反して私は彼女をそう呼んだ。大切なものを汚してしまったような屈辱的な気持ちになる。こんな女は私の母親なんかじゃない。私の大好きな母は一人だけなのに。
「今年は感謝祭にうちが王室からチョコレートの像を作るよう頼まれているの、知ってるでしょう。アルカードにはその手伝いをしてもらうわ」
「運ぶだけでしょ、そんなの一日あれば終わることなんじゃないの?!」
「感謝祭にはいろんな国の人が大勢観光に来るのよ、そんなときにアルがいなかったら万が一のときあなたが困るじゃない」
「じゃあ、感謝祭中はどこにも出掛けない!」
「何言ってるの。他国の貴族の方々があなたに会いたいってたくさんいらっしゃるんだから」
「なにそれ……そんなの聞いてない」
「手紙が来ていたはずよ。だから目を通しなさいってあれほど言ったでしょう」
「じゃあ、私が結婚したらアルカードを自由にしてくれるの?」
「……そうねぇ、でも名前の契約は一生だしねぇ」
「アルカードのことも少しは考えてよ!」
「ご両親ならきっと喜んでるわよ、ロマーナで一生暮らせるくらいのお金を先に渡しているし。婚約者の家だって、私が契約を続けてあげたから暮らしていける」
ようやくヘレナはダイヤから目を離した。十分すぎるでしょう? と。
嘘だ。
ヘレナはブルームにしか出荷、契約できないようカカオ生産者であるマリベルの父親をはめた後、彼女の婚約者であるアルカードがほしいがため、わざとブルームとの契約を打ち切るか、娘の、マリベルの本当の名前を寄越すかどちらかにしろと脅したのだ。
結果、継母の思惑通り、マリベルの代わりに婚約者であるアルカードが自分の本当の名前を差し出してきた。二人はこの三日後に結婚式を挙げる予定だったらしい。私はこれをアルカード本人から聞いたとき、彼の目の前で泣いてしまった。ぼろぼろと落ちてくる涙が止められなかったのだ。確か、リンゴの花が咲いていた頃のことだ。
私のせいだ。
私がこんな名前を持ってさえいなければ、アルカードは幸せになれたのに。彼から彼女を奪ったのは他の誰でもなく私。
ごめんなさい、と私は何度も彼に謝罪した。謝るくらいで、ごめんなさいなんて簡単な六文字だけで許されるなんて思わない。だけど私はその言葉でしか感情を表せなかった。もっとこの心を、胸の内の苦しさや罪悪感を伝えたいのに、学校で学んだ母語では足らない。勉強しておくんだった、そうしたらすべてをわかりやすく彼に伝えられたかもしれないのに。
自己嫌悪で苦い涙をこぼす卑怯な私に、アルカードは泣かなくていい、責めなくていいと大きな手で頭を撫でてくれた。彼の優しさで余計私が私自身を責める。こんなに温かでひとの気持ちを汲み取れる、幸せになるべきひとがどうして、と。
「感謝祭の間はきれいにするのよ。あとでメイクも教えてあげる。それからドレスも届いているから着てみてね。サイズが少しでも合わなかったら返品するから……聞いてるの、シシィ」
聞いている。だけどどうしようもない理不尽さに返事ができなくて黙っていると、継母はリングを箱に戻してソファーにぽい、と放り投げる。
「それとも、“世界の終わり”ちゃん?」
木蓮の花に恋をしてまだ残りたがる冬を春風が強引に連れ去ろうとした晩、洋菓子屋を営む夫婦の間にようやく待望の女の子供が生まれた。
通常、他人には絶対に見せない場所に名前を刻んだ状態ですべての赤ん坊は世界の光を浴びるけれど、その子にはあるべき場所に名前がなかった。
夫婦は小さく柔い体を隈無く探したがそれでも名前を見つけられない。それに子供を取り上げた年老いた医者が気づき、まさか、と産声を上げるふにゃふにゃの顔を押さえつけ、それを確認してからゆっくりと振り返る。夫は妻の肩を抱く。
がたがたと風が窓枠を叩き、ゆすり、枝先から白い木蓮の花が落ちる。医者は残り少ない歯を見せ口許を震わせた。
「この子の名前は世界の終わりだ」
親子三人で暮らす幸せは長くは続かず、男は岸辺のユリの顔が川へ落ちた朝方最愛の妻を亡くしたが、子供のためと隣町から商人の娘をもらい再婚をした。そんな男にもなんの災いか年若くして死神の影が忍び寄った。
まだ教えることもたくさんある小さな愛しい子。自分の人生と心を捧げようと誓った妻と自分の血を継ぐ娘。
死の床でそれまでずっと後妻に黙っていた一人娘の秘密を男は打ち明けた。自分亡き後娘を守ってもらうため、本当の名前こそ告げなかったが、彼女が世界の終わりという意味を持つ名を背負いこの世に生まれてきたことを。
後妻は頷く。
「安心して。この子は私が守ります」
程なくして花を手向けられ、釘の打たれた夫の棺の上にかかった土がしっかりと固まる前に、喪服姿の後妻は葬儀に来てくれた貴族たちの前で悲しみの涙をハンカチで押さえる振りをしながら、ポケットに多額の遺産が記された一枚の紙を忍ばせ、血の繋がりのない義理の娘を抱き寄せた。身なりの良い人々は哀れな継母と娘に注目する。
「シシィは夫が遺してくれた唯一の遺産です。そう、私の、いいえ、私たちの“世界の終わり”」
これが私のこれまでの人生を要約したおおよその話。
ヘレナは年頃の私のため、世界で一番良い嫁ぎ先を探すために公表したと言うけれど実際には違うと思う。なぜなら、彼女がいいんじゃない、と私宛に差し出された手紙から選ぶのはいつも決まって名声と由緒と財産を持つところばかりだから。
結婚をするとき、愛し合う二人は本当の名前を打ち明け合う。これで相手を一生束縛できるけど、愛し合っている夫婦はそんなことはしない。する必要がない。魔法の前に愛があるからだ。本来、本当の名前は神聖な婚礼の儀式あってのものだったはずなのに、時代が変わりいつの間にか悪用すべきものに変わってしまった。
