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33……差別的博愛主義者。

 地響きのように泣き叫ぶ声に、何事かと看護師達が暗闇の中を走る。理子と健太は鉢合わせしないように、隠れながら元いた部屋へと向かった。

 精神科医の病棟は無駄に遠く、理子は既に苛立ちを隠せなくなっていた。健太とは違う意味合いで来るのではなかったと爪を噛む。

 そんな中、健太は空気を読まずに言った。

「喉が渇いた」

「後にしてください。病室からは大分離れましたけど、人に会うかもしれませんから。部屋に戻ったら、あげますから」

「冷たい炭酸ジュースが飲みたいんだ。もうしばらく飲んでないから」

「あ、あ、あ、後にしてっていってるよね? いってるでしょ? いってるよねえ!」

 声を荒らげている自分に気づき、理子は子供のように口を両手で塞いだ。

 それでも尚、健太は喉が渇いたと続ける。声のボリュームを上げて、健太は理子が苛立つように袖を引っ張り始めた。

「喉が渇いた」

「う、る、さ、いいいいいっ」

 理子はポケットから果物ナイフを取り出して、健太の鼻先に突きつけた。

 しかし、健太は全く淀まない。まったく意に介さない。慣れてしまっているのだ。痛みにも、その行為にも、その狂気すらも。

 真っ直ぐな目で理子に彼はもう一度、喉が渇いたとつぶやいた。

 刺したところできっと同じことを続けるだろう現実に理子は諦める。その場で騒ぐわけにもいかないのだ。彼女はそのまま激情と焦りの入り混じった表情で自販機を探した。一刻も早く、健太を部屋に戻したかった。

 大分、遠くに来たにも関わらず、この理子の焦りようは、自分がやはり姉や由紀の元に戻りたいと言い出すのではないかという懸念があるからに違いないと健太は考える。この場で健太が叫びでもしたら理子は終わりなのだ。目立ってしまっても終わり。

「お、お願いですから、静かにしてくださいね」

 健太の座る車椅子を誰も使っていない部屋に入れると、理子は早足で自販機を探しに出かけた。

 彼は彼女の足音が遠ざかり、聞こえなくなるのを確認すると、すぐに行動に移った。車椅子のまま、公衆電話のある場所へと向かう。既に理子がポケットに入れていた小銭入れは手の中にあった。

 長い間、動いていなかったためか、傷のせいか、思うように体が動かない。動かす度に全身の内側がジクジクと傷んだ。しかし、健太は笑みを浮かべる。イタズラに成功したような子供のように。

 何度も何度も忘れないように声に出して覚えた数字を入力して、彼は緑色の受話器に耳をつける。短いコールの後、気怠そう少女の声がした。

「もしもしぃ?」

「やあ」

 受話器の向こう側から息を呑むような手応えを感じて、健太は嬉しくなった。想像はしていたが、思い通りになると予想以上に頬が緩んでしまう。

「声、変だろ? それでも、たった一声聞いただけで分かるんだから、由紀はすごいな」

「……どこにいるの? 今からいくから、場所教えて。分からないのなら、周りの風景とかでもいいから。町中? それと田舎? 山とか、海とか、看板とか見えない? ああ、リトルシスター、探知を」

「別にそれはいいよ。ただ声を聞きたくてさ。元気かどうか知りたくて」

 話したいことはたくさんあるはずなのに、思うように言葉が出なかった。言いたいことはあるはずなのに、思い出せなかった。

「何いってるの健くんっ! もうあれから半年近くも君は行方不明だったんだよ。半年……、それなのに」

「もう、そんなになるんだ。どうりで、ちょっと涼しいわけだね。もう少ししたらユキでも降るのかな」

 受話器の向こう側で鼻を啜るような音がした。気丈で負けず嫌いな彼女が泣くはずがないと思う。自分ならまだしも、彼女が人前で泣いてみせるはずがない。

「なんで! ……なんで、自分は見れないみたいな言い方するの? 一緒に見ようよ、お姉さんとも見ようよ。あの女が健くんを(さら)ったんでしょ? 助けてっていってくれれば、今すぐにだって私はっ!」

「ははっ、飛んできてくれるの?」

「飛んでいくよ。どこにいたって、どこだろうと。すぐにでも、絶対っ」

「ごめん、もう時間だ。十円玉がもうないんだ」

 健太は後ろを少し見て、そう笑う。鬼のような形相でナイフを持った理子を見て笑う。

「おね、おねがい、だから、あと十秒だけ。あと十秒だけちょうだい。そうすれば逆探知できるから、だからね。だから」

「由紀、先生は何も悪くないからね」

 受話器の向こうで叫ぶような声がしたが、健太は通話を終わらせた。そして振り向き、理子の言葉を待った。

「裏切ったな。裏切ったな、騙したな、謀ったな!」

「由紀には何かが分かるようなことは一言もいってないよ。練習したからね、ずっと頭のなかで」

「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……っ。うそ、つきい」

 理子は崩れるように健太の膝にすがりつく。もはや健太がなくては生きていけないのだと頭を垂れる。オシマイだと呟きながら、絶望に苦悶する。

「大丈夫だよ、大丈夫だから。俺はね、嬉しい。理子が俺との約束を守ってくれたってことがさ。姉さんも生きてて、由紀も生きてる。それが確認したくて、こんなことをしたんだ。疑うような真似して悪かったよ、ごめん」

 髪を撫でる。黒い髪は汗を吸って、重たげに指にまとわりつく。一瞬でも健太がいなくなったことを、心から恐怖した結果だった。握りしめた砂が指から抜け落ちていく思いだったに違いない、そう彼は思う。

 彼は何度も優しくごめんと呟きながら、そっと耳打ちした。

「理子が守ってくれたのなら、俺も守らないとね。ずっと理子の側にいるよ。本当に誓う。心から誓う。それと、今回の罰として理子の一番してほしいことをしてあげる」

「……してほしいこと?」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で理子は暗闇の中、健太の顔を見た。光が足りないせいか、顔は窺い知れない。

「理子のお母さんを俺が殺そう」

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