04……こんにちは。落ちる音。
ケイタイの着信履歴が“先生”の二文字で埋まった。今も健太の手の中でバイブレーションが低い音を立てながら震えていた。
それでも健太は彼女を無視し続ける。それでも健太は彼女から距離を離し続ける。彼岸の先の小さな点になるように。
父と妹たちと暮らしていた家はもうない。何者かによって放火されたのだ。何度か、遺族を名乗る人間に殺されかけたこともあった。健太は自分ひとりなら、問題にはしなかった。しかし、そこに他人が混ざるとなれば話しは違う。自分に対して親切にしてくれる人を、そんなことに巻き込むわけにはいかなかった。人殺しの家系の、それも主犯の自分がそんな善良な人間のところにいるべきではないと思う。
自分が歩くべき道は修羅の道。自分の行いが自分の苦しみを左右する修羅道。そここそが生きるべき場所であり、ふさわしい場所。
そういうことを健太は彼女に言った。
「戸賀くんはクソみたいなキチガイなのに、すっごく優しいよね」
菅原由紀は三本指の義手で器用にフォークを掴んで料理を崩した。ベジタリアンなのか、肉類が見えなかった。
健太は壁にもたれながら、もそもそと菓子パンを口に運んだ。久しぶりの食事だからなのか、唾液がなかなか出ず、飲み干すのに苦労した。
「ずっと、戸賀くんってどんな人なんだろって思ってた。自分の住んでいた家が“善意ある市民”に燃やされても、殺されかけてもまったく動じない。自分の妹を使って他人を殺す。……正直ね、相当なクソ野郎だと思ってたんだけど、図書館のアレでその考えが変わった」
「あの子どもたち、お前が仕掛けたのか。俺の反応を見ようって」
「違う、違う。アレは老人とか、障害者とかに迷惑かけてる、本気で救いようのない子供。私があの子たちに絡まれてたら君はどうするんだろうって思って、自分から子どもたちの目がつく場所にいたの。他人の本質を計るには見捨てるかどうかを見るのが一番だからね」
由紀は人参のステーキを口いっぱいに頬張って、笑った。
その言葉の意味に気がつかない健太ではなかった。過去、燃え盛る車の中で見捨てられた経験は地を這う根のように深いのだ。
「そんなことで分かるもんかな」
「私が悪態ついた時も戸賀くん、嫌な顔ひとつしなかったよね。私の手と足と顔を見たって、目を背けたりしなかったし、可哀想だって思わなかった。同情も憐憫の情もなかった。それって凄いことだと私は思うのよ。どういう精神でいればそうなれるの?」
「……ようするに俺は、君のお眼鏡に適ったわけだ」
健太は意図的に話題を逸らしたが、由紀は指摘しなかった。
「そうね、思ったよりマトモだったから、助けてあげてもいいかなって。この人が両親の仇を殺してくれたのなら、納得できるなって。事実、あなたは私の家を見て、お金持ちだって分かっても、金品を強奪しようだなんて考えなかったでしょ? 私の目には狂いがなかったって奴よね」
「そんなことない。君にさっき二千円もらった」
褒められることに慣れていないのか、健太はぶっきらぼうに否定した。
ワインを口に含んで、由紀は笑う。
「そうね。でも、もっと金額を釣り上げても良かったんじゃないの? なんでそうしなかったの? 二千円なら何とかすれば返せるかもしれないからじゃない? 私はね、そこから戸賀くんは悪い人ぶってる善人なんだと思った。私の家でゲロ吐いたけど、綺麗にしてから出てったしね?」
「…………」
「戸賀くんの考えてること、分かるよ。戸賀くん、一晩ここに泊まったら、お礼をいって出て行くつもりでしょ? 二度と来ないつもりでしょ? お金を返しにくるから二度と、ではないのかな。ま、さっきのお医者さんに対する話しはさ、私にも当てはまると思うの。自分を善人って言ってるみたいで、ちょっとアレだけどね」
事実、健太はそのつもりだった。親切にしてくれる由紀にこれ以上の迷惑をかけようとは思っていなかった。地位のある人間なら、なおさら自分のような薄汚れた人間が近寄るべきではないと思った。
小さく驚いた健太の顔がおかしかったのか、自分の言葉が図星だったことが嬉しかったのか、由紀は歯を見せて笑った。
