35……冬虫夏草。
見つめ続けても返答はない。答えを待ち続けても返答はない。どこかぼんやりした視線のまま彼女は遠くを見つめていた。
たっぷり一分ほど秒針が刻むのを待ってから、由紀はため息混じりに聞いた。
「ねえ、聞いている?」
理子は雷に打たれたように、一瞬、動揺して机に向き直す。ペンを持ってカルテを書きだした。
「私は……私はだからいったんですよ。あの人にはちょっとでもアクションを取ったらいけないんだって。それなのに健太くんは馬鹿だから、大丈夫大丈夫って。何も分かってないんですよ、女の執念ってものを。私はね、最悪という意味においては彼女を強く信頼しているんですよ、ええ」
白い紙の上に手書きのチャートが広がっていくのを見て、由紀は身構えた。丸く括った菅原由紀の文字に線で繋がっているのは殺すという文字。その先は健太くんとの約束という文字と、逃亡生活という文字に枝分かれしていた。
小気味よくペンを進めている途中で、ふいに理子は動きを止める。次の瞬間、彼女は大きなバッテンを紙に書いて、呆れ返るように体を背もたれに預けた。
ヒヒヒと不気味に笑って、理子は白熱灯の光から逃れるように目元を手で覆う。
「あああ、ダメだ。全然ダメですね。いい未来が想像できません。あなたから逃げられるという可能性が見つかりません。あなたを殺しても意味はない。何をしようとも彼は私の手から溢れてしまう。手詰まりですね。ゲームオーバーですね。やっと大切なものができたというのに、あなたは私から奪ってしまう」
「まるで被害者みたいな口ぶりだね。ホント、自分本位で反吐が出る」
理子は白熱灯を仰ぎ見た形から動かず、由紀の言葉にも耳をかさず、独白じみた言葉を続ける。
「あのゴミが死んで、やっと私も人並みになれたって思ったのに。健太くんが殺してくれたっていうのに、それなのに、この仕打ですよ。やっぱり神様なんていないんだなあ。辛いなあ、辛い、辛い、辛い」
言葉とは対照的に頬が釣り上がって行く。きつく角度をつけて、白い歯が唇からその姿を覗かせる。粘ついた唾液が口端から溢れて喉を怪しく光らせた。
由紀はいつでも動けるように生身の足に力を込める。理子がこちらを向いた瞬間、ステンレスの蹴りを食らわせてやろうとスカートの袖を強く握った。
「うーん、そうですね。よし、殺そう」
その掛け声とともに由紀は軸足を立てる。義足を持ち上げたところで、彼女の言葉が終わっていないことに気づいた。時間が止まったように、ゆっくりと進む時間の中で彼女は確かに聞いた。
「菅原さんに取られるくらいなら、うん、殺そう。殺してしまおう、壊してしまおう。ガラガラポンですね」
悩んだ末に素晴らしい回答を見つけ出した。そんな顔つきの理子を由紀は心底、気持ち悪いと思った。
悪意はおそらくないのだ。家の中に侵入してきた虫を殺すような気持ちでしかない。あまりにも、純粋。あまりにも、未熟。それが死ぬほど、気持ちが悪かった。
今、ここで止め無くてはならないと由紀は思う。蟻を踏む子供のように、彼女の行為には際限がない。罪悪や憐れむという気持ちが決定的に欠けているのだ。他人と物言わぬ人形との区別が彼女の中には存在しない。それが由紀は手に取るように分かった。
顎のあたりを由紀の義足がはねようとしたところで、理子の体が床を滑るにして後退し、避ける。
どうしてとは思わなかった。椅子のキャスターを利用したことは明白だった。
虚しく何もない空間を由紀の足が掻いていく。理子はその足を掴み、膨らんだスカートの中を覗いて笑った。
「あら、勝負下着ですか? 健太くんに会うから?」
理子の引っ張る力に由紀は横転し、床に体を打ち付けた。起き上がろうとする、彼女の顔を黒いものがはねた。先ほどまで座っていた椅子であるということを彼女が認識する前に、もう一度、椅子が顔に激突する。
「がっ」
理子は椅子を由紀の背中に叩きつけると、両手を広げて大声で唄い出す。聖母マリアを讃えた聖歌、アヴェ・マリア。
