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28……ごめんね。

 理子とラブホテルの床を繋げているのは小さな小さな踏み台だけ。首には天井に繋がれた縄。

 後ろ()にガムテープで固定された手にはじっとりと汗が浮かんでいた。部屋にこもる熱から来る汗ではなかった。目の前の包丁を握る健太への信頼だけが自分を生へと繋ぐ。その不確かさが彼女を不安にさせた。

「好きです。あなたのことが好きです。大好きです。毎日、あなたにボロ雑巾のように使って欲しいです」

 ブドウの皮の色に近い色の赤いルージュを塗った唇が冷たく歪む。ゴシックロリータ調の服装は気味が悪いほど健太に似合っていた。

「もう一回、言ってみて」

「す、好きです! 好きです! 好きです!」

「心の底からいえる? 僕の為に命を捧げられるって誓える? ねえ、どうなの?」

 銀色に光る包丁の先端が、線を書くように柔く頬を滑っていく。服の上をなぞり、太ももに掛かる。

「ち、誓います」

「本当に?」

「ちかい――」

 軽かった。健太の踏み台を蹴る足は情も、熱も、情けもなかった。ただ邪悪に面白がる子供のような好奇心しかなかった。

 地面を求めて、空を掻く足に見向きもせず、健太はもう一度問うた。

「僕のこと、なんだって?」

「――かがあっ」

「ん? どうしたの? 命を捧げれるんじゃなかったの? ちゃんといえたらご褒美上げる。ほら」

 健太の細い脚を覆っていた黒いタイツが地面に投げられる。理子はもがきながら、それを羨望の眼差しで見つめる。

「タイツじゃないよ。ナマ足で踏んであげる、顔を。特別に十秒だけ舐めてもいい。変態のブタのお前にはすごいご褒美でしょ?」

 理子は失禁して喜びを示した。体を保たせるための酸素を無理やり割いて、途切れそうな意識の中、黒い死が視界を覆い始めている意識の中、鳴き声を上げた。

「す、ぎでず。愛じて、まず」

「あっそ。だから何?」

 限界だった。視界が黒を通りすぎて、白に染まっていた。皮膚の内側に氷を詰められたように、舌が固まって動かない。

 血の流れる音だけが耳を覆う。心臓が脈打つ音だけが世界を覆う。苦痛が引いていき、心地良い何かが体を包み始めていた。

 それは死だった。

「だがら……殺じてくだしゃい」

 彼女が言い切るのと同時に、ロープが真っ二つに途切れる。深く息を吸って、健太は彼女の肺に酸素を送った。何度も何度も酸素を送る。冷えた視線のまま、酸素を供給し続け、顔色が戻ったあたりで、思い切り理子の頭を蹴り飛ばし、体重をかけて顔を踏んだ。

「ブタの癖に何が殺してだ。何、人に指図しようとしてるんだ、お前は。おい、クズ。お前は何だ?」

 銅藍(どうらん)を鳴らしたような音に頭の内側を支配されながらも理子ははっきりとした声で答えた。

「ブタです。あなたのブタです」

「卑しくて、変態のマゾヒストのブタだろうが。自分の顔、見てみろ。死にかけて、踏まれて、喜んでるぞ。お前」

 頬に手を当てて、理子は自分の顔を確かめた。

「はい、私は卑しくて気色の悪いマゾヒストのブタです。傷めつけられて喜ぶクズです」

「分かってることをいちいち繰り返すな。糞がっ」

 口の中に健太の素足が半分ほど詰められた。チャンスとばかりに彼女は吐き気を堪えながら、健太の足の指に吸い付いて、舐め回す。

 もぞもぞと内股になって、顔を興奮に膨らませた。

「死にかけたっていうのにこのブタは。おい、いつもみたいに見ててやるから逝ってみろ。ほら、足を舐めながら逝ってみろ。変態のブタなら造作も無いことだろ」

 言われるまでもなく理子は達して見せる。何度も何度も達して見せる。意識が途切れるまで、彼女は健太の虜だった。


 化粧を落とし終え、衣装をまとめると健太はコンビニで買ったスナック菓子を貪りながら、部屋のテレビで映画を見た。コミカルな出で立ちの宇宙人が圧倒的科学力で人類を追い詰めていくものの、偶然にも流れた愛と平和を謳った曲を聞いた途端、頭が弾けて滅んでいき、人類は勝利したという内容だった。

「最後の10分でそんなまとめ方ってあるかな」

 愛と平和が結局のところ戦争を終わらせるための武器という風刺なのだろうか。あるいは愛と平和が戦争を終わらせたという皮肉なのか。健太は少し微笑む。由紀ならどういう感想を持つだろうか。

