30……グレートマザー(もしくは我が子を食らうサトゥルヌス)
理子に車椅子など必要なかった。両手とも無事だった。重傷者を演じたのは由紀と健太の反応を窺いたかったから。それだけでしかない。
最近ではそれにも飽きて、普通に歩くようにしていたが、由紀の前では相変わらず手首は隠したままだった。菅原由紀が青ざめた顔で腕を見るのが愉快でたまらないのだ。
理子は健太の部屋のチャイムを鳴らした。病院に来た痕跡はなかったので、自宅にいると踏んでいた。
「健太くん、いないんですか」
コンコンと頼りなさげに彼女は戸を叩いて、耳をそばだてる。反応はない。
新聞受けのところに口を当てて、内側に響くように言った。
「いたら、理子、怒っちゃうよお?」
理子は勝手に作ったスペアキーを使って、扉を開けた。靴があることに微笑む。
「いないんですかねえ? あれー? おっかしいなあ? 靴があるのになあ? いるなら出てきてくださーい。こっちかな?」
ゆっくりと小さな部屋を歩いて探す。トイレや風呂場を覗いて、響くような声を上げる。健太がいると分かっている寝室を探るのは最後だった。
「そこにいるんですよね。出てきてくださいよ。嘘ついて隠れてたことは怒りませんから、自分から出てきてください。……あれ、ふすまが開かないんですけど、棒か何かで止めてません? 困ったなあ。開けてくださいよ。元気な顔見せてください。早く出てきて。出てこい。出てこいっつってんだろうがよっ! オカマ野郎がっ! 怒らないから出てこい!」
ふすまをなぎ倒して、部屋の隅で膝を抱えている健太の元に勇み足で近づいた。彼の両手と両足は白い包帯で巻かれている。
「あれ? どうしたんですか、健太さん。顔色悪いですよ? 最初の頃に会った時と同じ目をしてる。ボロボロで、ヘロヘロで、生きてることが嫌みたいなそんな目。生きてることって素晴らしいのに。そういうのダメだと私は思うなあ。原因を探りましょう。どうしたんですか? 何が原因なんですか?」
言葉は空々しくもなく、顔つきは酷く真剣だった。彼女は本当に心の底から健太の異変に疑問を持っているようだった。
自分とは相反する相手に健太は怯えたように顔を伏せる。極度のストレスがそうさせたのか、黒くなった髪の中に白い毛が混じり始めていた。
「先生、やめてください。もう嫌です。許してください、誰にもいわないですから、俺を放っておいてください。もう痛いのは嫌です」
「先生じゃないだろおい。理子かミッちゃんか、ミチって呼べっていったでしょ? お兄ちゃんなんだから当然でしょ? 清く正しく美しく、ルールは守ろう――ねっ!?」
理子は健太の横の壁を思い切り殴った。一撃では壊れず、何度も何度も殴って穴を開ける。血だらけの手を見て理子は叫んだ。
「ああああああああああ! 痛い痛い痛いっ! どうして? ねえ、どうして私の手はこんなに痛いの!? 血が出てるのはなんで? なーんーでーえ? お前のせいか? お前のせいだな? お前のお前のお前の!」
胸ぐらを掴んで、理子は健太の顔に血を塗りたくった。
健太は目を逸らして、震える。あのラブホテルの凶行以来、こうなったら何をしても無駄だと悟っていた。ただ理子が満足するのを待つしかない。人の体に輸血しながら、人の体を治療しながら、笑いながら、ナイフを刺すような相手なのだ。理解や説得は無理だと悟っていた。
突然、何かを思い出したように理子は健太を離して、涙ぐむ。ごめんね、ごめんねと囁いて、抱きしめる。
「あ、あ、あ、あ、ごめんなさい。健太さんの顔、汚れちゃいましたね。健太さん、辛いですよね。でも思い出してほしいんですよ。生きてることは辛いってことなんだって。その辛さが生きてるってことなんだって。命を無駄にするのは生物として間違ってますからね。そんなことをするくらいなら死んだほうがマシですよ」
言いながら理子は健太を脱がし、彼の前で、下半身に手を這わして、自慰をした。理子は健太に性的に触れたことがなかった。