きっと、アルカードとマリベルもお互いの本当の名前を知っていて、ひそかに呼びあったりしたのだろう。愛するひとから呼ばれる自分の本当の名前とは、どんなものなのだろうか。
私だったら、泣いてしまうかもしれない。自分の世界をまるごと捧げられるほど大好きなひとが、私の本当の名前を呼んでくれたなら、きっと。
閉店後、ヒルデも他の従業員のみんなも帰ってしまったブルームの店内で私はレジ上の小さな電球だけをつけて一人床に座っていた。外はもう暗い。電源の切れたケーキケースも空っぽで店内には焼き菓子やコンフィズリーがディスプレイされている。
ケーキケースにはプライスがずらりと並ぶ。新作の“アップル・ホリック”、“花冠のタルト”。アップルパイとフルーツタルトにそう命名したのは言うまでもなくヘレナだ。それから定番のショートケーキにモンブラン、ミルフィーユ、カスタードプリン、そして、“エンド・オブ・ザ・ワールド”。つまり、世界の終わり。正三角形の形をしたチョコレートのケーキで、中は濃厚なチョコレートムースにフランボワーズの甘酸っぱいソースが挟みこまれ、底の部分にはスポンジとキャラメリゼしたナッツが敷き詰められている。これを外側からココアパウダーで包み込んでしまったケーキ。それがエンド・オブ・ザ・ワールド。
眺めていたプライスから視線をそらす。無意識にため息がこぼれ落ちた。これもヘレナが考案したもので、ここブルーム本店限定で出している毎日すぐに売り切れてしまう人気商品。
なんでも世界の終わりに食べたくなるほど絶品のチョコレートケーキ、が謳い文句なのだだそうだ。
これはマリベルの父が経営する会社から納品されるカカオを使って作っている。ヘレナ曰く、ここのカカオでなければその味は出ないらしい。新作のケーキは一通り味見するけれど、私はどうしてもこれだけは口にすることができなかった。それでも毎日作った分は売れてしまうのだから、きっとみんなが世界の終わりに食べたいくらいおいしいのだろう。私だったら、そのときはお父さんとお母さんが作ったケーキを食べたい。もう叶わないことだけれど。
店の脇を抜け工場の従業員が帰っていく気配がした。足音と、話し声。ヘレナはアルカードが故郷に帰省することを許さないだろう。彼の帰りを待ちわびているはずのマリベルのことを考えると心臓に石を投げ込まれたような心持ちになる。愛するひとが自分の身代わりになって名前を奪われ、一生遠い土地から帰ってこない……想像しただけで目の前が揺れた。
「すみません」
突然前触れもなく店のドアが開けられ、私ははっとして涙を拭い立ち上がる。店の前には閉店の看板が出ているはずなのに。
やって来たのは二十歳前後の若い男だった。茶色というよりはオレンジに近い髪の色。最近町でよく見かける服装をしていて、細い腰には長い剣が一本。すいません、という言葉とは真逆の明るい笑顔。剣を持っている以外は何から何までアルカードとは正反対だ。
「悪いけど今日は閉店したの。急ぎ?」
スカートの後ろを軽く払い彼を見上げる。
「急ぎと言えば急ぎだし、急ぎじゃないと言えばそうじゃないなあ」
男は腕組みをして店内をぐるりと見回している。面倒な客が来たものだ。
店は六時の定時閉店なのだけれど、ただでさえ私は少し遅れても普通に我が物顔で入ってくるお客が許せない性分なのに、七時に来店したお客はお客でもなんでもなかった。
例えば、これがかなりの急ぎで、仕事が今終わったの、ごめんなさいねの一言でもあれば丁寧に対応できるのだが、わかってはいてもそこまで私は人間が出来上がっていない。
「なら明日にしてくれる? 今日はケーキももうないし」
「ねえ、エンド・オブ・ザ・ワールドってケーキ、人気なんだって? そんなに魅力的なの? 何時ごろ来たら絶対に買えるの? 一度食べてみたいんだよね……あ、あとケーキと言えば君のとこ、オレンジが乗ったケーキあったでしょ」
「……あるけど」
彼が指すのはサヴァランだろう。紅茶味のシロップと洋酒をたっぷり生地に染み込ませ、オレンジをメインにフルーツや絞った生クリームで飾られた父が得意としていたケーキだ。
「いつからキルシュワッサー使うようになったの? 前のグランマルニエの方がよかったのに」
「えっ」
「スポンジも味が機械的。舌に乗せたらすぐわかるよ。クリームに至っては繊細さのないただの固まり……お店もそうだけど、ずいぶんと変わっちゃったね。僕は前の小さい店の頃のブルームのほうが好きだな。あんなにおいしい洋菓子、世界のどこを探してもなかったのに。全く残念だ……ああ、ごめんごめん、気を悪くしないで。ケーキがほしい訳じゃなくて電気がついてたから君がいるんじゃないかと思ってさ。手紙を出しても返事も来ないし。みんなにそうらしいって有名だけど? だから来ちゃったよ。僕のこと誰だかわかる?」
ここまで一気に一人で話し、男は私に近づくと顔をぐっと寄せてきた。ムスクの木箱の中でこもったような香水の匂いがする。
「……知るわけないでしょ」
「そうだよねぇ、知るわけないよねー」
そりゃあそうだ、と何が面白いのか目の前の男はにこにこ笑っている。口調が軽い。緑がかった瞳が距離を詰めてくる。彼は男というよりは同性みたいな、女の子のような幼く可愛らしい顔をしている。体だって細いし、砂糖の袋はひとつしか持てないだろう。
