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05……天孫降臨2/2

 赤い炎が黒いススを吐息のように吐き出しながら、小さな平屋を呑み込んでいた。健太は灰色のパーカーのポケットに手を入れて、自分の家が燃えているのをぼうっと見ていた。慌てた様子もなければ、驚いた様子もない。通報すら彼はしなかった。ただ焚き火を眺めるように見つめているだけ。

 近隣住民の誰かが通報したのか、火花の弾けるような音に消防車のサイレンの音が混ざる。

 沢山の見物人の中に紛れながら、理子は彼の後ろ姿を見て、ほっとした。健太が生きている。それだけが嬉しい。

「よかった。本当によかった」

 理子が健太の家に火をつけた時、彼はまだ家の中にいた。気づいた時には三分の一が炎に巻かれていたが、彼は動じなかった。必要最低限の荷物を持ち出すと、あとは構わないと言わんばかりに庭で家が燃えていくのを見届けた。

 無表情にただ見ている。それでも彼女には健太の表情が悲痛に叫んでいるように見えた。後ろから抱き締めたくなり、衝動と涙を堪える。

 何故、何もせず彼は家が燃えるのを黙って見ているのか。理子にはよく分かった。それが目的でもあったのだ。

 目的。それは“見えない鎖”を断ち切るため。

 人間は誰もが見えない鎖に繋がれているのだというのが彼女の持論。それは時に家族といった名前で、あるいは友人や、環境、職業といった名前で自分を“自分だ”と定義してくれるもの。だから、まとわり付く鎖が多ければ多いほど、人は安心する。それは自分という形をはっきりと保証してくれるから。しかし、鎖は同時に自由を奪うものだ。その重さによって、身体を束縛する。

 自由を得るにはどうすればいいのか。彼女は考えた。答えは単純だった。全てを失えばいい。彼が捨てきれないでいるものを全て、消し去れば、彼は本当の自由を知る。

 燃え盛る炎を見つめる健太は今、自分を自分だと定義してくれる心理的な支柱を失った。それは大変なショックなのだろうと理子は顔を曇らせる。記憶だけでしか語ることのできない自己を形成し、(はぐく)んだ住み慣れた我が家。記憶となったそれは時間とともに擦り切れて、否が応なしに変質してしまう。

 理子は自分がもしも健太だったらと想像し、息苦しさに目を閉じた。しかし、同時にそれは彼の父や、妹や、弟の因果を完璧に断ち切るもの。現在や未来に続く事象ではなく、過去の記憶に変わる。

 そう考えながら、理子は母のことを思い出した。捨てきれない過去に囚われていた母。

 理子の父の会社が倒産し、社長夫人としてのアイデンティティを失った彼女の母はいつまでも自分の富裕層(ふゆうそう)としての過去を捨てきれないでいた。社長夫人と持ち上げられていた頃は厳しく、将来のためにと三つと歳を取らないうちから理子に英才教育を文字通り叩きこむような人間だった。それが会社がなくなった途端、溶け切らない氷の固まりのように、右往左往して何もできなくなっていた。

 理子はその時に悟った。自分の母を形作っていたものは周りの人々や環境であって、母自身には何もないのだと。中途半端に残った衣服や、アルバムは母が母であるということを物語っていたが、実際の母は既に抜け殻で、その現実と過去との乖離(かいり)にどうしていいか分からなくなってしまったのだろうと。昔のように優雅さを気取って見ようと思っても、富という裏付けのない母はただの庶民と何も変わらなかった。自分の部屋もなく、何もできず、ままならない母を尻目に、理子は適応した。いつの間にか母はそんな理子の顔色を窺うようになっていた。

 どうにもそれが堪らなくて、気持ちが悪くて、理子は母を変えた。縋って止める母の服とアルバムに火をつけ、父と離婚させ、名前を旧姓に戻させた。あらゆるものを強制的に奪い、失わせ、現実を突きつけたのだ。

 完全にゼロになり、否が応なしに過去は過去と切り捨てられた理子の母は、茫然自失になった。しかし、今では理子の用意した仕事場で明るく励んでいる。夢は自分の会社を持つことだと語っていたのを彼女は思い出す。

 自由になるということはいちから一歩を踏み出すことができるということ。新しい自分を作っていけるということ。辛かった記憶は過去のことなのだから、きっと待っているのは幸福な未来。そう理子は健太を見つめながら、ハンカチで涙を拭う。ここから彼を幸福へと導くのは自分なのだと確信しながら。


