06……こんにちは。冥界の入り口。
父親にレイプされていたのではないか。その由紀の指摘に健太は石のように丸まって、顔を手で覆った。耳まで恥辱に染めて、何度も何度もそれを否定しようと声を発するが、形としてまとまらない。舌はもつれ、唇は震え、視線は彼女から逃れようと、ぐるぐる回った。
健太の肌をゴツゴツした指が滑っていく感覚が浮かぶ。野太い猫なで声が酒臭さを伴いながら、健太の耳元で踊る。フローリングの床はいつ間にか消えていて、畳間だった。チカチカと切れかけの蛍光灯が明滅する音が聞こえた。男の動かす腰に合わせて、仰向けの健太は揺れた。きっと襖の向こうで、妹たちが声を殺して見ているのだろうとぼんやり思う。
明日のご飯は何にしよう、財布にいくら残っていただろうと考える。明日の天気を考える。掃除の順番を考える。下校した後、父の帰ってくるまでの短い時間に何のテレビを見ようか考える。それは何か別のことを考えなければ屈辱的な思考に押しつぶされてしまうからだった。顔を動かさないのは、男の顔を見ないためということと、母の残したタンスを見たくなかったから。そんな健太を男は激しく責め立てた。知り尽くしたように撫で、なぶり、喘がせようとする。意思に反して健太の顔は赤く色を孕んだ。荒々しく男が腰を早め、健太は早く終われと祈った。祈って祈って、祈ったところで男は首筋を舐め、健太の耳を噛んだ。健太はその瞬間、短く喘ぎ、無力にも達した。母の化粧台に被せられた布地の隙間から、鏡に写った自分の顔が覗かせる。その横の襖から、二人の妹の眼が覗いている。健太はその顔に耐え難い屈辱を覚えた。憎悪を募らせ、呪詛しながら、世界の終わりを祈った。祈って、祈って、祈って祈って、祈って、祈って、祈った。
意識が戻る。健太は薄く目を開いて、辺りを見た。六畳ほどの部屋のダブルベットの上にいた。起き上がり、自分のいる場所を確認する。
小さな窓から見下ろす地面は遥か遠くにあり、ライトをつけて走る車はミニカーのように小さい。時折、窓は吹き付ける風に小さく軋むような音を立てた。壁際の本棚には沢山の絵本が置かれている。海外の童話から、日本の昔話まで雑に押し込まれていた。間々に園芸関係の本があった。
彼女の寝室らしいということを健太は認識した。扉近くのローラー付きの食台にドーム状の鉄蓋が置いてあった。汚い字で「おきたらたべろ」と付箋がしてある。蓋を上げると分厚いサンドイッチにナイフとフォーク。健太はサンドイッチを頬張った。両側を薄く焼いたパンのさっくりした歯ざわりと、甘み溢れるトマトと爽やかなレタスの風味に身震いする。どうやら体は美味しいと言っているらしかった。続けて、健太は噛み締め、味わうように、咀嚼する。マヨネーズの酸味とマスタードの仄かな甘辛い舌触りに、思わず瞼を閉じた。味わうこと以外に脳のリソースを割きたくはないと感じたからだった。
咀嚼を続けてくうちに皿の上のサンドイッチは綺麗さっぱりなくなった。知らない間に吐いてたのか、元より空腹だったのか、それとも料理の旨さが原因なのか、まだまだ胃には余裕があった。
健太は、そのまま部屋を出る。天井のない短な廊下を進み、いくつかの扉を通り過ぎ、先程までいたリビングらしき場所に出る。彼女は背を見せたままテーブルでチェスをしていた。相手は天井から伸びる真っ白な機械の手。
健太の気配を察して彼女は振り向く。その隙をついてアームは由紀の駒をそっとずらすが、彼女は気づかない。
「おはよう。それともこんばんは、かな? とにかく目が覚めてよかった。まだ今日のうちだよ」
「あのサンドイッチ、凄く美味しかったよ。あんなに美味しいサンドイッチを食べたのは初めてかもしれない。ありがとう」
