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36……咎(とが)

 この世には神様などいないのだと健太は信じていた。奇跡など存在しないのだと。そう信仰していた。それでも面会謝絶のガラスの向こうに横たわる姿はまさに奇跡の産物に他ならなかった。

 壮絶な事故で、死傷者が何人も出たというのにも関わらず、彼女は生き残った。投げ飛ばされ、何度も追突され、燃え盛る車の中から救出された彼女は、なんとか人の形を保っているといった印象ではあったが、それでも生きていた。

「うわ言みたいに彼女、健太健太っていってるんですよ」

 毎日訪れ、幽鬼のような表情でひたすら家族を見つめる健太に、看護婦は励ますような口調でそう伝える。

「そうですか」

「戸賀さんもほら、先月手術を受けたから、知ってると思いますけど、今の皮膚の再生医療とか整形技術ってすごく進んでるんですよ。だからそれほど絶望的にならなくても大丈夫ですから。担当医も驚いてたんですけど、傷の治りが異常に早いって驚いてました」

 そんな気休めの言葉はどうでもよかった。ただ生きてさえいてくれればそれで健太は満足だった。

 健太はそうですか、と頷いて、談話室に向かった。テーブルに肘をついて、祈るように両手を組む。このまま何も問題なく生きていてくれますようにと。

 両手に缶コーヒーを持った由紀が健太の前に座った。流石に寒さを感じるからか、細めのパンツに、灰色のパーカーを着込んでいる。

「ホントに傷の治りは早いみたいだね。尋常じゃないって医者が驚いてた。尋常だなんて言葉を使ってる人ね、初めてみたよ、私。ああ、そのお医者さん、健太くんを探してたよ。是非ともお姉さんを研究させて欲しいって。なんでも、もう髪の毛が生え始めてるんだってさ」

「なんでもいいから、姉さんを治してくれれば、俺はそれでいいよ」

「……ねえ、茨木理子はどこに行ったんだろ」

「またその話しか」

 健太は流石に少しうんざりした。由紀はことあるごとに、茨木理子のその後のことを考えたがった。

 あの車の中から見つかったのは今、集中治療を受けている彼女だけだった。フロントガラスを突き破って投げ出されたもう一人は、“他の人間のパーツ”と混ざってしまったのか、重症の体を引きずって、どこかに逃げたのかは定かではなかった。

「もういいだろ、その話しは」

「良くないよ。怖いじゃん。だって、健くんのお姉さんを誘拐した相手が、どこかにいるかもしれないんだよ。狂ったような運転をしてさ、道路で躊躇なくブレーキを踏むような女が……健くんを監禁して、めった刺しにするような女が、どこかで生きてるかもしれないんだよ。私はね、健くんの姿が一瞬でも見えなくなるだけで怖い」

 由紀はそういって自分の両肩を抱きしめて、震えた。頬はいつものように笑っているのに、眼の奥は恐怖に淀んでいる。

 健太は由紀の手を取って大丈夫だからと言う。理由もなく、根拠は微塵もなかったが、今はそれだけでいいように思えた。

「やっぱり監禁されたこと、警察に被害届出そう? じゃないとお姉さんも狙われるかもしれないじゃない」

「だからいったろ、俺は先生のこと悪いって思えないんだって。先生だって故意にブレーキを踏んだわけじゃないんだと思う。自分から反対車線に飛び出して、進んでブレーキを踏むなんてありえない。だから、何かしてくるなんてことも考え過ぎだって」

「そんな仮定の話しじゃ安心なんてできないよ! 健くんだけの話しじゃないんだよ? 私も理子に狙われるかもしれないのに!」

「落ち着けって。なんで先生が由紀を狙うんだよ。そこからして変だろ。安心しろよ、先生が何かするならまずは俺からだからさ」

 健太はそういって無理に笑ってみせる。今は姉のことでいっぱいで、笑う気力もなかったが、そうしなくては目の前の少女は安心しない。

 健太に由紀は何かを言い返そうと止めた。手の中のコーヒーを一気に煽ると、真剣な眼差して、健太を射抜く。

「じゃあ、私を安心させるために一緒に暮らして」

「由紀、思いつきでいってるだろ」

「思いつき……かもしれない。でもね、私はあの事故から毎日、毎朝、目が覚めてから、君に電話をかける。神様に祈りながら、張り裂けそうな心臓を押さえながら、コール音に耳を傾けてる。君が無事で応えてくれますようにって。もうね、そんなの嫌だよ。耐えられない。また君がどこかへ行ってしまうんじゃないかって。だから、せめて安心させてよ。私の側にいてよ」

