15……ハイヌウェレ2/2
手を伸ばして届く天井。指先でそっと押し、理子は空の重みと温もりを感じる。
ワインの酸味を感じさせる息に、まだ酔いが覚めていないことに彼女は気づく。敵意を感じさせない笑みに乗せられてしまったのだ。
――これ? これは単品注文のすっごい高いワイン。これとね、このチーズを食べるともうビックリなんだよ? チーズと一緒に一口どうぞ。……ね、美味しいでしょ? あ、今度はこっちのワインをね。
自分の話した言葉を思い返して、理子は悶絶する。酒も手伝って、年甲斐もなくはじけてしまった。どんなことを言っても否定しない少女の話術は嫌になるほど心地よかった。
常に人は誰かに認められたいと思っている。だからこそ、自分を認め、自分を肯定してくれる相手の側にいたいと願うのだろう。他人を認め続けるあの少女にはそんな相手がいるのだろうかと彼女は思い、鼻で笑った。
「二度と会わない相手のことを思ってどうするの」
友達はいらない。家族も必要としない。理子にとって、自分以外の人間は他人でしかない。血が繋がっていたとしても彼女にとってそれは“昨日、隣の席に座った間柄”という鎖と重要度は変わらない。
彼女は他人を信頼はしても信用はしないのだ。自分と同じ人間が世界に一人でもいたとして、それを信用できるかと言われれば、人はみなノーと答えるはずだ。そう理子は思う。自分よりも信用できないはずの他人を、どうして信じられるのだろうかと。
健太は彼女にとって人間とは言い難い存在だった。何から何まで、まるで神が理子のためにあつらえたかのように、戸賀健太は彼女の好意を刺激する生き物だった。理子には彼の嘘が手に取るように分かる。彼の気持ちが自分のことのように分かる。彼の好意や、彼の敵意が分かる。それは安心だった。他人といることで得られる安心。そんなものは理子の人生でなかったことだった。
「うううう……」
口を手で抑えて、彼女は声を殺した。真っ赤に染まった顔は、健太のことを考えのが理由。獣じみた息遣いと胸の躍動を落ち着けながら、目を見開きながら、顔に爪を立てながら、なんとか理子は正気を保つ。愛ゆえの苦しみ。日に日に思いが強くなるのを抑えられない。
健太を見ると抱き締めたくなる。健太を思うと、胸が詰まる。健太が辛い時は自分のことのように辛い。理子は彼と居る時だけ、人間だった。彼といることで、普段感じられないことを感じることができた。鉛筆で描いた白黒の絵に、色を足すように。
ドアのチャイムの鳴る音でベットの上の健太の目が覚める。理子は動きを止めて、息を殺した。健太が起きるわけがないと理子は思う。薬を飲もうとしない健太が起きれるはずがないのだ。口を開けばダルいか、辛いしか言わない。
案の定、健太はケイタイで時刻を確認した後は、布団を被ったようだった。
理子はほくそ笑む。ほら見なさい、私にはなんでも分かるんですから。
チャイムがけたたましく音を鳴らす。ドアを叩く音もした。自宅にいたのなら、怒鳴りつけているところだった。どうせ、未解決事件を調べているゴシップ記者とかいう下らない人間に違いない。下衆の勘ぐりで健太の過去を掘り返そうとする馬鹿馬鹿しい人種。
「健くーん、あーそーびーましょー」
女の声だった。ベットを軋ませて、健太が飛び起きた。絨毯の上に足を下ろす。ケイタイを片手に駆けるように玄関へ向かった。
理子はベット下の小さな隙間から、現実を疑った。あの健太が動いた。薬もない状態で誰かに会おうとした。会わなければいけないと思った。それが彼女にはにわかに信じられない。
「それよりも誰……?」
ベットの下から這い出ると、暗闇の中、理子はそっと近くに寄って、耳を這わす。
「由紀、足生えた? それと手も」
「うん、金属とシリコンだけどね、昨日の晩に生えてきたよ。すっごいリアルでしょ? 結構高いんだよ、これ。オーダーメイドだからね。あ、これね、ホテルのお土産」
「あ、ゼリーだ」
紙袋を開いたような音が理子に届く。音の位置と声色から相手の身長があまり高くないことを知った。
健太と同級生か、それ以下の年齢だろうことは想像に難くない。では誰なのかという疑問が湧いてでる。健太に友達などいない。いるはずがない。いていいはずがないと唇が空気をついばむ。