「あはは、そのありがとうってサンドイッチが美味しかったってありがとうなのか、介抱してくれたことへの感謝なのか、分かんないよ」
「両方だよ、ありがとう」
「ふふふ、どういたしまして」
顔を向き直し、彼女はチェス盤に目を向ける。おやっという顔をして、顎に手を乗せ、少し悩んだ。
「パンは違うけどね、野菜は自家製だからね。丹精込めて私が作ったんだから、美味しくて当然よ」
「水飲みたいんだけど、どこでもらえばいいかな」
「貰う前提に話し進めるんだね、戸賀くん。それでダメっていったらどうするつもりなの? 我慢するの? 外に出て雨乞いでもするの? それはそれで見てみたいけど」
「もらっちゃダメかな」
「いいよ、水道はすぐそこ。っていうか玄関上がってすぐに見えるから、分かるよね? ああ、そのナイフで私のこと、刺すのだけはやめてね」
健太は後ろ手に握った拳を強張らせた。感づかれたのだろうかと思う。何か自分はミスをしたか。そう思考を巡らせる。窓ガラスに反射した自分の姿を見る。
「どういうこと?」
「戸賀くん、戸賀くん。どういう意味って聞くならまだしも、どういうことって聞くのは間違ってるわ。その言葉にはどうして分かったんだという気持ちと、僕は何も知らないけど、何のことってとぼけようとしてる気持ちが混然としてる。もうその時点で戸賀くんはゲームオーバー」
微笑みながら白いアームをつついて、彼女はチェスの駒が移動していることを抗議する。しかし、アームはここぞとばかりに機械を演じて沈黙したまま。
彼は笑って、ナイフを床に落とした。カランという音を鳴らして、くるりと時計回りにナイフは床の上で回った。
「……凄いよ。最初は当てずっぽう?」
「え? ああ、さっきの話し? 九割方は何かあるなって思ったわ。だって戸賀くんはあれほど迷惑をかけようとはしなかったじゃない? ぶっきらぼうで、無愛想だった。二千円をねだった時だって、苦痛に顔が歪んでたし。それなのに目が覚めた途端、サンドイッチを褒め称えて、愛想よく感謝して、遠慮なく水をくれだものね。当然、何かあるなって思うよ」
健太は恥辱を晴らそうと思った。知られてしまたことをこの世から抹消しなければならないと思った。そうしなければ、また惨めな自分に戻ってしまう気がしたのだ。父親の慰み者になっていた頃の惨めな自分に。次の日、何もなかったような顔で妹たちに接していた軟弱な自分に。それが堪らなく嫌だった。
相手が自分に良くしてくれた人間だと分かっていたが、その衝動が止められなかった。すえた臭いが、男の、父親の、あるいは自分と寝た客の臭いがどこからともなく漂ってきて、耐えられない気持ちになった。
「恥の上塗りだと思うけど、素直に感謝してるし、謝罪するよ。ごめんね、本当に。きっと、すぐに警察とか呼べるんだろ? すぐに呼んでくれていいよ。目の前から消えて自首しろっていうなら、それでもいい。僕……俺は、そうしないと君をきっと殺してしまう。冗談とかじゃなくて、なんでかな、凄く冷静な気持ちなのに、君を殺してしまわないといけないと思ってる。自分でもびっくりするくらい怒ってるんだ。それなのに凄く普通に振る舞える感覚、分からないかな」
もはや健太自身何をいっているのか自覚していなかった。狂気の沼に足を踏み入れつつあった。父を解体した時のように。あるいは同級生を“異常な方法”で脅した時のように。
ただ彼女をできれば殺したくはないという気持ちは本物だった。だからこそ、こうして彼は降伏を示したのだ。逮捕され、妹たちと同じように囚人として過ごせば、彼女への怒りも収まるに違いないと思った。あるいは永遠に独房の中で過ごせばいいと思った。
チェックメイト。そう彼女は呟いて、背筋を伸ばす。義手を匠に動かして、電動の車椅子で健太に寄った。
「戸賀くん、私はね、もう死んでる」