02……こんにちは。蛆虫。
母が死んでからというもの、健太にはいい思い出がひとつもなかった。貧乏だったが少なくとも秩序はあったと彼は思う。
母の死から、職人気質の父は毎日酒を飲み、家族に暴力を振るった。大柄な父の口癖は「学歴なんてもんは」から始まる品のない言葉。
言い合いにも、暴力にも嫌気の差した姉は早々に家を出た。上の妹は成績こそ悪かったが、父に似ていたからか甘やかされていた。しかし、それもいつ崩壊するか分からなかった。下の妹は成績が良かったせいか、よく父親の暴言と拳の的だった。それでも彼女はいつもニコニコ笑っていた。弟はいつも泣いていた。
健太は。健太は頑張ろうとしたのだ。家族のために頑張ろうとした。父がいつか立ち直ってくれると信じていた。弟を庇いながら、妹を庇いながら、妹を匿いながら、妹の代わりに殴られながら、不条理に耐えた。時には媚びへつらい、過剰に父を褒めた。それでも父は変わらなかった。ただひたすらに、ただ辛辣に、彼らを責めた。
健太はある日、自分が母によく似ていることを思い出し、母の真似をした。髪をゴムでまとめ、母の遺品のエプロンをつけて、料理をした。声色を真似、味付けを真似て、仕草を真似て、父を歓待した。目に見えて父は大人しくなった。普段なら渋る食費も無言で渡してくれた。健太は、妹たちは喜んだ。ああ、きっとこれで普通の生活ができるのだと笑った。
二日、三日と経ち、一週間が経過したところで、健太は父に手を引かれ、犯された。むせ返る汗の中、母の名前で責められながら犯された。
その日から健太は父の性のはけ口になった。嫌がると父は妹たちに暴力を振るった。お前が拒絶するからだと言わんばかりに激高し、顔が膨れるまで、妹たちを殴った。生活費を渋り、屈辱的な言葉で罵った。仕方なく健太は妹たちのために父に身体を差し出した。
そんな健太にとって学校は唯一休まる場所だった。頑張れば頑張っただけ評価される。半日以上も家の外にいられる。大半が女生徒だったが、裏表のない彼に誰もが優しかった。それを父は壊した。カメラで撮影した映像を学校の近くにばら撒いた。父に抱かれ、頬に叩きつけられる金を有難がる酷い映像だった。
目に見えて友達は離れていった。好奇の目に晒され、健太は憔悴した。最もショックだったのは親友だと思っていた女生徒に言われた一言だった。
誰もいない夕暮れ時の教室で、彼女は健太に分厚い封筒を手渡した。
「これ、何?」
「あ、あたしの、貯金、全部下ろした。あ、あの、あのさ、あたしにも売ってくれる? お金で売ってくれるんでしょ?」
最初は意味が分からなかった。考えて、理解して、絶望した。自分をそういう目で見る親友に吐き気がした。
拒絶する健太に対して親友は額を釣り上げて、頬を釣り上げて笑った。
「ず、ずるいなあ、健太くん。そうやって泣いたフリして、額上げさせてるんでしょ? い、いくらならいいの? いくらなら健太くんを独占できるの? 五万円? 八万円? 十万円?」
「…………」
「十五万円? 二十万円? 三十万円?」
「……うあ」
「え? なに?」
彼は一瞬、考えた。考えてしまった。それだけの金額があれば、滞納している妹達の給食費や授業料を一括して支払える。それどころかアパートだって借りられるかもしれない。あの父から逃げて暮らせるんだと。思ってしまった。
だから、健太は親友のマンションで、親友のマンションのベットで、震えた手で、吸ったこともないタバコを吹かしながら、もう誰も信用しないことを決めた。
金をくれるなら男だろうが、元クラスメイトだろうが、元担任だろうが相手をした。怪しい薬を使うことにも躊躇しなかった。身体に刺青を彫られても耐えた。どんな屈辱的な行為をされても耐えた。そんな健太がボロボロになっていくのを元親友は光悦とした表情で見つめた。
「自分の恋人が他の人に抱かれてるなんて、最高に興奮する」
そんな狂った囁きを続けながら彼女は健太に溺れた。彼にはこれっぽっちも情はなかった。
そんな彼の心に限界を向かい入れたのは、上の妹の佳奈美だった。背の高い外見に似つかわしくなく、彼女は酷く臆病だった。前の家に暮らしていた時は、父が暴れる度に健太の部屋の押入れに逃げ込んで、スンスンと泣いていた。
深夜、彼女は健太の布団に潜り込むと、健太の下腹部を撫でた。気づいた健太が拒絶しようとすると、彼女は慌てて腕を抑えて、半開きの口から涎をボタボタと彼の顔に零した。