いったい、こいつは誰だ。サヴァランに使う洋酒をキルシュワッサーに変えたことなんて、内部の内部くらいの人間しかしらないし、そこまで洋菓子に詳しい男なんて同業者くらいではないだろうか。
「イチゴの花が庭に咲いたんだ。今度はそれを送るよ」
男が私の手を取って耳元で囁いたときのことだった。
「離れろ」
後ろから誰かの腕が回ってきて、私の体を引き寄せると男の喉元に鋭い剣の先を突きつけた。
アルカードだ。
それがわかった途端に体中の神経という神経に緊張が走って、一瞬息をするのを忘れてしまった。背中や後頭部に感じる温かさと、腰にまわる腕の力強さ。
「やだなあ、物騒なもの出さないでよ。僕が彼女のこと、他の野蛮なやつらみたいに連れ去るとでも? しないよ、こう見えて紳士だからね」
切っ先を向けられても男は動じず、へらへらとして降参とばかりに両腕を上げる。両の手のひらには大きな傷があった。
「ちょっと前まで全然君の気配に気がつかなかったなあ。すごいね、その剣もこの辺りじゃ見かけないし。どこの? 名前なんていうの? ……言いたくない? だよねえ、ごめんごめん」
無言で剣を握る手に力をこめるアルカードに男はまた一人で話し続けたが、今の私にはどうでもいいことだった。だって、こんなにすぐ近くにアルカードの体がある。いつもすれ違うたびに感じていた青い色が冷えたような香りがする。
彼にしてみたら、守っている体裁なのだろうけれどこっちにしてみたら抱き締められているみたいで、動く必要もないけれど固まってしまったように指先すら動かせない。
「そうだ、今度は君が作ったサヴァラン食べさせてよ、昔みたいにグランマルニエ使ったやつ……って、君の騎士様が怒ってるみたいだし帰るよ。いいね、守ってもらえるなんてお姫様みたい。じゃあね」
ひらりと手の内側を見せると、男は呆気なく背を向け帰っていった。かちゃん、と音がするまでドアから手を離さず、きちんと閉まってからポーチへ続く階段を軽快に降りていく音。ここでようやく、アルカードの腕の力が弱まった。
「平気か」
「う、うん」
体を離すと彼は脇に剣をしまう。心臓がばくばく鳴っている。私は浅い呼吸を繰り返す。まだ腕の感触がしっかりと腰に残っている。そんな不純な思いをすべての元凶である菓子屋の娘が抱いているなんてなんにも知らずにアルカードはため息を落とした。
「どうして助けを呼ばなかった」
答えられなくて胸がつまった。頭をめぐるものはたくさんあったけど、私はただ黙って奥歯を食いしばり、アルカードを見つめることしかできない。
「この前だってそうだ。一歩間違えば拐われてた。声が出なかったのか?」
「……ごめんなさい」
とうとう彼のまっすぐな目を見ていられなくなり、俯き、謝罪するのが精一杯だった。顔の横に癖のついた髪が垂れ下がる。
「おまえに何かあったらオレが困る。頼むから守らせてほしい」
下を見たまま頷く。床には試食用に使ったのであろう先が汚れた細いスティックが隙間に落ちていた。
ぽん、と頭に大きな手が落ちてきて私の頭を犬にするみたいにしてぐしゃぐしゃに撫でると、アルカードが戻っていく足音がした。窓硝子に髪の乱れた私が映る。
助けてなんて、言えるわけがない。
一人また薄暗い店内でぺたりとその場に座り込む。この前、ナイフを突きつけられたとき、本当は私はそういう相手が近くにいることをわかっていた。私をつけている相手を見るのが一度ではなく二度目のことだったから。アルカードがどこにいるかも把握していた。町へ出るときは必ず小さい剣も忍ばせていたし、正直なところ、私なんて拐われていなくなってしまえば、アルカードは私から解放されるんじゃないかっていう考えも持っていた。
だけど今は、頼むから守らせてほしいだなんて言わせてしまったことを後悔している。どす黒い、言い様のない罪悪感が気持ちへ触手のように這ってくる。
これほどの罪はない。だって、本来アルカードが守るべきは私じゃないのだから。世界の何より愛しくて、枯れない花のように可愛らしくて、守るべき存在が彼にはあるのに、守って、助けてなんて私が口にするのはずいぶんと図々しいことのように思えたし、事実私の中の私が、最低だと、嫌な女だと捲し立てる。
だから、私は一人でも平気なようにならないといけなかった。自分自身のために。
そしてとうとう、感謝祭前日になってしまった。
天気にも恵まれ町の通りはすでにお祭りの雰囲気で包まれており、海からの風に揺られたくさんの旗が吊るされ、昔からある黒糖味のスポンジ菓子や、ヒルデの胴体ほどある虹色のコットンキャンディなどの露天の準備が始まったのが店の窓から見える。
高台に建つブルームの応接間の大きな窓からは町が一望出来、左手から崖の上にぽつんとある白壁の病院、年期の入った赤や黄色の屋根屋根、山から海原へ流れ込む川。川岸に沿って並ぶ樹木は感謝祭の頃になると一斉に紫色の花を咲かせ、その川を挟んだ反対側にはまっすぐ正面にある海まで続く広い通りがある。ここに露天が並ぶのだ。青い着色料をうすーく溶いた色の海を臨む港には何隻か小型の船が浮かぶ。旅客を乗せる大型の船はこちらの港ではなく、窓から見て右手にある丘を越えたところに着く。そしてそこでは感謝祭のメインと言っても過言ではない、ルッペン独自の催しがある。それが熱気球。早速山手に開けた緑の丘陵なだらかな土地に二つほど熱気球が浮かんでいる。どれも原色のはっきりとした色使いのものばかり。感謝祭当日には五十近くの熱気球が一斉に空と海の間を浮かぶ。
