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03……こんにちは。デッドボール。

 スイッチに手をかけてベットの背もたれを立たせる。健太は病院の安っぽいパイプ椅子を姉に近づけた。

「姉さん、今日はね、姉さんの好きな卵スープだよ」

 口元に運ばれたスプーンからズルズルと音を立てて彼女は汁を啜った。健太は空になったスプーンをお椀に戻そうと試みたが、彼女は口を固く締めて逃さなかった。

「姉さん、まだいっぱいあるから。ね、スプーン離そうか」

「…………」

 彼女は何も答えなかった。答える力がなかった。だから健太は無理やりスプーンを引き抜く。姉は獣じみた抗議の声を上げた。

 彼女には手も足もあったが、ベットにベルトで括りつけられていて、動かせなかった。口も舌も目もあったが、そこから知性が出ることはなかった。まるで植物のようだった。糞尿を垂れ流す様はまさに痴呆老人のそれだった。

 頭蓋骨が割れ、脳に直接打撃を食らったのだ。それも当然だと健太は思う。生きてさえいれば、それでいいじゃないかと思う。決して自分の行為は間違っていなかったのだと、自分の選択は間違っていなかったと思う。思わなければ、耐えられなかった。

「デザートにね、林檎をすりおろした奴があるからね」

 口端(こうたん)から溢れるとろみのついたスープを健太はティッシュで拭いた。

 いつか回復するはずだと自分に言い聞かせる。姉さんはいつもそうだった、あの時やあの時だってと思う。しかし、耐え難いものが胸の奥からこみ上げてくる。

 死んだ方がマシじゃないのか。これを人と呼べるのか。姉さんは死んだも同じじゃないのか。姉さんの形をした生き物じゃないのか。そう思ってしまう。

「違う!」

 健太は叫ぶ。ぼんやりと暇を遊ばせている姉を見つめながら叫ぶ。

 毎日毎日、同じ事を繰り返しているせいで、自分は疲れているんだと決めつける。姉のことしか考えていないせいで、気が休まる暇すらないのだと。

 息を吸って、吐いて、健太は笑顔を作った。姉に慈愛の篭った笑みを作って、スプーンを勧める。

「今日遅れたのはね、変な子に会ったからなんだ。電気で動く車椅子に乗っていてね、ほら、町中に大っきなビルがいくつも建ってるところがあったよね。あそこの一番大きなビルの屋上に住んでてさ……」

 しかし、いつまで続ければいいのだろうと考える。同じ事を何度も繰り返すことは狂気以外の何ものでもないと彼も分かっていた。きっとどこかで事態が好転するはずだと希望的観測にすがっているに過ぎない。

 ただ時間がひたすらに消費され、金も尽き、いつまで入院を続けられるかも分からない。あと残りの数十年をこうやって自分は過ごすのだろうかと思って、ゾッとする。

「いっそ……」

「うばあ、ばあ!」

 唾液を飛ばしながら、食事を欲する姉に健太はハッとした。彼は(かぶり)を振って、笑みを作る。良くないことは良くないことを呼ぶ。だから彼は笑う。

「あ、健太さん。来てたなら、一言いってくれてもいいじゃないですか。お姉さん、おはようございます」

「……先生」

 黒い髪を健太と同じように後ろにまとめた女性が音もなく背後に立っていた。激務なのか、顔色は患者よりも青く、幸福そうな色はどこにもない。

 面会謝絶の札をしておいたはずだったと思いながらも、健太は立ち上がり、挨拶をした。名前を思い出そうとして、名札を見る。

茨木理子(いばらぎみちこ)。ことわりの理にこどもの子で、理子。健太さん、いつも私の名札見ますよね。いい加減、名前を覚えてほしいな。お隣さん同士なんですから」

 すみませんと気まずそうに彼は笑った。

 彼女は以前、健太をよく買ってくれた客でもあり、妹に殺されかけながらも、生き残った人間だった。

 理子は何も語らなかった。健太が“仕事”をやめたと知ってか、誘うこともしなけければ、殺しに来た妹のことを彼に問いただすようなこともしなかった。ただ一言、水に流すと言ったきり。