健太にとって理子は“楽な客”だったかもしれない。しかしそれでも顔は暗くなる。どんな形であっても結局のところ、自分が性的に略取されていることは変わらないのだ。
「健太くんも黒いアレの素晴らしさが分かるようになってほしいです」
「黒いのは……嫌だ。あんなの、もう見たくない。何がいいんですか、あんなのの何が」
ボロボロと涙を泣き始める健太に、理子は自慰を止めて、健太を抱きしめる。
「あの時、泣きながら何度も分かったっていってくれたのは嘘だったんですか? 生きてることも、命の重みも全部理解したっていってくれたじゃないですか。死は、生は美しいって泣きながら、あんなに大声で。あの時のことは全部、嘘だったんですか? 私と付き合ってくれるともいいましたよね? 私のこと、嫌だったんですか? 本当は分かっていなかったんですか? 分かりたくなかったんですか? なら、そういってくれれば私だって素直に受け止めれたのに。なんで、そんな嘘をつくんですか? 嘘、嘘、嘘はいけ、いけないなあ。いけない、いけないぞ、いけいけいけない――――辛いなあ」
血が抜けたように健太は青ざめる。歯をカチカチと震わせて、全身を縮ませた。
何度も何度も何度も何度も耳が落ちそうになるほど、その言葉を聞いたのだ。
「辛い、辛い、辛い、辛い辛い、辛い辛い辛いなあ! 辛くて苦しくて痛くて、楽しい! 生きてる感覚がするよね? 健太くん、生きてることを否定するだなんて変ですよ? 変だなあ、変なの、変なのお!」
「い、い、い、生きてることを、否定してる、わけ、じゃない」
「本当に? ホントに? じゃあどうして命を粗末にするの? どうして今を無駄にするのお? 失っているということを実感してないからでしょ? 良い方向に進みたいって思ってないからでしょ? うんうん、そうだそうだ。じゃあ、大切なものを失えば分かるかな?」
妙に粘ついた口調で、理子は抱きしめる力を強めた。
「健太くんの大切なものってなーにーかーなっ」
「やめろ、やめてくれ。姉さんも、由紀も、か、関係ない。お、俺にどうしろっていうんだ」
「私はね、わーたーしーはー、健太くんに笑顔でいてほしいんですよ。笑顔に。笑顔ってね、楽しんでるってことじゃないですか? 生きてるってことじゃないですか? 私もね、よくこうされたんですよ」
理子は立ち上がって、唐突に拳で健太を殴った。
「笑いなさい。ただでさえ、無愛想なんだから、笑いなさい。上品に楽しむように、笑うのです」
お手本のように笑って見せる。眼の奥が乾ききった、唇をもたげただけの笑み。
彼女は笑いながら馬乗りになって、健太を殴打した。
「笑え、笑え、笑え、笑え、笑え! 笑えっつってんだろう! ふざけてるのか、お前は!」
健太はもはや怯えてしまって、彼女の言葉を理解できない。恫喝と暴力に虐待を受けていたことを思い出してしまい、動くことができない。体がすくんでしまう。自分を守ることしか頭にない。
理子はそんなことをお構いなしに、健太を殴り続ける。全力で、体重を乗せて、殴打する。
「笑え、笑え、笑えよ。笑わないと、酷くなるんですよ! もっと痛いことをされるんですよ! 大切なものがどんどん失われていくんですよ!? 大切にしてたクマのぬいぐるみも、綺麗にしてたノートも、ランドセルも、筆記用具も、服も全部捨てられてしまう! お兄ちゃんだって捨てられてしまった! ああ、なんてことなんてこと! このままじゃ、健太くんの大切なものも“捨ててしまわないと”!」
健太の瞳に光が差した。パンパンに腫れた顔で、唇の切れた状態で、健太は笑う。美しい絵と醜悪な何かをコラージュしたような顔で笑う。笑わなければ、ならないのだと。姉を守り、親友を守るのだと。
「ああ! そうです! それが生きているということです。笑顔と苦痛はセットなんですよ、健太くん。分かってくれて嬉しいです。よかったよかった。二つ一度に失うのは流石に酷ですからね。よかった、どっちか一つで済んで」
えっ、と健太の声が漏れた。
「お姉さんと、菅原由紀さん、あなたにとって大切なのはどちらですか?」