毎年わくわくしたものだけど、今年は気が重く、ヘリウムガスの入った様々な模様のバルーンでさえ色褪せて見える。明日から苦手な、違う、できれば遠慮したい、いや、大嫌いな年頃の女の子らしい格好をしなくてはいけない。そんな姿をヒルデや友達、それにアルカードに見られるのかと想像しただけで気が滅入る。それこそ世界の終わりだ。明日もいつもと同じ、白シャツ一枚に黒のショートパンツでいられたら。きっと町中でこんな気持ちになっているのは私くらいだろう。
ここは小さな町だけど、みんながみんな自分達が生まれたこの土地、ルッペンを愛している。嫁いでいったひとや、仕事で他の町に行ったひと。ほとんどがこの感謝祭の時期には帰ってくる。町のどこかで男がルッペン、最高! と叫んでいた。こんな具合だ。
ルッペンの感謝祭は規模が大きいことで近隣でも割と有名であり、今の時期はいろんな場所から観光客もやって来るために宿場はほとんどが満室となる。しかも、年々祭りに来るひとの数も増えている。
とにかく、一年で一番ひとが集まり、賑やかになるのがこの感謝祭なのだ。
ガラガラと土の上を埃を巻き上げ回る車輪の音が聞こえてきたので外に目を向ければ、あちこちを巡る見世物小屋の大きな荷馬車が丘を下って町に向かっていった。感謝祭には欠かさず来ている、恐ろしい絵がペイントされた祭りにはおよそ似つかわしくもない荷馬車。
見るからに凶悪そうなピエロが血まみれのナイフに舌を這わせながらこっちを見てにたりと笑っているんだけど、年期が入って以前より雰囲気がある。小さい頃あれが怖くて仕方なくて、横を通らなくてはいけないときは決して絵を見ないようにしたっけ。そういえば、見世物にされる女は名前を奪われてしまい、耳を削がれたあとに熱い使用済みの油を顔面にかけられたとのだと聞いたことがある。
あれから何度も私はヘレナにアルカードの帰省について懇願したけれど、お継母様と呼んでも、苦手な見るからに女の子らしいドレスの仮縫いに積極的に参加しても、私の願いは聞き入れてはもらえなかった。ロマーナ行きの船は週に一回しか出ていない。それが昨日だった。
感謝祭の期間中はどこのブルームの店舗も連休に入るため慌ただしい。本店であるここは、特に。
朝からギフト用の焼き菓子や、感謝祭用のとベリーやブラックカラント、カスタードクリームがたっぷり詰まった魚の形のパイを買いにたくさんのお客で賑わっている。店に出勤してきたみんなは今日は夕方まで通しの仕事だと嘆いていた。
先月入ってきた新人の女の子が注文を受けた焼き菓子の包装に手間取っているのを見て、その場へ駆けつけたくなったけど、もちろん私は店頭に立つことなく、応接間でひたすら手紙の封を破っては開け、破っては開け、という地獄のような作業を繰り返している。
いらっしゃいませ、の声が聞こえる度に店に行きたい衝動に駆られた。私もあの中で働きたい。焼き菓子の箱を包装紙でひとつのよれも歪みもなくきっちり包み、マカロンの注文を一つづつ伺いケースに入れて、みんなが理解できないと口を揃える、甘いものが苦手なのにケーキを買いに来るお客さんにチーズケーキを勧める……いっそ耳栓が必要かもしれない。
こんなことなら工場でマドレーヌを作る機械を眺めていた方がましだ。開けても開けてもなくならない馬鹿げた手紙の束の中に私はまたあれを見つけてしまった。
ロネ・カラバ。
変わらず金の封筒に印刷された名前。一度開けかけた封筒をテーブルに置き、いつもは手でびりびりとやるのを、なんとなくイラクサ模様のペーパーナイフで封を開く。中から出てきたのはやはり一枚の紙。それをひっくり返す。
「なにこれ……白い…イチゴの花?」
鼻を近づけてみるが、香りがするわけもない。小さな愛らしい悲鳴のない花のミイラが押し付けられた台紙を手にはっとする。
あいつだ。
この前営業時間過ぎにわざわざやってきて、一人ぺらぺらと楽しげに話して帰っていった軽そうな男。あのときは手紙を送ってくる男の中の一人だろうくらいにしか認識しなかったけれど、オレンジ色の頭をしたあの男こそがロネ・カラバだったのだ。
もう少しましな男だと勝手に興味すら抱いていたため、私は多少がっかりしたがこれでロネ・カラバがどんな相手なのかわかった。ただひとつ、なぜ押し花なのかを除いては。
気がつけば時計はお昼を回っていた。どうりでお腹がすいたわけだ。自分には自信がないけれど、体内時計の正確さにかけては自信がある。
そういえば、昼前には高さ一メートルと半分以上はあるというチョコレートの像が一度工場の冷蔵庫に搬入されているはず。これはさすがに機械で作ることができないので、継母がどこかから連れてきた職人たちが一体一体、仕上げたらしい。
ブルームから出す商品だ。夕方王室に運び込まれる前に一度見ておきたい。それに冷蔵庫に移動させる仕事をヘレナから言い渡されているのはアルカード。話せなくても、遠くから見ることくらいできるかもしれない。いや、見れるだけで十分だ。そう思った次の瞬間には私はもう立ち上がっていており、手にしていたものを無造作に後ろのポケットへ突っ込むと、工場へ向かっていた。
アルカードのことを考えると、胸がぎゅうっと麻薬性のあるものに甘く締め付けられる。と同時に泥より、タールよりべたついた拭いきれない罪悪感の波が覆い被さってくるのがわかっているのに、どうしても彼のことを目で追ってしまう。何度もやめようとしたけれど、これだけはどうしてもやめることができなくて、むしろ日を追うごとに気持ちは強くなっていく。
