35……冬虫夏草2
アクセルを踏んで、駐車場を出る。緩やかにハンドルを切って、道路に出た。行き先は特に決めてはいなかった。
「免許、剥奪ですかね」
ひとり孤独につぶやく。横には健太の姉がシートベルトをしてじっと座っていた。病室からさらって来た健太の姉は不気味なくらい大人しく、早くも眠たげにうつらうつらと首をもたげ始めている。
今日中に医療法に詳しい弁護士を探して、医師免許の剥奪だけは逃れなくてはならないと理子は思う。健太が自分のことを訴えたりはしないと分かっているが、許可無く医療行為をしたことや、薬の使用はどうしても非難を避けられそうになかった。最悪、免許を剥奪されることは覚悟しなくてはならない。
「あはは。私、ずれてるなあ。今やってることって誘拐だし、健太くんにしたことは傷害どころの話しじゃないのに」
あの健太の美しい顔が声を上げることなく、苦悶に歪んでいく。血に濡れて、震える。それを思い出して、理子は光悦とした。
後ろの車がクラクションを鳴らすのと、隣の健太の姉が理子の手を掴んだのはほぼ、同じだった。
「ああ、青ですか」
アクセルペダルを踏んで、また理子は車を進ませる。
そしてふと気づいた。
「……あれ? 今、動いてましたよね? 私に青信号を教えてくれたんですか?」
遅まきながら理子は驚く。あまりにも自然過ぎて、気がつかなかったが、健太の姉は確かに自分の腕を一瞬掴んだ。
横目で窺う健太の姉はやはり、どこかぼんやりとしている。
「健太くん」
もしかして、と思い、理子は彼の名前をつぶやいてみる。彼の姉は何かに突き動かされるように、理子の腕を掴んだ。
理子は笑う。堪え切れないといった様子で笑う。
「なあんだ、タネが分かればなんてことないですね。ああ、おかしい」
菅原由紀は健太を喜ばせたくて、姉にそういった条件反射を施したのだろうと推察する。“健太”というワード、あるいは健太自身がキーとなって、動き、その手を掴む。本質的には何も変わっていないのに、本質的にはただの抜け殻のままなのに、まるで変わったかのような仕草に、健太は心を強く打たれ、感動するという筋書き。
「あの子も強かですね。私ももしもの時の人質として置いておくんじゃなくて、そういう風に活用するんだったなあ」
不意に携帯電話のバイブが揺れた。電話番号は知らない相手からだったが、理子は誰だか分かったような気がした。ハンズフリーのイヤフォンマイクに切り替えて、通話に応じた。
「もしもし、菅原さんですよね? 怪我、大丈夫ですか? 大丈夫ですよね、病院の中ですから」
「お姉さん、返して」
由紀の冷やかな声に理子は笑いたくなるのを越えるのに必死だった。
「え? イヤですよ。彼との交換ならいいですけど、そうじゃないなら、このまま遠い世界へ行っちゃうかもしれません」
死を示唆しながらも、直接的にそれを伝えない。由紀が自分との通話を録音していた場合、裁判で不利になると分かっていたからだった。
「……健くんはさ、あなたのことを可哀想な子だっていった。人も殺せない弱い人間なんだって。つらい過去があったんだって。でもね、やっぱり私はそうは思わない。あなたがいくら地獄のような過去を背負っていたとしても、私はこれっぽっちも同情しない。あなたは怪物だよ。紛れも無く怪物。校正不可能な怪物。あのビルの屋上で、自分の醜さに気づいて、大人しくなるなり、自殺するなりすれば、私だって、こんな気持ちにならずに済んだのに」
「あ、そうですか。それで、どうするんですか? お姉さんがいなくなったことは健太くんに秘密にしておくつもりですか? 彼、意外と察しがいいから、そんなに長くは隠せないと思いますよ」
「もう一回だけチャンスをあげる。何もかもを忘れて、お姉さんを返して、私達の前から消えてくれるなら、私はもうあなたを咎めない。許してあげてもいい」
「それを断ったら?」
「さあ」
断って欲しいのだろうなと理子は思う。嫌いな相手を悪者にできれば、単純で分かりやすい。
「私にだって幸福があってもしいじゃないですか。私だって人を好きになってもいいはずですよね? なんで邪魔をするんですか?」
「あなたの幸福が彼の幸福を犠牲にして成り立っているからだよ。そんなものあっていいはずがないでしょ」
「幸福は常に何かを犠牲にしているって思いません? 知ってます? チョコレートを作るためにカカオの原産地では子供が奴隷のように酷使されているという現状があるそうですよ。お菓子の甘さは不幸の甘さなんですね」
憤るようなため息が電話越しに伝わる。理子はハンドルを切り、交差点を左折する。
「あなたは結局、変わらなかった。変われなかった。悪魔的な自分を抑えられなかった」
「抑えていたのを壊したのはあなたですよね? 私はずっと、彼を見ていられるだけでも満足だった。彼の生活を覗き見ているだけで幸福だったんです。あなたが私と彼を不幸にした。私だって彼を傷つけたくなかったんですよ。それなのに、あなたが私の枷を壊すから」
「だから、彼を壊していいと思ってるの、あなたは! だから彼の顔をあんな目にして、彼の体をあんな風にして、それで! それでっ!」
激高した声が音を割りながら、理子の耳に届く。彼女は顔をしかめる。
「落ち着きましょうよ。しょうがないじゃないですか、起きてしまったことはもう」
「あなたがそれをいうのが、私は腹立たしいんだよ。彼がそのことを怒っていないのも、全部含めて!」
「そうですか。で、どうするんですか? 私は変わりませんし、譲りませんし、あなたも私を許せない。彼を渡せない。どうするんです? 私を殺すんですか? あなたが自分の父と母を殺してしまった時のように」
「やっぱり死ね」
それだけ言い切ると、一方的に由紀は通話を切った。理子はイヤフォンを外して、仕切りなおしだなとため息をつく。
ふいに、車のカーステレオが点滅した。勝手に動き出す。理子は止めようとボタンに手を伸ばしたが、操作を受け付けなかった。不意に音がした。
だんだんと音量を上げながら、音は意味をなしていく。
――天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまへ。御国を来たらせたまへ。御心の天に成る如く地にもなさせたま。我らの日用の糧を今日も与えたまへ。我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまへ。我らを試みに遭わせず悪より救い出したまへ。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり。アーメン
「何なんですか、これ」
理子がボリュームをいじりながら、運転していると、ぶつりと音が切り替わるような反応があった。そしてぼそりと言葉がスピーカーから出た。戸賀健太。ただ、その一言が続く。呪文のように続く。
「けんた」
「えっ」
ハンドルにもう一つの手が掛かった。健太の姉だった。瞳に意思など宿っていない。彼女は力強くハンドルを回した。車線を越えて車が、はみ出る。
理子は反射的に急ブレーキを踏み込んだ。車が半回転しながら、横に滑っていく。
接近する車のクラクションが空気を膨らませる短い時間の間、理子は思った。
「これって彼を喜ばすためじゃなくて――」
金属がゆっくりとひしゃげる。車が宙を舞う。衝撃が体を襲う。車内は大きなミキサーのようになって中の人間を襲った。