「ん……あれ?」

 ベットに寝そべっていた理子が重たそうに瞼を開いて起きた。自分の手を握っている誰かの手の先を目で追って少し赤くなる。続けて由紀にも健太にも隠していたはずの無事な手を開き、健太の顔を見た。驚いた様子はない。

「おはよー」

「おはよう、ございます。あの、私、何も着てないんですけど」

「服、汚れちゃったからね。洗濯機に入れておいたよ。最近のホテルって凄いね。プールがついてたり、洗濯機があったり、映画が見放題だったりさ。ああ、このホテルってさ、料金後払いなんだってさ。料金払い終わるまで外出られないんだよ、知ってた?」

「健太さん、好きです」

「ははっ、さっきも聞いたよ? どうしたの急に」

「あの、本気です。前もいいましたけど私は、あなたのことが好きです。私と真剣にお付き合いしてもらえませんか、結婚を前提に」

 まるで独白のようだった。言葉こそ窺うようなものだったが、その語感は自分の感情を確かめるような、独り言に近い不安定さがあった。

 健太は理子のどこも見つめていない顔に、言葉が本気であることを認めた。無意識にテレビのチャンネルを変える。タイミングの悪いことにメロドラマが映り、男女が夕日をバックにキスをするシーンだった。

「あー……えっと」

「私のこと、嫌いですか」

「嫌いじゃないけど」

「好きでもない、と」

「好きだけど」

「愛してはいない」

「う、ん。そうかも。いや、そういう言い方は良くないよね。希望をもたせてるみたいで最低だ。はっきりいうよ、俺は先生を愛せない」

「どうして」

「何かが問題とかそういうのじゃないんだ。感覚的に俺は先生を愛することができない」

「菅原さんですか」

「ゆ、由紀は関係ない。ホントに、うん」

「そうですか」

 顎を下げて彼女はもう一度、そうですかと続ける。

 健太は所在無さげに天井を見つめた。今日のプレイも唐突だった。姉の見舞いの後、急にファミレスに呼び出した彼女は、唐突に健太にプレイに付き合って欲しいと土下座を始めた。

 ――ここに五十万円あります。今日一日、私を嬲ってください。お願いします。

 あの切羽詰まった要求はこの事を覚悟した上での行動なのだろうと今更理解する。

「ああ、辛いな。辛い」

 理子は額に手を当てて、感情の篭もらない声を発した。それでも肩は震える。

「ごめんなさい」

「辛い辛い辛い辛い辛い。でも分かってたんですよね。こうなるのって分かってたんですよ。ねえ、健太さん。私のマゾヒズムってどう思います? 気持ち悪いですか? 私ね、最近になってやっと気づいたんですよ。自分を痛めつけたいっていう欲求は他人への殺意なんだって。それが内側に向かってるだけなんだって。自殺は他人への強い殺意なんですよね。それを理性的に抑えた結果、自分への破壊衝動になったわけです。他人を殺したいっていう意思を理性的に抑えた結果が自殺です。私の行為って自殺めいてますよね。それって、他人への殺意が強いってことなんですかね? ああ、話しは変わるんですけど、トラウマって知ってます? トラウマ。お兄ちゃん、過去のことを思い出すと息苦しくなったりしません? それ、トラウマですよ。トラウマって、なくなったら楽になるってイメージありますよね。ね、ね、ね? 私も、そう思ってたんですよ。だってフロイトだってそういってるじゃないですか? コップから水を飲めなくなった女性の話しなんて典型例ですよね。そういう刷り込みを私達はされているんですよ。でも、でもね、違うんだなあ。例えば、自分が凶悪で、とんでない怪物で、とにかく人をぶち殺したいと思っていて、ネジ曲がっていることを自覚していて、他人と違うことに気づいて、そういう感情に身を任せるようなことをするのは、母親と同じだということに気づいて、それにショックを受けて、自分を自制させるためにそのトラウマで自分を制御していた人間がいるとしますよね。これ、このトラウマって取っちゃダメでしょ? 転ぶことを恐怖するのは、転んだというトラウマのおかげですよね? 刃物に恐怖するのも、そうですよね。人の死も。トラウマって必ずしもネガティブなものだけじゃないんですよ。私が何をいいたいかって? さあ、なんでしょうね? ただね、私、最近、生きていることを感じるんですよ。辛いということを知って、その苦痛が、心と体を蝕んで、生を無理やりに自覚させてくれる。痛みは生を自覚させてくれる。これがね、嬉しいんですよ。うれしいい! 辛い辛い辛い辛いいいい! 嬉しいいなあああああああ!」

 目を三日月のように歪ませて、頬を釣り上げて、理子はヨダレを零しながら笑った。

「健太くんにもこの生きる歓びを分けてあげたいなって! ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ!」

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