血反吐を吐きながら、由紀は看護婦の姿が全く見えないことに疑問を抱く。騒ぎを聞きつけて、来てもいい頃だろうと思う。しかし、その気配が全くない。もしや最初からそのつもりだったのでは、と思ったが、理子の理不尽な暴力の連続が考える時間を与えてくれなかった。白と青の紋様が由紀の視界で広がる。歯と歯が強く擦れ、不愉快な音を出した。
「あー、疲れた。雑魚相手に無駄に運動しちゃった」
ひと通り歌い終わると、理子は急に冷めたような表情になって、由紀を見下ろした。汗を拭い、白衣を捨てる。
「お前、ホント、つまらないなあ。弱いし、馬鹿だし、つまらない。楽しければまだいいけど、つまらないんじゃ、最悪だよ。最悪最悪最悪! ホント、口ばっかり。口だけじゃないならさ、ほら立ち上がらないと。早く来ないと終わっちゃうよ? 終わっちゃうね? あははっ」
「……キチガイめ」
「じゃ、先に行くね。ばいばい」
強い蹴りが由紀の頬を思い切り襲った。途切れかけた視界の中で、由紀は彼女を止めようと手を伸ばす。彼女の足を掴もうと手を伸ばす。
しかし、その手は何も掴むことなく、虚空を握りしめたまま、固く止まった。
遠のいていた意識が覚醒したのを感じて由紀は目を開けた。床を濡らす血に触れ、その凝固具合から意識を失ってからまだ一分も経っていないだろうことを把握する。理子の白衣で血を拭き取り、彼女は健太のいる病室に向かった。
健太がどこでもない病院に監禁されているのだと気づいたのは、健太から電話があって暫くしてからのことだった。知人に頼んで入手した入院記録を何気なく眺めていた時、ふと見たことのある名前があった。調べてみたところ旧姓ではあったが、理子の兄の名前だった。
パラパラとピースが由紀の中で繋がり、答えになった。その時、由紀は猛烈に自分を恥じた。名簿はかなり前に入手していたもので、気づこうと思えばできたはずなのだ。それほど難しい謎ではなかった。
「それなのに、嫌になっちゃうね」
すれ違う医者らしきものが由紀の傷だらけの姿を見て、ぎょっとする。心配そうに話しかけて来たが、由紀は無視した。あと少しだった。あと十数メートル。あと数メートル。少しでも時間が惜しかった。少しでも距離を縮めたかった。
鍵のかかったノブを由紀は近くの消火器でへし折り、壊す。折れ曲がったノブを引いて、彼女は病室に入った。
「由紀だろ。由紀の匂いがするもんな」
白い部屋だったが床は酷くくすんでいた。右斜めの壁際にベット。そこから伸びる声は、以前の明瞭なそれではなく、酷く酷くしわがれていた。
ああ、と由紀の喉から声が漏れる。寝たままの健太が腕を上げたのだ。鎖で繋がれた腕は老人のように細く、いくつかの指がなく、ミミズが這ったような切り傷で覆われていた。
彼の下に引かれたシーツは度重なる出血のせいか、茶色いシミに染まりきっている。
「ごめん、起き上がれないんだ」
「酷い、こんなのあんまりだよ」
嫌な汗が由紀の額を滑っていく。滝のように滑っていく。彼女は雨に打たれたように、全身を濡らして、震えた。近づきながら震える。その先に不幸があるのだと知っていても、止まれない。
ゆっくりと距離を詰める度に、健太の“具合”が見えてしまう。肉を剥いだような、交通事故にでもあったかのような具合が見えてしまう。
「やっぱり由紀だ。いつか来るような気はしてたけど、早かったね」
彼は笑った。片方の目は焦点がズレていたが、彼はもうひとつの目で真っ直ぐ由紀を見て笑った。あまりにも酷く歪んでしまった顔で笑うのだ。嬉しそうに笑う。それが由紀には耐えられない。
歯は砕け、鼻は曲がり、顔の骨格は歪んでいる。体は老人のように細く、傷だらけ。ストレスで白く染まった髪は生気といったものを感じさせなかった。
彫刻のように美しかった彼は、彼の顔はもはや元型を留めていない。それが由紀をたまらなく恐ろしく感じさせ、憎悪を募らせた。
