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32……お膳立て。

 理子が殴る度に、健太はいつもその言葉を口にした。

「可哀想に」

 理子が健太のまで自慰する度に、健太はその言葉を口にした。

「俺を抱けばいいのに」

 理子に刺される度に、健太はその言葉を口にした。

「本当は誰を刺したいの?」

 一度決めた健太の意思は固かった。覚悟は何よりも固かった。健太は一切、抵抗をしなかった。悲鳴を上げることもなく、ただ狂気を受け入れ続けた。真っ直ぐ彼女の目を見続けて、耐えた。

 それが理子に変化をもたらし始めたのは最近のことだった。理子は健太に暴力を振ったあと、はっとなって酷く怯え始めたのだ。自分の行為に、自分のルールに恐ろしい欠陥があることを認めてしまったような、そんな怯え方だった。

 その度に、理子は世界に訴えかけるように狂乱して、頭を壁に打ち付ける。自分の考えを否定するために強く頭を打つ。額を割って、啜り泣いて、理子は地面に顔をつけて、固まった。あとは子供のように泣き喚くだけ。

「お、い、で」

 酷くしわがれた声。喉を潰されたのか、普段の健太の透き通るような声はない。

 赤黒いシミだらけになったシーツの上で彼は、両手を広げる。鎖で繋がれているせいで可動域は少なかったが、それは確かに手を広げた形だった。

「おいで。おいで、理子」

 穴ぐらの底のか弱い生き物のように、頭を抱えたまま理子は怯えたように顔を上げる。

 健太はやけに澄んだ瞳で、真っ直ぐ理子を見つめた。そしてその言葉を口にする。

「お、れの体は君にあげた。だから好きなだけ、していいんだよ。好きことを好きなだけするといい」

「あ、あ、あ、ごめ、ごめんなさい」

 傷だらけの健太の胸元に顔を押し付けて、理子は大粒の涙を流す。

 二人の間には奇妙な信頼関係が出来上がっていた。理子の狂気を受け入れる健太と、健太に狂気を受けれいてもらい、自己の確認を測る理子。

 当初は水槽の魚を愛でるようだった理子も、今では健太のためにせっせと、食事や本を運び、時間があれば彼の元に来るようになった。健太も理子の求めている優しさや愛を与えて、全てを受け入れた。

 思い通りにいかないことがあると理子は狂ったような殺意を抑えられなくなった。健太はそれを察して、自分に向けさせてやる。そうすることで可哀想な彼女の気が晴れるのなら、という気持ちからだった。

 子供のように泣く理子の頭を撫でて彼は笑う。彼女ほど弱い心の持ち主を健太は知らなかった。

「気が済んだ?」

「…………」

 沈黙し、健太の胸に顔をつけたまま、彼女は健太の入院服を強く握った。

 まるで小学生のようだ。事実、彼女の心はその時代で止まっているのかもしれない。そう思うほど彼女は弱かった。

 自分は中高生の間で止まっている。彼女は小学生で止まっている。ある種の運命のようなものを感じなくもなかった。

「今日は、今日こそは姉さんに会わせてほしい」

「……それは」

「せめて姉さんだけには会いたいんだ。たったひとりの肉親だから」

 毎日、毎晩、毎朝、彼は理子にお願いした。理子も会わせてやると言った手前、その言葉を拒否し続けるわけにはいかなかった。

 強張った顔で理子はでも、と口ごもる。

 健太は温和な顔で、首をかしげた。どこに問題があるというのだろう、何かおかしいことを言ってるだろうか。そんな顔つきだった。

 目をそらしている続けるわけにも行かなくなり、理子は黙って病室を出て行った。

「今回もダメだったか」

 時間の感覚が酷く希薄な白い部屋の中で呟く。

 きっと睡眠薬の点滴を片手に理子が罪悪感に苛まれた顔つきで、静かに自分に投与を開始するのだろう。そう思い、扉から空の車椅子が出てきた時、健太は驚いた。

 上目遣いに理子は言った。

「……またここに帰ってきてくれるって約束してくれますか?」

 そんなことが怖かったのか。健太は少し笑った。


 外は暗闇だった。どこかで自販機が唸るような声を上げている。健太は理子の押す車椅子に黙って座っていた。

 久しぶりの広々とした空間と闇に健太は少し緊張する。エレベーターを進み、違う階層を抜けて、姉のいる病室につく。病室が変わったのか、記憶が違うのか、以前とは違う位置にあるように彼には感じられた。

 そっと、引き戸を開けて、カーテンをくぐり、姉がいる個室へと車椅子は向かった。

「暗くて、よく見えないや」

「ごめんなさい」

 理子はそっとブラインドを上げた。外の方が明るいのか、ベット上で寝息を立てている姉の姿が顕になる。

 泣きもせず、笑いもせず、姉を一瞥(いちべつ)すると、健太は手を伸ばして花瓶の花の花弁を指で撫でた。しっとりと湿ったシルクのような手触りが、妙に新鮮だった。

「姉さん、変わらないな。寝てる時は昔も、今も、俺が来なくなっても変わらない。当たり前なんだけど」

 花を持ってきてくれたのも、長いはずの髪を短く切ってくれたのも、由紀なのだろうなと健太は思った。薄暗闇の中では内容が掴めなかったが、備え付けの棚には由紀が書いたらしい経過報告のノートが入っていた。

 理子は借りてきた猫のように小さくなってじっとしていた。健太は大丈夫、と笑う。別に理子の元は離れないよと。

「うん、満足した。ありがとう。じゃあ、帰ろう」

「はい」

 姉の髪と頬に少し触れて、健太は車椅子を引かれる。ふいに突っかかるような感覚が車椅子を襲った。なんだろうと健太はそちらを見た。

「あぐぅ」

 車椅子を掴んだ健太の姉だった。彼女を拘束していたはずベルトはどこにもなかった。

 人が来て起きてしまったのだろうと、健太は思う。悲しいが姉には他人を認識することができないのだ。

 ぼんやりとした瞳のまま健太の姉はあうあうと二人に何かを口走った。そして喉に何かが残ったような顔で、健太を見て、涙を流した。彼女自身、自分の涙がなんなのか気づいていないようだった。なぜ、泣いているのか分からない。そんな表情で、ボロボロと涙を零す。それでも片手は健太の車椅子を掴んだままだった。

 次第に流れる涙は声となり、空気を震わす。子供が夜泣きをするような音に変わる。

「健太くん、ダメです。もういかないと」

「うん」

「早く」

「そうだね、さよなら」

 健太は震えた手で、姉の手を剥がす。指をその手から落とそうとしたその時、健太の耳に涙に混じった声が届く。

「けん、たあ」

 それは一度だけだった。一度だけの奇跡だった。

 健太は呆然(ぼうぜん)となった。理子が何かを言っているが遠く聞こえない。

 彼は思う。ああ、来なければ良かったと。きっと由紀の仕業だろうなと思う。彼女がきっと姉の心を取り戻そうと試行錯誤したのだろうと思う。

 健太は姉の手を離して、笑った。

「俺がいなくても世界は回ってるんだなあ」

 車椅子が離れると、悲痛な声は後ろで大きく膨らんだ。

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