 息を絞るような声で彼女はそういうと健太の手に自分の両手を重ねた。

 健太はどうしていいか分からなかった。確かに彼女は事故以来、健太が見つかって以来、ずっと離れることを恐怖していた。少しでも視界から離れるとパニックになってしまうのだ。

「私と暮らすことに何か、健くんに不都合ある?」

「ないけどさ、でも、なんかそれって……」

「それって?」

「…………」

 健太は何も言えず、見つめ続ける瞳に耐え切れず、頷くことしかできなかった。


 気温は低いながらも、日差しは眩しい。

 平屋の庭先には小さなビニールハウスがあった。畳二畳ほどの広さしかない。しかし、彼女にとって、そこはひとつの農場だった。今は二種類のハーブをバイオテクノロジーによって組み合わせたものを(しゅ)として定着させるために四苦八苦していた。

 良い土を選び、肥料を与え、丹精込めて、水を与える。それは究極、どこまでいっても変わらない圧倒的なひとつの真理だった。

 薄いビニールの向こうで健太が杖をつきながら近づいてくるのが見える。由紀はしかめっ面で、ビニールハウスから出ると健太の持ってきたヤクルトに口をつけた。縁側に座って、由紀は腕を組みつつ空を睨む。

「どうだった?」

「二号と三号はダメね。根っこが腐り始めてる。どうしてかなあ」

「化学的な状況で生まれたから、やっぱり化学的な状況じゃないと育たないんじゃないの?」

「そんなの私は認めないよ。大きな施設とか技術がないんじゃ維持できない野菜なんて、野菜じゃない。根性が足んないだよ、あいつら」

 健太は首を痙攣させるように震わせて笑った。皮膚移植がかなり定着し、顔を戻す手術をしてからしばらく経つが、それでも随所に後遺症を残したままだった。顔こそ以前のように戻ったものの指はかけたままだったし、杖がなければ五分と立っていられないのは、もはやどうしようもなかった。

 今では由紀の極度の不安症も大分落ち着いている。死体の数と事故現場にいた人間の数が一致したという検死の発表があったのだ。身元の特定こそはできなかったものの、理子はあの肉片の中の一人に違いなかった。

「それで“外行き”の服なんて着てどうしたの? ああ、お姉さんのところ見舞いに行くんだっけ」

「さっき、着替えを手伝ってくれた時にいったのに、初めて聞いたみたいにいうね」

「だって、ひとりで行くなんていうんだもん。私は心配で心配で」

 ふくれっ面の由紀の頬を指で押して、健太は笑う。

「初めてじゃないんだし、いいだろ。もうそろそろ、由紀も慣れなきゃ」

「いいよいいよ、勝手にどこへで行っちゃえ! ケイタイで五分起きにメールしてやるからな! 一秒でも遅れたら、交番に迷子の届け出してやる! ……あ、ちゃんとお財布持った?」

「持ったよ」

 ポケットから健太は長財布を出して見せる。由紀のお古らしく、女性に人気のブランドで、ファンシーなデザインだった。

「それで病院はなんて?」

「姉さん、退院できるかもしれないから、そのことで話しがあるって」

 奇跡としか思えない速度で彼女は傷を再生させていた。医者も皆目検討もつかないほどだった。

 事故後、由紀も一度、彼女に直接会ったことがあった。顔は包帯だらけだったが、手足は早くも肌色を覗かせていたのを思い出す。

「早く、退院できるといいね」

「うん。本当にね」

 健太は少し日差しを眩しそうに目を細めて頷いた。


 健太を見送った後、由紀は友人から借りた植物図鑑を眺めた。詳細な歴史とイラスト、その特色について書かれた分厚い本だった。

 由紀の目がライ麦の項目で止まる。今でこそ、食用として使われるライ麦だったが、昔は小麦の畑に生える雑草の扱いで、食べられるものではなかったという説明に目を惹かれた。