「戸賀くん、徹底してるね。美形で性格いいとか、すっごく腹立つよ。あはは、冗談。見捨てないし、見捨てれないし、迷惑をかけないし、かけたくないしって凄く立派だと思うよ。宮沢賢治のアメニモマケズ、みたいで。でもね、だからこそ、不思議に思うわ。そんな戸賀くんがどういう理由で、人を殺したのか。どういう理由で妹にやらせたのか。戸賀くんのその性格なら、自分でやるはずだと思うのよね、私」
じゅくじゅくと熟しきった果物を握るように、頭の内側が傷んだ。
健太は冷静を装って、気持ちを落ち着ける。人殺しと思われるのも、クズだと罵られるのも、気にはしなかった。妹をそそのかして人を殺した。そこまでは知られても良かった。それ以上は。
由紀は健太の眉間に寄ったシワを見て、警戒の色に気づいた。しかし、口にはしない。
「虐待ってあるじゃない? 親がしつけと称して、子供を殺しちゃう奴。虐待を受けている子供ってさ、親をどう認識していると思う?」
「さあね。恨んでるんじゃないかな。虐待されてるんだからさ」
「これがね、不思議なことに恨んでいないのよ。むしろ、神聖視してるといっていいわ。苛烈な親であるほど、神聖視して、その答えに務めようとする。自分が悪いんだと思って、内罰的になる。酷く品行方正になるそうよ? 成績優秀で、他人にも優しい子になる。でもそれは、思春期までの話し。思春期になると子供は親を乗り越えようとする。肉体が成熟して、他人を屈服させうる力を得た瞬間から……自分のしたいことをできるようになった時から、両親への憎悪が始まる。抑圧されてた気持ちが爆発して、それが推進剤になる」
「何が言いたい」
健太はじっと睨んだ。ざっくばらんな髪の向こうの純粋すぎる目を睨む。親殺しをしたと言いたいのだろうと睨む。
由紀は健太の鋭い眼光を涼しそうに受け止めた。
「別に。ただね、ただ思うのよ、戸賀くん。妹さんに殺させた父親ね、あまりにも残酷極まりない殺し方をしてるなって。ニュースとか新聞だとさっくりとしてるけどさ、実際調べてみると、全身をバラバラにしたっていうじゃない? 昔からね、全身を細かく解体するという殺し方っていうのは復活を恐れる気持ちと罪悪感の深さからくるのよ。こうまで細かくしてしまえば復活できまい、という心理。人の形を保っている骸よりも、細かくしてしまった方が罪悪感が少ない、という心理。どちらも共通するのは非人間化よね」
「ふうん、そうなんだ。妹がやったことだから、僕には分からないよ」
由紀はクスクスと笑った。アルコールを含んだせいか、オレンジ色の照明のせいか顔色は赤い。満足したように笑い切ると彼女は健太の足を指差した。
「足、震えてる。それにね、一人称、変わってるよ。“俺”から“僕”に。それにね、それにね、何でそこまで頑なに妹がやったっていうの? ねえ、健太くん。どこまでが妹さんの行為なの? 私ね、思うのよ。殺す段階までは請け負ってくれる人間っていると思う。でもね、それ以上の行為を他人にやらせるのって相当に難しいんじゃないかって。正直にいうとさ、健太くんでしょ? お父さんをバラバラにしたのって」
健太は無言で深呼吸を続けた。大丈夫だ、こんなこと問題じゃないと冷静になれと言い聞かせる。しかし、相反するように胸の鼓動は強くなっていく。
「魔法使いのね、ああ、魔女か。魔女のね、友達に頼んで少し調べてもらったのよ。このファイルには損壊の度合いが書いてあるんだけどね、全身の損壊度は低いのに、一部だけが酷い。どこか分かる? 腕よ、腕。心理学的にね、腕は性器を意味するの。男根よね、つまり。実際の男根には大した損壊がないのは汚らわしい思い出があったから触れなかったとか? でも無意識はそれを憎み、行動に移した。男性器を尽く、貶めたわけ。これが結果的にどういう意味合いを持っているか。私ね、考えたのよ」
健太はもう隠さなかった。胸を抑えて、地面を見つめて、来るべき衝撃に耐えようと、身を縮ませていた。汗をボタボタと零しながら、見つめていた。掠れた声がやめろと音を出す。言葉ではなく、ヤメロという形の音。父の最後に似ているなと、彼は苦しみの中で笑った。
そんな健太を見ても、彼女の調子は変わらない。殺害現場の写真も、検死の写真も手の中のファイルにはあったが、彼女は至って平穏だった。
「戸賀くん、お父さんにレイプされてたんじゃないの?」