31……道化のダンス。
窓のない病室だった。空調とマジックミラーのついた小さな扉が隅にあるだけ。
高く伸びた天井の白熱灯が煌々と白い明かりを灯しているせいか、時間の感覚が掴めない。
「痛っ……あれ?」
ズキリと痛む腹部に手を伸ばそうとして、五体が硬い筒のようなものに包まれ、鎖でベットに固定されていることに健太は気づく。左腕には点滴が伸びているが、なんの薬品なのかは分からなかった。
「あら、時間通りですね」
室内とは違う空気が入り込む。白衣姿の茨木理子が入ってきたところだった。鈍色の光が一瞬、顔を覗かせ、健太の鼻に懐かしい夏の匂いを近づけた。
「あの、先生。っていうか、俺」
「そう、君は私に刺されたんですよ。腹部をざっくり。ああ、臓器までは達してなかったので、大丈夫ですよ。これは切れ味の悪い包丁のおかげか、私の非力さのおかげか分かりませんね」
「ここはどこなんですか?」
「ここは閉鎖病棟の一番ややこしい患者さんが入ってた病室です。防音で、空調も完備してるんですよ」
理子がノックをするように壁を叩いた。壁に何かが挟まったようにこもり、音が響かない。
あれから、自分は一命を取り留めたということか。そう健太は納得しかけて止まった。
「入っていた?」
「邪魔だから退院してもらったんですよ。家族にも見放されてましたし、本人も俺は病気じゃないって叫んでたんで、結果には満足したでしょう。ホント、最後までギャアギャアうるさくてうるさくて」
天井を見つめながら、薄く笑った彼女に健太はよくないものを感じたが、口には出せなかった。
「なんで、俺は普通の病室じゃなくて、そんな牢獄みたいなところに?」
「私が刺したなんてのは決まりが悪いじゃないですか。傷害事件になってしまいます。大変だったんですよ、手術するの。でも、見よう見まねでなんとかなるものですね。こうして、感染症もなく健太くんは生きてる。素晴らしい。ああ、あの時の健太くんの中、暖かかったなあ」
あとで抗生物質を飲みましょうね、と理子は笑った。
「あの、いつ出られるんですか。そもそも、なんで拘束されてるんですか?」
「うんうん、その疑問はもっともですよね。私、あの後、私が私のルールを乱してしまったって思ったんです。健太くんの煽りに負けて、健太くんを刺してしまった。だから、私も譲歩すべきかなって思って、それで、だから、戸賀健太くんはここで一生暮らすんですよ」
あまりにも現実離れした回答に、健太は言葉を失った。じっとりと額の上を走る嫌な汗がそれを現実だと物語る。確かに悪夢というにはあまりにも悪夢然とし過ぎていた。
慎重に考えて、健太は口を動かす。
「あの、姉さんはどうなりますか? 由紀も」
「無事ですよ。お姉さんの方は健太くんが大人しくしててくれたら、たまに合わせてあげてもいいですけど、菅原さんの方は一生、会えません」
理子は何が面白いのか、堪えるように喉を鳴らして笑った。
「ずっと、俺はここで天井を見つめて生きてくんですか?」
「そんなことしてたら気が持ちません。狂ってしまう、狂ってしまう。あなたはその点滴と同じ気持ちよく眠れるお薬でずっと、ずうううっと、夢の世界に行くだけです。私のお人形になるんですよ。素敵なお人形に。大丈夫、お昼と夜にはこうやって会いに来てあげます。丁度、その時が点滴を変える時間ですからね」
「せ、先生は、それで満足なんですか?」
先生という言葉に彼女の眉が一瞬持ち上がったが、健太は続ける。
「先生は結局、何がしたかったんです? 俺に生きることの喜びを伝えたかった? 俺に命のありがたさを伝えたかった? 俺がそういう経験しかしてこなかったからかもしれないけど、先生は何かに復讐したかったんじゃないんですか?」
「生きる歓びを知ることができれば、それで私はいいんですよ」
「俺を縛り続けることに生きる喜びを感じられるんですか?」
理子は妙にきょとんとした顔で健太を見つめた。
「そ、それは約束が、アレだからで」
「でも矛盾してる」
「う、う、う、違う。違う、よね? あれ? だって、約束守れなかったら、私が譲歩しないとフェアじゃない。だから彼には罰が必要で。必要で必要で必要で! 罰は喜びで、罰は幸福じゃないといけない。あれ、でも、それは何の喜びにもならない? あれ、どうして? じゃあ、じゃあ、じゃあ、どうして? あ、あ、あ、辛い辛い辛い辛い!」
理子は頭を抱えると小さくなって、いつもの呪文を口ずさむ。顔が憤怒と喜びが入り混じった形相に変化していく。彼女は爪を噛みちぎりながら、ぶつぶつと独り言をいった。爆発は、目に見えていた。
それでも健太はあまり恐怖とは思わなかった。もう逃れられないのだと覚悟を決めたことだけが理由ではない。最悪の結果ではあったが、最低限、大切なものは守れた。それだけで満足だった。
「先生、可哀想に」
きっとどうしていいのか、彼女は悩んでいるのだ。何にすがって良いものか分からないのだ。未だに混沌の中に居続けている。
振り上げた拳が眼前に迫る中、健太は哀れんだ瞳で彼女を見ていた。