できることなら、アルカードの名前をヘレナから奪い返したい。そうしたら、私も僅かながら同じ位置に立てるんじゃないだろうか……なんて傲りだ。そもそも立っている場所が最初から違う。
一人誰も知らない鍵のかかった場所でごちゃごちゃと考えを積み上げては崩し、積み上げては崩し。二年間これの繰り返し。諦めた、と踏ん切りをつけたはずでも結局は目が彼を追ってしまう。まるで何かの病気のようだ。
昼休憩に入った人のいない工場はがらんとしていて、焼き上がったフィナンシェが流れてくるコンベアも、材料を一気にぐるぐるとかき混ぜる機械も停止している。それらを横目に作業台が並ぶ通路を抜け、奥の一番大きな冷蔵庫の付近にたどり着いた。小さな天井からの明かりがそこだけ点灯した薄暗い中、ちょうど作業が終わったのかアルカードは固く閉められた銀色の大きな扉の前で黒い作業用のエプロンを外しているところだった。一緒に作業をしていた他の従業員たちは見当たらない。私はほっとした。
「チョコレートの像はもう中に?」
二メートルほど離れたところから声をかけると、気づいたアルカードがエプロンの紐が引っ掛かって乱れた髪を直しながら頷いた。
「おかげでオレまで甘ったるい匂いになった」
腕を顔の高さまで持ち上げて嗅ぎ、アルカードは眉間に皺を寄せる。
可愛い。私より年上のしっかりとした男のひとであるはずなのに、こういう何気ない仕草に愛らしさを感じてしまう。それを悟られないよう私は続けた。
「世界の始まりの像もあるんだっけ」
「そう箱に書いてあった」
「ふーん…感謝するべき存在じゃないのにね」
感謝祭で感謝するのは、常日頃私たちの生活の糧となっている動植物たちと世界の始まり。つまり、このへんてこな決まりを作り上げてしまった創世主様。
タペストリーや木製の玄関にかける飾りなどにもなっている彼は中年の長髪に長い髭をしていて、右手をピッと揃え胸に置いている。切れ長の目は何もかもを見透かすよう。
今回のチョコレートの像だってメインは彼だ。
「なんだってこんな世界にしちゃったんだろ」
独り言のように呟いて、冷蔵庫の中にいる世界の始まりに視線を投げる。
「……おまえならどんな世界にした」
「え? 私? 私ならもちろんこんな世界になんかしなかった」
私からそんなことを言うのは彼に悪い気がしたけれど、事実、私ならしなかった。
世界の終わりなんて名前を持ってはいるけれど、世界の始まりが世界中の名前に魔法をかけたのと違って、実際私自身になんのどんな力があるのかわからない。世界を終わらせる呪文を知っているわけでも、未来を予知できるわけでも、恋の魔法を使えるわけでもない。得意なことと言えばお菓子を作ること。腹時計で時間がわかること。それくらいなものだ。
なのに古から残る言い伝えは世界の終わりを手に入れることは世界を手に入れるとと同様だと語り継がれている。
世界の終わりとしての私の役目がはっきりしていないせいなのか、おかしな噂ばかりがどんどん広まっていた。
例えば私の髪で編んだ網で漁をすると大漁になるとか、指の骨でネックレスを作ると生涯幸せが約束されるだとか、ひどいものだと心臓をステーキにして食せば不死身になれる、しかも味付けは生姜醤油がいい、だとか。ここまでくると意味がわからない。
手紙を送ったり、わざわざ家に出向いてきて私に求婚するため会う約束を取り付けようとするひとたちは一見身なりも家柄もいいけれど、本当のことはわかったものじゃあない。おかしな噂を信じて麻袋に私を詰め込もうとするひとたちとなんら目的は変わらないかもしれないのだ。
「ほんとの名前なんてさ……両親がくれた名前だけで私は十分だな」
最も身近にある両親が遺してくれた大切なもの。
きれいにアルコールで拭きあげられた冷蔵庫と揃いの冷たい銀色をした作業台に目を向けながら、遠い昔に思いを馳せる。お父さんとお母さん。昔はなんてあったかで、なんて優しい場所に私はいたのだろう。すべてなくなってから気づくだなんて。
「シシィ」
「えっ」
名前を呼ばれ現実に引き戻される。それも衝撃的に。唐突すぎてこのときは恥ずかしいという気持ちすら湧いてこなかった。呼び掛けられて視線を合わせるとアルカードが僅かに笑みを浮かべている。ひなたの香りがする、優しいまなざしだった。
「いい名前だ」
言葉が耳に入って頭に届くまで時間がかかった。
あらゆることを感じる部分、心にようやくアルカードの言葉の意味が到達したとき、耳から首までが一気にかあっとかまどが爆発したように熱くなり、腕と脇の間から力が抜けていた。
とにかく熱い。冷蔵庫に駆け込みたいくらい。今の私ならクーベルチュールのチョコレートを湯煎なしで溶かせそうだ。
「ありがとう」
この一言を発するまでどれくらい間があいただろうか。自分の中ではひどく長い間黙っていた気がする。ありがとう、ただそれだけなのに他の国の発音が難しい言語を必死になって声にしたときのようだ。
やはり、両親のくれた名前を誉められる方が嬉しい。もしかしたら本当の名前を呼ばれる数倍も嬉しいかもしれない。と、喜びに浸ろうとしていた途中で考えとどまった。違う。無理矢理に思い込みたかった部分がある。そうしたら少し報われる気がしたから。
「アル!」
工場の外へ出ようと、アルカードの足が動いたとき私は咄嗟に彼に呼び掛けていた。ほとんど無意識の行動に私はしまった、と心の中で目を瞑る。ばか、と自分の中で自分が言った。どうしてこのタイミングでずっと聞きたくて何度も舌の上まで出かけていたのにそこにとどまったまま聞けずにいたことを聞こうとしているのか。だけど生憎出たものは戻らない。
