24……こんにちは。幸福を与えてくれるもの。
木陰で疲れたとシャツを扇ぐ健太に、車椅子を押していた由紀は怒ったように笑った。
「ホント、健くんはだらしがないね。お姉さん、あっちで女子トークしましょう」
「由紀は女子トークっていいたいだけだろ」
「うっさいやい。男なら気を利かせてジュースでも買ってきてよ」
「え? めんどくさいよ。それに暑いし」
「ほらほら、買ってきてくれたら、いっぱいハグしてあげるから頑張って!」
「完璧、俺を犬扱いしてるよな、由紀は」
「えへへっ、バレた?」
歯を見せて、ケロイド調の頬を歪ませる由紀に、暑さを忘れて、健太の頬も緩む。
健太は薄い財布を片手に、自販機へと向かった。小さな虫と蜘蛛の巣が絡んだ自販機は彼を少し不衛生な気分にさせる。無機質に、無自覚に、罪の意識など持たず、命を吸っていく恐ろしい何かのよう思えた。
硬化を滑りこませ、ジュースを選びながら、健太は姉と由紀を横目で窺う。何かを歌うように彼の姉は唇をパクパクと動かしている。由紀はその後ろで相槌を打つように、肩を笑わせて、何かを話している。
人の視線を、人を病的に恐れていた頃の由紀の姿はもうない。精巧に作られたシリコンの手も、足も、やはりその挙動はおかしい。不自然で、見る人が見れば、作り物であることが分かる。それでも、彼女は平気な顔だった。
何が彼女を変えたのだろうか。
「俺が変えた……なんてな」
なんだか恥ずかしくなって、健太は一人、誤魔化すように笑う。由紀が手を振ったのに気づいて、健太も由紀に向かって手を振り返した。
「健くーん、遅いよー! ダッシュダッシュー!」
「そんなに離れた距離じゃないし、走らなくてもすぐだよ。……ほらキャッチ!」
「おわっ」
小走り混じりの健太が投げたコーラのボトルを由紀は受け取り切れず、地面に落とした。拾いながら、彼女はムッとした顔でボトルを拾う。
「健くんさ、ほんっっっっっとさ、私を障害者扱いしないよね。ちょっとイジメの領域入ってるんじゃないのって思うよ。…………でもね、腹が立つけどね、そういうの好き。嬉しい。すっごい安心するし、気が楽。もうね、なんか勝手にこうやって顔が笑っちゃう! ああ、もう!」
「んー、前よりもずっとずっと明るくなって、全然気にしてないように俺には見えるけど、まだ不安に思ったりする?」
「まあね。でも、もうそれはしょうがないものなんじゃないかな。どうしようもないものだと思うよ」
どうしても人の目が、他人の好奇が気になってしまうと由紀は視線を落としかけた。でも、という言葉を続けて、持ち直す。
「でもね、健くんが私を普通に扱ってくれるから、ずいぶん楽だよ。前はみんなが常に私を見てるなんて思ったけどね、今は健くんみたいにどーでもいいって思っている人もいるんだって、興味ないって思ってる人がいるんだって分かって、すごく楽になった。同時にね、なんだか腕がないのも、足が欠けてるのも大した違いじゃないんだって思えるようになったよ」
君のオカゲで、と照れたようにいう由紀になんだか健太は恥ずかしい気持ちになって、ボトルを煽る。
冷たい炭酸が乾いた喉に突き刺さるような刺激を与えて、少し健太はむせた。
「健くん、何照れてるの?」
「べ、別に照れてないし。っていうかさ、さっき姉さんと何話ししてたんだよ」
「あ、話しをそらした。まあ、いいけどさ。君のお姉さんとは女子トークを少々ね」
「テーマは?」
「人間の目玉を……」
「ストップ!」
「え?」
「人間の目玉から始まるキーワードに女子的なものが一切感じられないんだけど。っていうか、うちの姉さんに何話ししようとしてんの?」
「え、じゃあ、こぼれた臓物が……」