 引越しの挨拶に来た理子を見て、健太は酷く驚いた。

「本当にすごい偶然ですね。まるで運命みたい。ご主人様……じゃなくて、えっと健太くん」

 一瞬、健太が仕事の時の顔になったのを理子は見逃さなかった。ぞくんと背筋に電流が走り、身体が自然と屈服しかける。踏み止まれたのは健太がすぐにそれを打ち消したからだった。

「……あの、本当に先生なんですか? 他人の空似とかじゃなくて?」

 健太は少し怯えたように顎を引かせた。妹が、それも自分が原因で殺しかけた相手が、自分の部屋の隣に引っ越してきたなどということを信じたくなかった。それも自分の本当に守りたい場所の隣。最後の砦にして心の拠り所のすぐ側。

 理子が自分を恨んでいて、そのためにわざわざ隣に引っ越してきたのではないだろうかと彼は邪推していた。

 しかし、理子は首を振り、熱心にそれを否定した。確かに、健太の妹“たち”に刺された傷は塞がっていなかったし、折られた指は未だに少し動かしただけで、悲鳴が出る。一部の髪も切られ、ガラスも割られた。壁紙も全部張り替えることになった。それでも彼女は本心から少しも恨んではいなかった。結果、健太の側にいられる。それだけで十分だった。理子の中で妹たちに殺されかけたことは試練の過程でしかなく、またそれ以上でもそれ以下でもなかったのだ。

「そうなんですか。じゃあ、本当に偶然なんですね」

「ええ、病院でもこちらでも一緒だなんて本当に奇跡みたいですよね。あれ、健太さん。やっぱりそうだ、随分と痩せられましたよね? ちゃんと食べてますか?」

「た、食べてます」

 本能的に理子は嘘だと思った。

 その日の夜、扉のロックが解除される音で目覚めた。健太の外出だった。こんな時間になんだろうと理子は目をこすりながら起きる。いつでも彼の外出が分かるように、布団を玄関すぐの廊下に敷いて寝ていた。

 あとを追うと健太は近所のコンビニでカップラーメンとおにぎりを買っていた。燃えるゴミの日、健太のゴミを漁った時の違和感に彼女は気づく。生ゴミの類が異様に少なかったのはこういった不健康な生活が原因だったのだ。

「炭水化物に炭水化物で……うわあ、栄養素が酷い」

 健太と同じラーメンとおにぎりを交互に口にする。覗き穴から見る健太が、どことなく嬉しそうなのが不思議だった。こんな油と毒素の固まりのどこがいいのか。彼女には不思議でたまらなかった。もっと栄養バランスの整った料理を食べるべきであると思う。そう、自分の作った料理のような……と頷きかけ、彼女はハッとした。自分の作った料理を食べさせてやれば、解決なのだ。

 無能に成り下がった母の代わりに家事をこなしていたためか、理子には料理の自信があった。プロとはいかないまでも、それなりのレパートリーを持っていた。

 さっそくと言わんばかりに彼女は、ノートに野菜の栄養価を書き連ね始めた。


 姉を呆然とした目で彼は見つめていた。ベットに縛り付けられ、知性の見られない表情で虚ろを見つめる元姉の姿。

 理子は耐え切れなくなって、声をかけた。努めて冷静に。

「あ、健太さん。来てたなら、一言いってくれてもいいじゃないですか。お姉さん、おはようございます」

「……先生」

 彼が本当に守りたかったもの。それがこれなのかと彼女は思う。全てを捨て去り、自由を得て、新しい未来を切り開く。その代償がこれなのかと無力感に打ちひしがれる。

 健太は姉の治療のために貯金の殆どを当てていた。自分の学費や、家を立て直すための保険金も治療費に回した。それでも姉は回復しなかった。生物として延命できても、人間としては戻らなかった。

 頭部を触って化膿させてしまわないように手を縛られ、満足に寝返りすら打てない。末梢(まっしょう)神経の損傷による、いくつかの機能障害を抱えながらも、検査なくしては、肉体の異常を相手に伝えることもできない。

 改めて、理子は命とは何なのかということに疑問をもたざるを得なかった。彼女を生かしてしまった自分の行為は間違っていたのだろうかと悩む。あの時、通報しなければ、彼は今ほど苦しまなかったのではないか。そう思ってしまう。

 自殺は人間のみが行う愚かな行為なのだと誰かが言っていたのを思い出す。今の彼女には自殺が愚かな行為だとは到底、思えなかった。自殺とは人間が人間として死ぬ最上の終わり方なのだ。死を自覚して、自我の元に命を終わらせるという終わり方。ターミナルケアで、いくつもその満ち足りた表情を彼女は見てきた。尊厳あるその死を。