きゅっ、と靴の裏と床が擦れる音がしてアルカードが足を止めた。
「なんだ」
彼の故郷の澄み渡る海を知る瞳を見て、言葉はまたもや奥に引っ込んでしまい、引っ込んだまま隠れてこっそり様子を伺っている。だめだ。
「ううん、やっぱり、なんでもない!」
でへっ、と首を左に傾けながら両手を後ろに組み、気持ち悪いくらいの笑顔で返して心で泣いた。私は一体何をしているんだろう。変な奴だって思われたに違いない。
「言いたいことがあるなら言えばいい」
「あの……忘れちゃった!」
それでも呆れることなく、いや、呆れられたかもしれないがそうとは私に感じさせずにアルカードは表情を崩すことなくエプロンを作業台から引きずるようにして手に取った。忘れちゃったでごまかせる相手ではなかったが、アルカードは
「思い出したら聞かせてくれ」
と、また足を踏み出した。
「あ」
「なんだ」
聞きたかったことを改めてきちんと聞こうとしたわけではなく、私はアルカードに謝らなくてはいけないことがあったのを思い出したのだ。
「今年も私のせいでごめんね……結局ロマーナに帰れなかった」
「おまえのせいじゃない」
「だけど」
「もうここへ来て二年だ。慣れた」
顔を出入り口に向けアルカードは背を向けた。何に慣れたというのだろう。この郷土愛の強い土地ルッペンに? ブルームという洋菓子屋に? それともヘレナの暴君ぶりに? いろいろと余計なことまで勘ぐってしまう。死ぬまで好きでもない女を守らなくてはいけない運命を彼は呪ってはいないのだろうか。きっとマリベルは私のことを夢にまで見てしまうくらい憎くて呪っているに違いない。違いないし、そうであってほしかった。
砂糖や小麦粉、卵の合わさった甘い香りがぎゅっと詰まった広い作業場に一人残った私はアルカードの姿が見えなくなってもしばらく光の差し込む出入口を眺めていたが、息をひとつ床に沈めて足の向きを変えて冷蔵庫の黒い取っ手を掴んだ。
今年は店が休みなだけ、まだみんなの負担は少ないけれど、来年はわからない。隣の町に実家があるためか、ルッペンには郷土愛を持たないヘレナが店を開けようかと話しているのを聞いてしまった。工場の中には休みをなかなか取れない従業員もいることを私は知っている。知っているのに、何もできない自分が嫌だった。違う、できないんじゃない。継母との仲を保つために見ぬふりをして改善していない。
ひんやりとした広い室内に入るには結構な力がいる。砂糖二十キロ分を持つには苦労はしても、剣術を習い始めてからは前よりも力がついた。固いピーナッツクリームの瓶のふたを開けられるようになったくらいまでには。
横にある室内照明のスイッチを入れてから腕に力を入れ扉を開く。とたんにチョコレートの甘美でとろけそうな香りが押し寄せて顔や腕の表面を冷気がさあっと撫ぜ、そのまま私の全身を包みこむ。完全には閉めず僅かに隙間を開け中に足を踏み入れた。きっちり閉めてしまうと中から開けるのに大層な力が必要なのだ。一度、ヒルデと二人で閉じ込められてしまって大変な思いをしたことがある。ピーナッツクリームの蓋は開けられても、ここの扉は難易度が高い。
冷蔵庫の温度はチョコレートを保存するため十五度から二十度に設定されていたため、そこまで寒くはなかった。チョコレートは繊細だから取り扱いが大変だ。
が、中を見て私はぎょっとした。なんにも知らなかったら誰だって驚くはずだ。私は口許を押さえ床を見下ろす。なぜならそこには黒い棺が十ほどずらりと奥に向かって並んでいたのだ。ご丁寧に上には十字架とそれぞれの名前が刻まれている。どうしてこんな包装形態にしたんだろう。ヘレナの発想は奇抜でそれが一部を除く人々に受けていたがたまに理解できないことがある。柩を見たのは父の葬儀以来だった。
他にも向かいに大きな長方形の背の高い箱がいくつか立てた状態で置いてあった。アルカードより高いかもしれない。ポーズをとっているものは柩には入らないから箱にしてあるのだろうけど、どれも赤地に白文字で取り扱い注意と書かれたテープが貼ってあった。柩にも上と下、つまり頭と足の部分に同じものが付いていたため、残念ながらどれも中は見れそうにない。
騎士、泉の乙女たち、猫の天使。棺と箱の幅五十センチほどの隙間を注意しながら進み、書いてある名前をひとつひとつ確認していくがどうも薄気味が悪い。中に入っているのはチョコレート、甘くて美味しいスイーツだってわかりきっているにも関わらず一人でいるのにそうでないような違和感がある。マリベルやその両親の深い恨みがこめられているような気さえしてくる。
順番に眺めていくうちに突き当たりの一際大きな箱の前で私は足を止めた。あった。今回の主役である世界の始まり。私とは正反対の場所にいる存在の彼の名前を指先でなぞるように触れてみた。
どんなポーズをしているのか主役とだけあって横の大きさは他の箱の三倍はある。私は手を後ろに組んでかすったような傷ひとつない箱のまわりをぐるりと一周した。
専門でないからわからないが、こんなに大きなチョコレート細工を作るにはどれだけ大変だっただろう。
職人はすごいなあと感嘆の息をついて外に出ようと扉の方を向いたとき、私は息を飲み込んだ。まさか。そんな、まさか。
手前から三つ目の柩の蓋がずれて開いていた。
棺の中に赤いサテン地の布と大きめのシリカゲルが入っている。中身は空っぽだ。
待って。さっきまで閉まっていたはずだ。どう考えても閉まっていたはずだ。それに、チョコレートの像は一体、どこへ?
