30……グレートマザー(もしくは我が子を食らうサトゥルヌス)2/2
健太は恐怖に震えて、嫌だと叫んだ。呪詛のようにそんなことは許さないと何度も続ける。理子の服をきつく掴んで、彼は懇願するような眼差しで理子を見上げた。目には零れそうなほどの涙。
眉を寄せて、目を細めて、理子は可哀想だなと思った。大切なものを失うということは、自分の中の何かを失うことに等しいのだと知ってた。人はそれを魂と呼ぶのだと。
魂を失うこと、欠けること。それは半身をもがれることに等しい。
だから理子は安心させるように微笑んだ。大丈夫と健太の柔らかい髪を撫でて安心させる。
「一人なら辛いかもしれません。でも、二人ですから大丈夫ですよ。二人なら、悲しいことも乗り越えていける。昔の私のように健太くんの心が壊死しても、私はずっと一緒にいてあげますよ」
健太は許してくれるのだという喜び勇んだ顔を、絶望の色に変えて、戦慄いた。
それは、終わったことと、決まりきったこととして話す彼女の口ぶりに情といったものが、一切なかったからに違いない。
「では、もう一度、健太くんに聞きますね。どちらが一番大切ですか?」
「大切な方が……何なんですか? 大切じゃない方がどうなるんですか!? 僕はもう、嫌だ。友達を失うのも、大切な人を失うのも、嫌なんだ。嫌なんですよ、だから」
事件のあった時、心配してくれた友人に何も喋るなと自らの身体に刃物を刺して、脅した時のことを言ってるのだろうと理子は思った。最も健太が“生き生き”としてた時代だ。
痛みが未来を作り、生を見出し、今を生み出した。その過程を反芻して、うっとりとした表情で理子は天井を見つめた。
そして言う。やけに冷えた声で言う。
「だから、なんですか?」
「だ、だから、お願いします。なんでもするから、だから、お願いします。何をすればいいんですか? 笑えっていうなら何度でも笑います。呼び方だって変えるし、あなたを愛するし、僕はっ」
健太が懇願するような顔で見つめても、理子は天井の隅を見つめて笑ったままだった。
みるみるうちに健太の表情は絶望から、恐怖に染まっていく。初めて健太はそこで理子というものを知ったようだった。
瞳に何も浮かんでいない。人間らしきものを感じられない。自分のルールは何ものにも侵すことのできない絶対的なものだと信仰している。
そんな健太の思考を見抜いて、理子は喜び震えた。
「怖いですか? 怖いですよね? でも、大丈夫ですよ。健太くんは悲しみを乗り越えられる。健太くんはこれを機に成長できる。私、分かるんですよ。健太くんが頑張り屋さんだってこと。あ、“くん”なのに“さん”だって。ふふふふ。面白い。ふふふふ」
ゆっくりと顎を下ろして、理子は歯を見せて、堪え切れないといった様子で笑った。
満足したように笑い切ると、健太の携帯を握りしめ、立ち上がる。
健太が決められないというのなら、自分が決めてあげるしかない。それもまた愛であり、優しさなのだ。くくくと笑って、理子はそう頷く。
「あの、どこへ、行くんですか?」
「どこへって、ほら、健太くんが決められないから、だから私が、だからだからだから私が! あはは! 私が!」
その言葉の先を言わない。言わないでも通じる。それはなんと素晴らしいことなのだろうと理子は思う。
他人を信じる。他人の気持ちを想像する。それはもはや狂気と言っていいほどの奇跡に違いなかった。
理子が健太の台所から包丁を取り出すと、汗に濡れた顔で彼は彼女の前に立ちはだかった。顔はぼろぼろで、青白く、目をつぶりながら下を向いている。
「どうしたんですか? 抱きしめて欲しいの? お兄ちゃん、甘えん坊さんだあ」
嬉しくなって理子は包丁を持ったまま抱きしめる。顎の下のふわふわした髪の毛に頬ずりした。汗の匂いが心を和ませる。少しだけ背が足りないが唯一の不満。
「せん……いや、理子。どうすればいい。二人とも失わないにはどうすればいい」
「どうにもならないよ? だって、どうにもならないから」
「僕を何回刺したっていい。僕を何回殴ったっていい。僕の目玉がほしいのなら、くれてやる。僕の手足が欲しいのなら、くれてやる。でも、命だけはあげれない。俺は彼女にこの命を捧げたし、姉さんのために生き続けなきゃいけないんだ。だから」
「だから?」
理子は健太の言葉の先を興奮した様子で待った。手品を見つめる子供のように目を期待に爛々(らんらん)と輝かせて震えていた。
健太は詰まったように言葉にならない声を出した。何も考えていなかったようだった。
理子の期待が時間とともに消沈していく。抱きしめていた手はだらりと下に伸び、目は退屈そうに半開きに変わる。
「つまんないの。つまんない、つまんない。退屈は猫をも殺す。みゃあお」
もう一度、みゃあおと猫のように鳴いて、彼女は健太を突き飛ばした。
「健太くんね、健太くんね、つまんないよ。つまらないよ。勇気はあるけど、考えがない。考えがないから、何も生まれない。何もできないなら、何もしなければいいんだよ。得意でしょう、そういうの」
父親に抱かれていた時のことを理子は揶揄して言った。健太の顔がさっと赤く染まる。唇を震えさせて、何かを言おうとするも続けられない。感情の波が言葉を完全に埋めてしまっている。
理子は飽きたように一瞥すると、唄いながら玄関に足を向けた。
ねこふんじゃったねこふんじゃった。同じフレーズを何度も繰り返して、包丁で壁に線を描くようにゆっくり歩く
その時、聞こえた。
「……ないくせに」
「え?」
ピンと張った糸が切れたような感触が耳に残る。彼は何をいったのだろうと彼女は振り向く。
「俺を抱けないくせに」
酷く酷くびん笑した様子だった。
理子は違和感に首を傾げる。手が震えていることに気づいたが、健太の言葉が思考を与えなかった。
「なんで、いつも俺に女の子の服を着せるんだろって不思議だったんだ。女の子の格好させてるから、俺と寝ないのかと思ったけどさ、違うんだね。男が怖いんでしょ?」
理子は確かな足取りで健太に近づいた。
尻もちをついた健太の瞳孔が深く開いているのは、体が酷く強張ったのは、彼女の顔を見てしまったがゆえのことなのかもしれない。
歯をカチカチと鳴らしながらも、後退りながらも健太は言葉を続けた。
「は、はははっ。せ、先生さ、俺と自分を重ねてたんだろ。自分の境遇と俺をさ。先生も――」
健太が言葉の続きを口にすることはなかった。
理子は健太の口に手を被せると、静かに包丁を押した。理子の白い手の上を生暖かい鮮血が濡らす。
包丁の先の肉がびくんと痛みに震えた。押さえた手の指に隙間から唾液が息とともに噴き出る。くぐもった悲鳴が理子の耳元でする。
「違うの。違うからね、そういうのとはちょっと違うの。パパは優しかったわ。私のパパは優しかった。優しいだけで何もできないようなクズだったけど、いくらかはマシだった。ただね、ただママが選んでくれた将来の旦那さんって人が、少しね」
パタパタと血のように涙が健太の肩を濡らす。
彼女の弱々しく、小さかった声は時間とともにますます細かくなり、そしてそのうちそれは、虫のさえずりのように意味をなさなくなった。




