23……こんにちは。それとさよならも。
姉に会いたいと語る由紀に健太は快く了解した。担当医である茨木理子が面会は極力避けるようにと言ってたのを思い出したが、健太はあまりそのことを重要視しなかった。
ベルトで縛られた手を揉みほぐしつつ、健太は由紀に姉を紹介する。由紀は健太の姉をまっすぐ見て、頭を下げた。
「初めましてこんにちは、お姉さん。私は菅原由紀といいます。健太くんとはちょっと前から仲良くさせてもらってます」
「ははっ。由紀、普通に挨拶してる。そんなの姉さんには分からないよ」
健太の言葉に由紀は笑わなかった。たしなめるような視線で見るとゆっくり口を開いた。
「健くん、あなたが彼女を普通に見てあげなくて、誰が普通に見てくれるの? 君が否定してしまったら、誰もまともになんて見てくれないよ。彼女は誰? 健くんのお姉さんでしょ? 健くんの血を分けた姉でしょ」
「…………」
言葉を失ったまま健太は震えた。悲しみからでもなく、恐怖からでもなかった。感動したのだ。誰かにずっとそう言って欲しかったのだ。姉はどんなに形が変わっても姉であり、人間なのだと肯定して欲しかった。
どんなに優しい言葉をかけてくれる看護婦も、医者も、結局のところ姉を人として扱わなかった。それがずっと心の奥底で燻っていた。
嬉しくて、健太は由紀を抱き締めた。強く強く抱き締める。目をつぶって抱きしめる。
「……ありがとう。生まれてきてくれてありがとう。君と会えた幸運を俺はホントに心から嬉しいって思ってる。姉さんも、きっと同じ気持ちだよ」
「…………」
由紀は目をぱちくりさせて、一端、離れて息を吸い、まくし立てる。
「あー、びっくりした! 急に抱きつくんだもん! タバコの匂いがつくじゃんって怒っていいのやら、何すんのって驚いていいのやら、なんかそれっぽいこと言った方がいいのかって、もー! とにかくビックリした!」
「ああ、ごめんごめん。なんか、高ぶっちゃって」
「健くんはね、行動原理が犬とおんなじなんだよ! ボール投げたら喜んで取りにいっちゃうみたいなさ。もしくはご主人さまがピクリとでも動いたら散歩だと思っちゃうみたいな! え、じゃあ、何、私は飼い主なの? あ、お姉さんをほったらかしにして、こんなことしてる場合じゃない! もう、お姉さんも呆れてるよ、きっと」
「そんなことないよ。姉さんもきっと笑ってる。分かるんだよ、俺には」
「絶対、呆れてるよ。ねえ、呆れてますよね? きっと、お姉さんの中で、私はズケズケものをいう育ちの悪い子みたいになってるんだ。えっと、お姉さん、違うんですよ。由紀は育ちがいい子です。あ、自分で由紀とかいうと何かすっごいアレな女の子みたいですけど、違うんです!」
「そんなことないって。大丈夫だよ。ほら、姉さんに聞いて見よっか」
白んだ目で見る由紀の視線に、健太は得意げになって棚から小さなボトルと注射器を出す。なれた手つきで健太は注射器で水を吸い取り、姉の点滴に触れた所で由紀に手を止められた。
「何しようとしてるの?」
「え? 注射」
「それは、分かるけど、さ。何の注射?」
「ああ、これ? ホントは内緒なんだけど、先生が俺でもできるようにこの鍵付きの棚に入れておいてくれてさ」
「そうじゃなくて、それがどういう名前で、どういう意味を持ってるのか知ってるの?」
「これは姉さんが元気になれる薬だって聞いてるけど、えっと名前はここに書いてある。えっと、モル……モルヒ」
「モルヒネ」
「そう、モルヒネ。それがどうしたの? ちゃんと先生が出してくれた薬だよ? コレを使うとさ、姉さん、たまにだけど喋るんだよ。それにすごく気持ちよさそうな顔でさ」
モルヒネ。末期がんの患者などにしか処方されない鎮静薬。早い話が麻薬だった。
「け、健くん……」
「由紀、そんな真剣そうな顔でどうしたの?」
「健くんはさ、お姉さんが幸せな方が嬉しい?」
「当たり前だろ。何言ってるんだよ」
「でも、だって」
陽だまりのような健太の笑みに由紀は眉を寄せて、口を開く。しかし、言葉の先を言わない。何かに詰まったように、ただ、健太を抱きしめて、爪を立てて、震えたように顔を上げた。
「どうしたの?」
「なんでもないよ。熱中症かな? うん、そうだね、お姉さん、それで元気にしてあげないとね。私も……お姉さんの声、聞いてみたいよ」
「うん、あとで車椅子に姉さんを乗せて、近くを散歩しようよ。由紀、車椅子を押すのは初めてになるんじゃないの?」
健太の姉に繋がれた点滴に健太の注射器の液体が流れていく。それを由紀は険しい顔で睨んでいた。
「聞いてる?」
「ああ、ごめん。うん、そうだね。私、車椅子を押すのは初めてかも。なんか新鮮。でもさ、医者の人がいいって許可出すかな?」
「先生は俺がしたいっていうとなんでもいいっていってくれるけど、どうなんだろ。ちょっと先生に話し聞いてくるよ。そういえば、話し合いもしてなかったし、散歩ついでに由紀、先生と話ししなよ」
「それは名案ね。その先生とやらとお話ししましょうか」
扉を掴んだ健太がそうだと零す。
「由紀、分かってると思うけど、先生と俺は……」
「デキてるってこと? 知ってるよ、全部知ってるから」
「ははっ。そういうのとはちょっと違うけど、まあでも概ね合ってる。由紀にはいつか全部、俺のことを含めてさ、伝えるつもりだよ。だから今は、先生をあんま悪くいわないでくれよ。ちょっと変わってるし、強引だけど、悪い人じゃないんだ」
「分かった分かった。ほらほら、行ってきなよ。そんでその先生ってやらを呼んできなさい。大丈夫、喧嘩にはならないし、なるわけがないし、私ね、愛想笑い超得意だからね」
「ごめん、ありがとう」
壁を隔てた健太にため息をついて、由紀は彼の姉の頬を撫でる。酷く真剣な顔だった。
「悪い人ではないということは良い人である、ということにはならない。ですよね、お姉さん。モルヒネで無理やり覚醒させて元気になってるだなんていって彼を喜ばせてる奴が良い人であるわけないですよね」
わめき声を上げる姉の手を握って由紀は笑った。
「大丈夫ですよ。あの女は……あなたを人質にとってたあの女は私がちゃんと殺しましたから。私が彼を幸せにしますから、だから安心してください」
彼女は続ける。慈愛に満ちた笑みで髪を撫でて笑う。
「だから安心して死んでください。彼の負担になってるって分かってますよね? じゃあ、死なないと。ね? 大丈夫、なるべく苦痛のない方法を選びます。みんなが納得のいく方法を選びますから。だから、ね?」