さーっとつむじからつま先まで外気に関係なく寒いものが体の中で落ちていく。目に見えない恐ろしさはもちろん、ヘレナになんと説明しよう。一人でに勝手に開くなんてことは考えられないし、少しでも音がしただろうか。いや、これっぽっちも気がつかなかった。
緊張で全身が強ばり、心臓が縮こまるのを感じながら呆然と空の棺を眺めた。やはり空だ。サテンの赤が目に眩しく、冷凍庫の中でごううん、ごううんとモーターが回る重たい音だけが奇怪に響く。普段なら何とも感じないが、今はそれさえ恐ろしく聞こえる。動けない。足に根っこが生える、とはこのことだった。工場の従業員は皆出払っている、あと五十分は戻ってこないだろう。
早くここから出なきゃ、こんなところに長居は不要だし、ヘレナに報告もしなくてはいけないし、何よりドアは完璧に閉まっていないから冷蔵庫の温度が変わってしまう。
ごくりと唾を飲み込んで私が足を踏み出そうとしたとき、誰かが私の腕をがしり、と強引に掴んできた。突然転んでしまったときのように、周りの風景が荒く変わる。声を上げる間もなく口元を手で塞がれ、視界が静止したとき、私はナイフを突き付けられたときのことを鮮明に思い出した。
まさかこれほど身近な場所でこんなことが起きるなんて。可能性を考えた夜はあったけれど、それがまさに現実となってしまった。
あの棺の中に潜んでいたのだ。
本物の人間が入っていたら運ぶときに気がきそうなものだけれど、とにかく信じられない。夢かと思ったくらいだ。何かあれば一人で対処できると思っていたが、いざとなったらそんなことなどできないのだと私は自分の非力を痛感する。暴れたら助かったかもしれないのに、暴れようという考えまで及ばなかった。それくらいに気が動転していた。九足す七の計算もまともにできないくらいに。
私を捕まえた人物は、そのまま後ろから私の身動きを封じるように体をぴったりとくっつけてきた。背中に他人の熱を感じ、目に生理的な涙が浮かぶ。力の加減から言って男だ。チョコレートの匂いに混じってほのかに腕から男性用の香水の匂いがした。しかも知っている香りだ。一体どこで嗅いだのだろう。
「しーっ、静かに」
男は月明かりのない夜の森ですべてを見通す狼から隠れるように私の耳元で声を潜めた。耳たぶの産毛に風を感じる。私の体を押さえてくる腕から依然力は抜けない。冷蔵庫のモーター音だけが響く中、犯人を確認するため首をゆっくり後ろへ回すと相手と近い距離で視線が合い、私は目を見開いた。
「ロネ・カラバ…!」
昨日と同じオレンジの髪、ムスクの、木箱に青い鳥を入たような香り。彼は他人の敷地内に無断で入り込む悪人からはおよそかけ離れた笑顔を返してくる。
「やあ。チョコレートのおばけかと思った? びっくりしちゃってさ、可愛いかったな」
ロネ・カラバの手が口元から外れる。バニラウエハースより軽い物言いに私は百度の熱湯にぶちこまれたようになって、一瞬で頭に血がのぼった。
強面の殺し屋や冷酷な殺人鬼なら怯んでしまったかもしれないが相手は押し花が趣味のロネ・カラバだ。押し花なんて少女趣味のヒルデでもしていない。
「な、なんで、なんで、あんたこんなところで何してんの!?」
「今日はエンド・オブ・ザ・ワールドをもらいに来たんだ」
感情が昂ってうまく話せない私に対し、人の家に忍び込んだ彼は平素どころか、むしろ余裕たっぷりのように見える。
「ケーキなら店に行って」
「行ったさ。行ったらいないんだもん。困っちゃったよね、せっかく朝早く起きて来たのにさ。ショーケースにも、コンフィチュールの瓶の中にもいなかった」
「お菓子の妖精か何かでもお探し? それなら海の高台の方に行ってみて、いい病院があるから!」
私の体を縛り付けてくる腕をほどこうと体を揺すれば思いの外簡単にロネ・カラバは拘束を解いた。向き合って正面から睨み付けたけれど、やはり彼はこれからお気に入りのカフェにでも行くかのような落ち着きようだ。服装だって、流行りものが好きで頭の空っぽそうな男の子達がよく着ているなんとかって洋品店のロゴが入っているだけで値段がぐんと張るネイビーのシャツ。
「ジョゼフは確かにいいカウンセラーだと思う。苦い薬もじゃんじゃん処方しないしね……それよりさ、僕が探しに来たもの、おんなじ名前なんだけど値段がついてないんだよねー?」
顔を寄せ、変わらない様子で私を見つめるロネ・カラバは不気味に見えた。眼球の裏から脳に繋がる神経が冷たくなって、そこに冷たい水滴がぶら下がるような心地がする。手紙の宛名に親愛なるシシィ様、と書かれていなくとも、べったべたにデコレーションされた賛辞の言葉が手紙に並んでいなくとも、結局彼も目的は皆と同じだということを私はすっかり忘れてしまっていた。