 妹が殺しに来た理由に気づかないはずはないと彼は思う。分からないはずがなかった。殺された人間が尽く、健太に関連する人間なのだから。

「お姉さん」

「えっ?」

「お姉さん、健太さんが来るといつも調子がいいんですよ。今日だってとても嬉しそう。毎日、見てるから分かるんですよ」

「そう、ですかね」

「そうです」

 健太にはその違いが分からなかったし、お世辞だろうと分かっていた。姉と接している時間は確実に健太の方が長いのだ。それでも、その一言は強く彼を救った。

 そうなのかな、そう口の中で零しながら、彼は姉の頬を撫でた。汗をかいているのか、湿っている。

「そういえば」

「何ですか?」

「最近、アパートに帰ってきてないみたいですけど、どうしたんですか?」

「……ずっと、ファミレスめぐりをしてたんですよ。家賃とか、そこら辺、払ってないんで。今頃、解約されてるんじゃないかな」

「ああ、それですか。大丈夫、私が立て替えておきましたから」

「…………」

 幸の薄そうな笑みを携えて、当然のように理子は言った。

 健太は言葉に詰まる。ありがたい、とは思えなかった。ただ不気味だなと思うだけ。

 姉が倒れてから、アパートの隣に引っ越してきた彼女は最初から遠慮がなかった。干しっぱなしにしていたから、という理由で健太が不在の間に勝手に洗濯物を自分の部屋に取り込んだのを皮切りに、作りすぎた料理を毎晩のように押し付けたりと奇妙な行動が目立った。健太が深夜に帰ってくれば、即座に戸を開けて、帰りが遅いと説教にも似た話しを始めた。

 気苦労に彼は一時期、胃潰瘍になった。同病院内で診療を受け、診察医として彼女が出てきた時には流石の健太も笑った。健太は彼女の言葉を思い出す。

 ――神経性の胃潰瘍ですね、最近、困っていることがあるじゃないんですか?

 強く言いたい思いもあったが、姉の担当医という立場が邪魔をした。

 以前に自分の客で、妹が殺しかけた相手で、姉の担当医で、隣に住んでいる距離感のないおせっかいな女性。健太が姉のアパートに帰りたくない最大の理由だった。

「健太さん、今日は帰ってきますよね?」

 自分のことを憎からず思ってくれているのだろうかと健太は彼女を見た。目を引くような美人とまではいかないが、理子はそれなりに整った顔立ちをしていた。

 健太は内心、笑った。もしそうだとしても誰かと付き合うつもりなど最早なかった。そう決めたのだ。それなのに値踏みするようなことをしている自分の矛盾は人恋しさ故のものなのだろうと彼は思った。きっと彼女が自分を好いてくれているという考えも、そうであってほしいからという願望に違いないと気づく。まだ自分は他人に好かれる余地があるのだと。

 好意でないとしたら、何が彼女を突き動かすのだろうと健太は考える。考え、理由にたどり着く。それはきっと、後悔と懺悔のため。健太は彼女が自分を買ったことで間接的に追い込んでしまったと思っているのではないかと推察した。姉をこんな風にしてしまった一端の責任を彼女は感じているのだ。その後悔と懺悔のために優しくしてくれるのではないかと。

 そう思うと、彼女の水に流すという言葉にも、数々の行動にも納得がいった。

「……今日は、友だちの家に泊まる予定です」

 ならばこそと思う。より一層、彼女に近づくべきではないのだと。

 汚れすぎた自分は彼女の近くにいていい人間ではないのだ。憐れむ必要もなければ、関わりを持つ必要もない。自分の業の深さを知っているからこそ、彼はそう思い、考える。

 空になった食器をまとめ、立ち上がる健太に彼女は戸惑ったような顔をした。健太の友達というものに良いイメージを抱けなかったからかもしれなかった。

「健太さん、あのっ」

「先生にはいつも感謝してます。でも、過剰に近づくのはやめてください。気持ち悪いですよ、そういうの。俺が哀れに見えるのか、義務感なのか、後悔から来るのか知りませんけど、やめましょうよ。馬鹿らしいったらないですって」

 健太は悪意を込めた笑みを見せる。侮蔑めいた、笑みを。

 理子の手が中空で止まった。健太はそれに触れて、握手をする。さよならの握手だった。

「じゃあね、ばいばい」

 これでいいのだ。こうしなければならないのだと思いながら健太は病院を後にした。

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