「へえ、どういう風に進化したんだろ?」

 先を読み進めていくと、人間によって雑草として抜かれる時、小麦に似た形のライ麦だけが引き抜かれることを逃れ、繁殖し、逃れ、ということを繰り返していったのち、小麦と似たような進化を遂げ、味まで小麦に近づき、結果、食用に足るまでになったという締めで終わっていた。

「つまり昔の人は小麦を育ててるつもりで、ライ麦を育ててたってことでしょ? 今年の小麦は変わった味がするなあっていいながら。凄いなあ」

 なんだか托卵(たくらん)みたいと呟いて、由紀は畳の上に寝そべる。天井の木目が顔のようにに見えた。

 畳の上に寝転がったままの姿勢で手を伸ばし、ケイタイを取ってメールを送る。すぐに返事が返ってきた。今、病室についたという素っ気ない文字。なんで男の文章はこうも味気ないのだろうと由紀は少し、不満に思う。

「托卵かあ……」

 一瞬、何かゾッとするものが脳裏をかすめた。由紀はハッとして体を起こした。久しぶりの直感だった。

「なんだこれ。え、托卵?」

 托卵。他の鳥が自分とは違う種類の鳥の巣に卵を産み落とし、そのまま子育てをさせること。

 自分の子供と思い込んだまま、その巣の親鳥は別の鳥のヒナを育てるのだ。

「なんで、私は、私達は、アレを彼のお姉さんだと思っていたんだろう」

 口に出して汗が噴き出るのを抑えられなかった。恐ろしい想像が額の奥からにじみ出てくる。

 理子が死んだのではなく、姉の方が死んでいたとしたら。誰もが勝手に姉のはずだと思い込んでいたら。もしも彼女が無傷で、健太の姉の皮を文字通り被っていたとしたら。あるいは自分の顔や、体を焼いてまで、偽装していたら。

 そうでなかったとして、どう確認するというのか。そうであったとして、どう確認するのか。

「い、い、遺伝子検査だ! そ、そうだ。それで分かる! あ、で、電話しなきゃ!」

 由紀は財布を片手に家を飛び出した。きしむ義足に鞭を打ちながら走る。走りながら健太に電話をかける。神様と祈りながら、電話をかける。白い息を吐きながら彼女は走った。

 長いコール音のあとに健太が出た。間の抜けたもしもしという声が由紀の心を少しだけ安堵させる。

「あ、あ、あ、良かった! 良かった! で、出てくれて! もう会えないかと思って、私」

「どうしたんだよ、何かあったの?」

 由紀はツバを飲んで、少しだけ目を瞑った。冷静さが必要だと思ったのだ。

「け、健くん。お姉さんはどうしてる?」

「ああ、姉さん? 相変わらずだよ。でも髪の毛も結構伸びてきて、肌もすごく綺麗でさ、顔は相変わらず包帯巻いてるんだけどね」

 タクシーを止めようと手を挙げるが止まらない。しかたなく由紀はバス停まで走る。

「そ、そんなことはどうでもいいから! 部屋を出て、人の多い場所に行って! お姉さんから離れて!」

「何で人の多い場所に行かなきゃいけないんだ。離れてって……んっ」

 不意にぼそりと声が電話の向こうで聞こえた。やけに明瞭な声だった。

「健太くん」

「え?」

 電話がぶつりと途切れ、由紀は叫んだ。彼の名前を呼んで叫んだ。何度もメールを送るが、何度も電話をするが、なぜか返答は返って来なかった。

 由紀は天に祈る。神様に祈る。どうか偶然でありますようにと。思い過ごしでありますようにと。たまたま通話が途切れただけでありますようにと。たまたま彼の姉が健太の名前を呼んだだけでありますようにと。自分の罪深さを知りながら、天に祈って、神に祈って、声を上げた。

終わりです。ここまで読んでくださってありがとうございます。

書くよ書くよ詐欺も何回か重ねた覚えがあります。すみません。

また次回作などありましたら、是非ともよろしくお願いいたします。

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