「君はいったい、いつ、誰のものになるの? 名のある騎士の家系や貴族、王室からも求婚や高価なプレゼントを受けて引く手もあまたでさ。みんなが君のことを欲しがってる。それなのにどうして? もしかして、もう君の心は誰かのものなのかな。例えば…絶対に君を受け入れられない相手とか」
君の心、とロネ・カラバは私の心臓に指先を向けた。彼の茶色い猫のような目は私という人間をかたどる外側ではなく、その内側にある本来なら誰も見ることの出来ない気持ちや秘密、さらに誰にも見られたくない、私自身でさえ認めたくないどろどろと汚れた感情や傲慢さ、あちこちへひっくり返った矛盾といったものを、さながらアイスクリームのふたの裏側をあますところなく長く赤い舌で舐めとるように見つめてくる。見通すように瞳を細める様子は悪魔に近い。
ほとんど初めて会ったに変わりない男が何を知っていると言うのか。どうしてアルカードに対する思いまでほのめかしてくるのか。
私は空気を思いきり吸い込んで肺を広げる。誰もいないのなんて百も承知でいたけれど、叫ばずにはいられなかった。
「出ていっ………」
大きな声を張り上げようとしたとき、顎と後頭部をぐっと押さえつけられて何か柔らかく甘い香りのものでくちびるを塞がれた。すぐ目の前には長い睫毛と瞼にかかるオレンジの髪。普段生活している中では絶対にあり得ないこの距離感。甘いチョコレートの香り、ではなくほんのりとした風味。何が起きたのか理解するのにまたもや時間がかかった。
キスだ。
彼は彼自身のくちびるで私の声を封じ込める。しかし、声は防げても体はそういうわけにはいかない。私は手を振り上げて思いきりロネ・カラバの頬へばっしん、と手のひらを言葉通り思いきりぶつけた。じんじんと手のひらが痛むのに気づいたのは後のことだった。
「信じられない……あんた、自分のこと紳士だって言ってたじゃない!」
「僕は紳士である前に男だからね。男ならほしいものは手に入れるべく行動するものでしょ…それにすぐ塞げるものが口しかなかったし。もしかして初めてだったの?」
初めてで何が悪い。キスなんてする予定はこの先手帳にも書いてないし、大体キスは口を塞いでしまいたい相手ではなく、好きな相手とするものだろう。私は今すぐにでもバスルームに飛び込んで口に消毒用のアルコールか漂白剤を突っ込みたい気持ちになった。どちらも危険なのは承知の上で実際にはしないけど、それくらい今起きた事実を抹消してしまいたかった。世界の終わりが時間を戻す魔法の力があったならいいのに!
叩いてもなお、ロネ・カラバはへらへらとしていて、円形の古傷がある手で真っ赤になった頬を押さえ子供のように屈託なく笑いかけてくる。それが私の苛立ちに拍車をかけた。
「あんたには関係ない! それより棺の中のチョコレートはどこ!?」
「ああ、僕が食べちゃった。でもちょっとブルームが始まって爪先の辺りは白っぽくなってたけど大丈夫? ちなみにどこのカカオ使ってるの、ヤハウェ? それともロマーナかな、香りが濃厚なのはウィ、」
髪が怒りでざわざわと逆立ったような気さえする。事実すーっと冷たい風が鼻から入ってきて怒りで目の前が開けていく。ウィッドランド、彼が言いかけた上からすぐさま言葉を重ねた。
「食べた!? 嘘でしょ!?」
「嘘だよ。もちろん。ちょっとかじったけど。あっ! でも! 踵の底だから!!」
何から何まで腹が立つ。嘘とはなんだ。この状況でよくそんな冗談を言えたものだ。返す言葉がなく、無言で両手をあげ、彼のことを殴ろうとする私の手首をロネ・カラバが順番に押さえてくる。それなら棺の中の作品はいったいどこにあると言うのだ。
「離して。触らないで。あんた本当に何しに来たの」
「待って待って。暴れたらこの素敵な作品、ダメになっちゃうんじゃない? 王室に献上するんだっけ。ただでさえひとつ像がなくなったのにこれ以上の損失は免れたいよね?」
「……どういうこと」
言っていることはわからない。ただ嫌な予感はする。ロネ・カラバは私の後ろに視線を向けた。
「あの箱の中に入っているの、本当に世界の始まりだと思う?」
頬を赤く腫らせたままぐっと身を乗り出してきたロネ・カラバを避けようと背が仰け反る。
「……まさか、やだ………嘘でしょ」
背中が白い壁に触れ、私はそのまま体すべてを預けてしまう。
それこそ嘘でないと困ることだ。感謝祭に王室へ献上するものに何かあれば、父と母のお店に、ブルームの名前に傷かつく。傷どころか、大変な汚名を着せられる可能性だってあるし、王室を愛する土地柄、大切にしてきた昔ながらの常連客が離れてしまう。質の悪い冗談だって言ってほしい。
照明と世界の始まりが入っているはずの箱を背にした彼の顔に影がかかる。日が落ちる直前の白い彫刻のようだ。壁と彼自身の胸の間に私を挟み込み、ロネ・カラバは首を傾けた。
「返してほしいなら、君の名前を僕に差し出すんだ」