 理子はもしも自我があったのなら彼女はきっと死を望んだはずだと思った。尿道にカーテルを差し込まれ、他人に糞尿の世話をされ、食事を噛むこともできず、求めることもできず、動くこともまともにできず、ただ生きることを追求され続ける。声にならない声はきっと悲鳴なのだ。殺してくれという悲鳴。

 死。それを決めるのは健太だった。決めなければいけないのは健太だった。

 医師として、その説明責任があったが、どうしても彼女はそれを伝えられなかった。自分が見てきたMS治療の患者、末期がん、難病、薬害エイズ、それらとは(おもむき)も、ありかたも、持つべき情も違った。科学の信徒として主観的になるべきではないと分かっているものの、そうできない苦しみは自分が人間ゆえなのだろうと思う。

 それは人間の美徳でもあり、驕り。

「お姉さん、健太さんが来るといつも調子がいいんですよ。今日だってとても嬉しそう。毎日、見てるから分かるんですよ」

「そう、ですかね」

「そうですよ」

 疲れきった表情の中に、小さく笑みが浮かぶ。その慈愛の篭った眼差しに、理子は健太にとって姉はどこまでいっても血を分けた姉なのだということを思い知った。

「健太さん、今日は帰ってきますよね?」

「……今日は、友だちの家に泊まる予定です」

 理子はその解答に面食らった。日々憔悴していくような健太の身を案じて言ったつもりだった。帰らないと言われるだろうと予測していた。そのための“返し”も用意していた。それ故に友達の家に泊まるという言葉は予想外だった。

 誰で、どこのどいつだと理子は顔を曇らせる。彼女の知る限りで、健太に友達などいなかった。彼の過去を知る人間は死亡しているか、固く口を閉ざして関係を絶っている以外ない。

 当時の友人を差しているのだろうかと彼女は混乱する。そうならば必然的に相手は女性になった。

「健太さん、あのっ」

「先生にはいつも感謝してます。でも、過剰に近づくのはやめてください。気持ち悪いですよ、そういうの。俺が哀れに見えるのか、義務感なのか、後悔から来るのか知りませんけど、やめましょうよ。馬鹿らしいったらないですって」

 理子は一瞬、自分の行為を知られたのかと思い、元より白い肌を青ざめさせて沈黙した。言い訳を考えながら、彼の言葉を咀嚼(そしゃく)する。哀れ、義務感、後悔。その単語から推察し、安心した。そんなヘマを自分がするはずもないのだと改めて自信を持つ。

 中空で止まった彼女の手を、彼は取った。理子は遅れて、自分の手が上がっていたことを思い出す。

「ばいばい」

 そういって健太はお盆を持って、病室を後にした。

「ばいばい?」

 さようならという言葉の意味だと彼女は認識する。だが、それよりも思うことがあった。なんだろうと高鳴る心臓を落ち着けながら、窓を開けようと試みる。しかし、開かない。それもそうだった。数年前に少女が脱走する事件があって以来、窓は職員の持つ特別なキーがなければ、開けられないようになっていた。

「……ご主人様に触ってもらっちゃった」

 顔がみるみるうちに赤くなっていく。敵意の篭った笑みで見られたことを思い出し、汗が噴き出る。気持ち悪いといってもらえたことに涙が出た。嬉し涙だった。理子は立っていられなくなって、その場に尻餅をついた。理子にとって、今の彼の侮蔑は告白に近いものだった。

 彼女は健太の真意を理解していた。自分を案じた敵意なのだと分かっていた。だからこそ嬉しい。それは、そこに愛を感じたからに他ならない。自分は健太にとって、意味ある人間になった。それが嬉しくてたまらない。奴隷や卑しい虫にも劣るような、わい小な自分が高潔な主人である健太に好意ある侮蔑をもらったのだ。客としてではなく、一人の人間として拒絶してもらった。金を払ったわけではないと彼女は財布の中身を数える。

 頬をつねる。壁に頭をぶつける。ペンで太ももを刺した。患者の呼吸器を数秒止めてみた。痛覚神経は確かに現実であると物語り、患者の苦悶に歪む表情はそれを裏付けた。

「やったやったやったやったやったやった…………やった!」

 理子は屋上で絶叫した。金切り声を上げて、フェンスを揺らして滂沱(ぼうだ)の涙を流した。

 自分の遅い春が始まったのを理子は感じていた。

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