「由紀は俺の姉さんに何を吹き込みたいわけ? 女子は女子でも魔女的な女子なの? サバト的なアレ?」
「お、健くん意外と語彙力あるね。それに物知り! あ、語彙力っていう字、漢字で書ける? 私はね、書けませーん」
健太は中空に指で漢字を書く。ごいりょくの“い”が分からない。由紀との勉強のオカゲか、昔よりは知識がついたはずだが、分からないものはやはり、分からない。
解けない問題に忙殺されている健太の姿がおかしいのか、由紀はムズがるように笑った。
「健くん、やっぱり変わったね。前は周りの全員がさ、自分に悪意をもった敵みたいな顔してて、すごくか細くてもろい感じだったのに。今はなんか、うん、犬って感じ」
「んん? いや、さっきの続きじゃないけど、由紀も変わったよ。前の由紀は時々、すごい怖い顔する時があったし、冷たい時はすごく冷たかったけど、今はそうじゃない。今の由紀なら先生に会わせても全然問題なかったんだけど」
残念だなと健太は思う。理子は不在だったのだ。いつもならすぐに連絡が返ってくるはずのメールの返事もない。
「そっかなあ。最近、同じようなことを誰かにいわれたけどさ、自分ではあんまり変わってないと思うよ。やっぱり私は独善的だし、優しくするべき人と、そうでない人って頭のなかで区別をつけてる。プラスとマイナスとかさ、いらないものといるものみたいな感じに。最近ね、いるものもいらないものも、保留にしてたものもまとめて一気に整理したから、その枠に余裕があるのかも。だから私が変わったように見えるんだよ」
「その枠がいっぱいになったり、整理が必要になったら、由紀は前みたいに冷たくなっちゃうってこと?」
健太の姉の唇を袖で拭って、由紀は飲みかけのコーラに口をつけた。
「私は狭量だし、薄情だからね」
彼女はどんなに大切なものでも簡単に目の前から消えてしまうということを嫌というほど知ってしまっている。そのことに気づき、健太は寂しい気持ちになった。
大切なものを心のなかに作っていると、それが消えた時の衝撃は大きい。だから最初から、そんなものを作らない。作ってもそれほど重要視しない。簡単に切り捨てられる冷静さを持っている。
それが健太にはとてもとても寂しいもののように思えて仕方がなかった。どこか理子を思わせる冷たさのようで。
「俺は由紀のおかげで変われたよ。何が変わったのか分からない。どう変われたのか分からない。でも由紀は俺を埋めてくれたし、俺を変わらせてくれた。それは本当のことだと思う」
「ふふ、健くんが私を埋めてくれるんじゃなかったの?」
「そうだね、ごめん。なんかすごくアベコベだ」
「いいよ。私も今、満たされてるし、生きる目標っていうか、希望みたいなものが見つかったから。……健くん、知ってる? 幸福ってね、自分だけが満たされることをいうんじゃないんだよ。周りも幸せにして、自分も幸せになって、そこで初めて幸福に到達するの。飢餓の分析について論じた本をね、最近読んだんだけど、これって幸福にも当てはまるんじゃないかって思ったの。知ってる? アマルティア・セン」
「知らないけど、なんとなく分かるよ。そういうの」
一家の大黒柱が暴君で、家族に暴力を振るい、経済的なものを独占しているという状況で、確かに暴君は一見幸福だ。自由に振舞い、思うままに家族に当たることができる。しかし、幸福の程度は低く、その先は短い。いつか刺される状況に違いない。そう健太は思う。
「最近ね、人間は一人では生きられないという言葉の意味が身にしみて分かるんだよね。なんか年寄りみたいだけどさ。……健くんは今、幸せ?」
青々とした草木の香る風の中、菅原由紀は健太の回答も待たず、笑った。
「私はね、幸せだよ」