「あ、あ、あ、あ、あいつ! あいつあいつあいつあいつあいつあいつあいつあいつ!」
怒りと恐怖を振り払うように彼女は泣きながら拳で壁を殴る。
彼女は思う。人は必ず唯一無二の価値を持っている。先天的であれ、後天的であれ、人間は価値といったものを持ち、価値を育て、それを消費して生きていくのが人生なのだと。
健太はお世辞にも賢くはなかった。運動能力もなければ、芸術的センスがあるわけでもなく、運に恵まれていたわけでもない。酷い話しだったが、明らかに彼が他人よりも優れている価値は顔の良さくらいのものだと思っていた。それを理子は奪ったのだ。価値を奪ったのだ。自分の狂気を抑えるために、貪り食らった。健太を辱め、健太を狂気に浸らせ、健太を壊した。
健太は今までその価値を試す機会すら与えられなかった。その価値を試せば、人並み以上に幸福を知れただろうに、使う機会を誰からも、神からすらも、与えられなかった。略取されるだけの人生だった。
「そんなに壁を殴ったら、由紀の手が壊れる」
「……ごめんね。でも気持ちが、動揺が抑えられない。こんな再会ってないよ。こんな再会。もっと早く気づけば良かった。もっと早く動けば良かった。段取りなんて気にしてる場合じゃなかった」
嗚咽を漏らして由紀は健太の胸に顔を寄せた。健太の傷だらけの手が由紀の頭を撫でた。指の少ない手が頬を優しく、撫でる。まるでそれは傷をなぞるかのように。
「なあ、由紀。由紀は優しいから、納得いかないかもしれないけど、理子……先生のことは許してやってほしい」
「そんな、どうして!?」
「彼女は可哀想な子なんだ。俺と同じで恵まれなかった。それだけのことなんだよ。恵まれなかった俺が、恵まれなかった先生をどうにかするっていうのは、なんか気持ち良くないんだ。だからさ、許してあげて欲しい」
「ば、ば、ば、馬鹿じゃないの!? 許せるわけがない、わけないよ! 健くんはおかしいって。頭おかしいよ。気が狂ってる。なんで、めちゃくちゃにされて、自由を奪われて、顔を切り刻まれて、暴力を振るわれて、監禁されて、それで許してあげてなんていえるの? ストックホルム症候群?」
「由紀は難しい言葉、たくさん知ってるな」
そう笑う。屈託なく笑う。何も憎まず、何も変わらず、当然のごとく笑ってみせる。むずがる猫のように。
由紀は寒気を覚えた。健太は優しいわけでも、寛容さを持っているわけではない。憎悪が既に失われているのだ。過去に振りきれるほどの憎悪を抱き、父を死に至らしめた時に、失っていた。
怒りはするが、憎みはしない。拒否し、拒絶するが、恨みはしない。憎悪も憎しみも嫌悪も過去に置いてき、捨て去った。あの時ほど、辛いと思えない。だから憎悪しない。
何を言っても無駄なような気がして、由紀は複雑そうに頭を垂れた。
「最悪だ、最悪だよ。こんなことが起こったっていうのに、健くんは、健くんなんだもんね」
「よく分からないけど、俺は今ね、嬉しいよ」
「何が?」
「俺は多分、もうまともに歩けない。俺はもうまともに物を掴めない。でもさ、これって、由紀に近づけたような気がしてさ」
「……健くん、頭がやっぱりおかしいな。おかしい。普通ならへこむ。私はすごくへこんだよ。それなのに、健くんは普通なのが信じらんない」
「そうかな」
「そうだよ」
「あれ? 先生はどうしたの? 逮捕とかされちゃったのかな」
「彼女、なんか殺すとかいって、走っていったけど健くんを殺しに向かったわけじゃないんだね。逃げたのかな?」
「彼女に人を殺す度胸なんてないよ。由紀もそれくらいは気づいてるだろ? 彼女は自分の心を追い詰めなきゃ、他人を傷つけることすらできないんだ。普通に怒ったり、普通に笑ったりもできない」
「健くんは時々、馬鹿のふりをしてるんじゃないかって思えてくる時があるよ」
「なんだよ、それ」
「なんだろうね。でもね、でも、残念だけどね、彼女は罰を受ける。絶対に罰を受ける。それが世の理だから」




