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22……こんにちは。私の世界。

 睡眠薬を飲んでいても、無意識に体は動いた。気怠い体を起こしながら、健太は服を着替える。不意に形容しがたい不安に襲われて、薬を飲んだ。

「何か変わったって思ったのに、俺は何も変わらなかった」

 それが健太を悩ませる。過去の自分と全く変わっていなかった。それが健太を苦しめる。

 価値の無い人間で、人の死を祈る人間で、汚濁に塗れた人間だと後ろ指を差されているような不安に、彼は耐えられなくなる。

 そういう時は何も考えないに限った。機械的に自分の目的を想像する。自分の行動を想像する。次のバスを乗り換えて、スムーズに降りられるように両替を済ませておこう。

 うだるような暑さの中、健太はフラフラと進む。途中で、公園に向かう子供が見えて、嘔吐しかける。由紀を想像してしまった。由紀に酷いことを言ってしまった自分を思い出してしまった。弱い自分を思い出して、辛くなった。

 両手で耳を塞ぐ。心臓の鼓動が聞こえた。同じリズムを刻む落ち着いたメロディ。生きていることを実感する。そこにいることを実感する。

「畜生、タバコでも吸うか」

 もう既に病院の敷地内だったが気にしなかった。先生に匂いでまたバレてしまう、きっと怒るだろうなと思う。どんな隠し事をしていても、彼女は見てきたかのようにズバリと当てた。不思議そうな健太に理子は薄く笑って、言う。

 ――健太くんのことなら、なんでも分かりますよ。

 一瞬、彼女との情緒が頭の中を流れる。彼女は全裸で殴られることを望んだ。それこそ骨がへし折れるくらいに強く殴って欲しいと泣きながら懇願する。叱って欲しいと泣きながら懇願する。

「先生も、俺もどっかおかしいんだな」

 白い煙を吐き出して、病院の自動ドアに反射した自分の姿を見る。染めた髪の色が黒い模様に侵食され始めている。まるでプリンだと健太は少し笑った。このまま伸ばせば、ほんと母さんみたいだ。そう唇が動き、記憶が動き、父の低く笑う声が聞こえて、健太は低く唸り、倒れそうになる。

 ――母さんみたいに髪、伸ばせよ。なあ?

 地面に手をおいて、深呼吸する。タバコは携帯灰皿に突っ込んだ。

「大丈夫? 夏バテ?」

 ベージュ色の軽そうなスカートを履いた女性が、健太に日傘を差し出した。大丈夫ですと健太は少し恥ずかしそうに笑った。

 起き上がり、驚く。菅原由紀だった。車椅子にちょこんと座った姿ではなく、地に足をつけて立っていた。以前と変わらない笑みで、人懐っこい笑みで、今にも笑い出しそうな、そんな優しい顔で、彼女はそこにいた。

 それが。

 それが。

 それが。

 それが健太は恐ろしくて、駆けて逃げた。走って逃げる。途中、転がって、どこかを擦りむいたが気にしなかった。健太は逃げる。弱い自分を突きつける彼女から逃げる。涙を溢れさせながら健太は逃げる。キリキリと痛む腹部を押さえながら、がむしゃらに逃げた。彼女が彼岸の向こうの点になるように祈って走った。


「何やってんだろ」

 燃え盛るような熱を吐き出しながら、健太はバス亭のベンチにもたれる。汗を拭って、息を吸う。彼女から会いに来てくれたのに逃げてしまう自分はやはり弱いのだと確信する。彼女のために全てを捧げると言いながらも、何もできなかった。

 ふいにバスが駅に止まった。乗客だと思ったのか、入り口を開いた。健太は社内の冷気をありがたく頂戴して目を瞑った。彼女は怖いけれど、不安にはならない。それはどうしてだろうか。

「ねえ、満足した?」

 由紀がいた。健太は驚く。

「……結構、離したと思ったのに」

「多分、四百メートルくらいしか離れてないよ」

「走ってきたの?」

「今のバスで来たんだよ。健くんの努力は二百円以下でえす」

 いたずらっぽく笑う彼女が不思議でしかたがなかった。怒りもしなければ、軽蔑もない。

「どうして?」

 それだけで分かったのか。由紀は少しだけ大人っぽく目を細めた。

「健くんはどうしたいの? 私の導き手になりたいの? それこそ聖人みたいに。そんなものを目指してるの? 清く正しく美しく? そんなのってありえないよ。ナンセンス。人間はさ、キレイな部分もあるけど、でも同じように汚いところもあるもんじゃないの? それに私は健くんにそんなものを望んでない。私と君は友達、とーもーだーちー。フレンズ。オーケィ? だからショックも受けるし、怒るし、悲しく思う。でもね、それは助けて欲しいって健くんがいわなかったことに対してだからね。決して、軽蔑したりとか、そういうんじゃないからね。それにまだ君は私との約束果たしてないでしょ? あ、今、なんだっけって顔したでしょ。ホント? してない? ん、まあだからさ、私の全部を埋めてくれるって約束! アレもまだでしょ? だから私は逃げないし、逃がさないからね。そこんとこ分かった? よし、今、頷いたね! 私、見たからね! んじゃスマイル!」

 小さな体を全力で震わせて彼女は笑った。健太も釣られて笑う。泣きながら笑う。自分は軽蔑されてなかったと、自分はまだ彼女の友達でいられるのだと魂が震える。目の前の少女といられると分かるだけで、心が高潔な気持ちに満たされる。

 霧が晴れていくような、視界が広がっていくような、自分が拡張されていくような気持ちに健太はなった。友達と唇が自然に音を刻む。

「そう、友達。友達は互いの苦難に立ち向かって、助け合う存在なんだよ。だから、君の障害はあらゆる手を使って、取り除くし、それには命をかけるし、時には誰かを傷つける。そういう覚悟が友達っていうんだよ。……健くんはそういう覚悟をしてくれた。こんな私に、してくれた。普通に接してくれた。本当に、普通の友達みたいに接してくれた。私を可哀想な子みたいには見なかった。さっきの逃げたのだって、私を自分と肩を並べる相手だって思ってる証拠だよ。嬉しかったよ。うん、とても。だからね、私もそういう覚悟をしたの。うん、だから、泣かないで。私も嬉しくて泣いちゃうよ」

「ごめん、ごめん、ごめんね」

「いいから。もうね、いいから。うん、ほんと。あとでアイス奢ってくれるだけでいいから」

「うん、アイスは奢らないけど、ありがとう」

「ちっ」

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