「あ、あ、あ、あ、兄ちゃん、おか、お金、払うから」
日頃から佳奈美が自分に特別な感情を抱いていることは彼も理解していた。それとなく誘われたことがあり、自分に恋慕しているらしいことは分かっていた。
しかし、それを抜きにしても酷いと彼は思った。妹の握りしめたお金は、自分が彼女のために与えた小遣いで、自分が好きでもない相手に身体を売って、そこから捻出したものだった。それを差し出して、しかも好きでもない行為をしろと彼女はのたまう。金さえ払えば兄は誰とでも寝るのだろと語る。それが健太には気持ちが悪くてしかたなかった。
窓から差す月明かりの中、不意に視線を感じて、健太は小さく開いた襖を見た。下の妹の遥が覗いていた。襖の向こう側で弟が遥の名前を読んだ。
――おねえちゃん、どうしたの。
――何でもないよお。
襖が閉じられた瞬間、彼は全て悟った。
遥は承知だったのだ。佳奈美が自分を襲うことを知っていた。知っていて、分かっていて、止めなかった。二人が“そう”なってしまえば、健太は自分たちを見捨てられなくなる。彼女は自分たちが見捨てられてしまうことが怖かった。見捨てられ、またあの家に戻ることが何よりも怖かった。殴られ、怯えて暮らすのは嫌だった。自分たちを繋ぐものが、家族という脆く不確かなものでは、頼りがなさすぎて、不安だったのだ。
見えてしまったものに健太は絶望した。そして健太はあまりにもふざけていると憤る。自分があの父と同列の薄情者と言われているように思えて、耐えられなかった。
彼は妹を押しのけると、上着を来て、玄関に向かった。下の妹がすがる声を無視して、彼は家を飛び出した。
長女のアパートに向かった。多く語らない健太を姉は無言で受け入れてくれた。転校届けを出し、自分の扶養にするため、役所に書類を出してくれた。
「僕、働くから」
「大丈夫、姉にまっかせなさーい。だから、ちゃんと学校には行くのよ。そしていい大学出て、お姉ちゃんを楽にさせてね! 老後まで!」
しばらくして、長女のアパートに妹達が来た。チェーンを外し、戸を開けたところで、大きな拳が健太の頬を突いた。死角に隠れていたらしい父は土足で上がり、抵抗を試みようとしている長女の頭を素早くトンカチで割った。二回、三回と叩いて、健太を見下ろした。
白い歯を見せる父の後ろで姉がビクビクと身体を跳ねさせながら、失禁していた。
明らかに生が失せていた。
「いいか? ここには強盗が入ってきた。強盗ともみ合いになって、アイツは頭を割られた」
「あっ、あっ、あっ……」
「分かったか? 分からないと、こうだぞ」
父の太い腕が、弟の首を不自然な方向にねじ曲げた。もう、それだけで抵抗する気が失せた。二人の妹が見下ろす中で、健太はその場で犯され、父のために証拠隠滅を行った。弟は庭に埋めた。
何も考えず、変わらない日々を生きながら、健太は父と妹たちと暮らしていた。家でも外でも酷い扱いだったが、もう心は何も感じなかった。心が壊死していた。家で妹達が自分に懺悔しても、何も感じなかった。見捨てられるのは嫌だったと叫んだところを見ても「そうか」としか思わなかった。そのために長女の場所を教えたと分かっても、もう起こってしまったことは変えられないのだ。怒ったところで意味がない。そう諦めがついてしまう。
そんな地獄のような日々を送っていた中で、久しぶりに心が踊った。郵便受けに入った催促状だった。口を開け、震えた手で、震えた目で、文面を追った。
「ああああああああ……っ」
健太は静かに雄叫びを上げた。長女の入院費に対する支払いが、扶養者である健太に回ってきたのだ。
死んだと思って放置した姉が、神の救いか、病院に収容された。
姉が生きている。生きていた。それだけだが、それだけが、彼の心を溶かし、動かし、沸き立たせた。それだけだが、それだけが、彼の中で価値あるものだった。
健太は上の妹に身体を売った。父を殺してくれるなら、結婚してもいいと約束した。
「お父さん、さようなら」
「あん?」
下の妹には自分の汚点を知る全てを片付けさせるように言った。全てが終わったら、一生守ると約束した。
「君の名前、なんだっけ。まあいいや、さようなら」
「え?」
塀の向こう側にいる妹を含め、全てが片付いた。健太は嬉しくてしかたがなかった。姉と暮らせる。もう一度、ゼロから始められる。あとは姉が目を覚ますだけだった。それだけでよかった。それだけが救いであり、彼の希望だった。
だったのだ。