「これすっごい美味しいんだよ。健くんさ、調子悪いんでしょ? だから食べやすいものがいいと思ったの。あ、そうだ! これ食べたらね、野球しようよ」
「え、調子悪いって知った上で俺を野球に誘うの?」
「ウソに決まってるじゃん。私、酔ってるしね。ちょっと仕返し。この前はホント、大変だったからね。この突発的にいわれた側の“なにいってんのコイツ感”を健くんにも知ってほしいと思ってさ」
「……えっと、あの、その、ずっと立ってるのも、なんだしね、上がってきなよ、なにもないけどさ」
誤魔化すような、嬉しがるような、弾んだ健太の声。理子はますます混乱した。彼が客を自ら家に上げることなど、通常ありえなかった。それも鬱状態ならば尚の事、おかしい。
――私だって、一度も上げてもらったことないのに。
「靴脱がしてあげようか?」
「なあに、健くん。スカートでも覗く気ぃ?」
「由紀のふんどしなんて見たくないよ」
「鼻からコーラ流し込むぞ」
「……ウソです。すいません」
自分と健太の世界が得体のしれない獣に蹂躙されている。理子は焦燥に駆られた。
なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、なんにもできないけど、なんとかしなきゃ。目に涙を溜めながら彼女は呪詛のようにつぶやく。
「そういえば隣のさ、例のお医者さん。帰ってきてないみたいね。健くんと一緒に帰ってきたんじゃないの?」
「先生とは現地集合の予定だったんだ。あ、そういえば、さっきメールで食事してから帰りますって来てた」
「うん!? 健くん、もしかして先生に私と話しするってこと伝えてなかったの? あの場所にその先生って人が来てたのなら、健くんなしでも話しができたのに」
理子は遅れながらも現状を把握した。幼い声の主が健太の友達なのだ。その少女と自分を引き合わせるために健太はレストランで食事をしようと誘った。それはイコールで自分のことを想って誘ったわけではないということ。
目に涙を溜めて、理子はきつく拳を握った。
「えっと、その、ごめん」
「もー、ほんと健くんダメ人間だねえ。やっぱ野球する?」
「や、野球はちょっとホントにもう。よ、夜だしさ。……あ、でも! ほら、先生に今から電話してみるから、そうすれば先生が帰ってきた時に――」
それはマズイ。理子の背筋をさっと冷たいものが通り過ぎる。音を立てずに駆けようと一瞬、試みるがあまりにも時間が足りない。
「え? どういうこと?」
「あ……れ」
ベットの下で理子のケイタイが着メロを鳴らしていた。
一歩一歩確かめるように、びっくり箱を覗きこむように寝室の戸が開いた。白熱灯の光が暗闇を照らす。とっさに隠れた押入れの中で理子は心臓を押さえた。音が漏れてしまわないように、泣きそうな顔で力いっぱい押さえる。
健太に嫌われてしまう。それだけが恐ろしかった。軽蔑ではなくて、無視されようになってしまう。健太の中から自分が消えてしまう。それが何よりも恐ろしかった。
恐る恐る健太はベットの下を覗きこんで、手を這わし、ケイタイを手に取る。自分のケイタイ画面に目を向けて、無言で後ろ姿の少女を見つめた。赤いカーディガンの少女を。
少女の姿を見て、理子の絶望は深まる。何故、彼女がとは思わなかった。頭の何処かで冷静に納得する自分がいた。彼女ほどの器量と気力の持ち主なら健太に好かれ、健太の穴を埋めることも容易だろうと。彼女ほどの知能の持ち主ならきっと自分の行為も白昼の下に晒されてしまうだろうと。健太に自分の行為がいかに倒錯的で、犯罪じみているか淡々と説明されてしまうだろうと。
「あのさ、健くん。これさ、正直、言い辛いんだけさ、その、そのさ……これはさ、何ていうかその」
瞼を閉じて、少女は続けた。淡々とした声だった。
「その先生とそういう関係なの?」
由紀はあっ、と小さな息を漏らす。普通に見れば、それが当然の感想。寝室に知らない女のものがあったら、誰でも“そういう関係”だと思う。
ベットの下に誰かが潜んでいたということよりも、健太と自分がそういう関係で、その過程でケイタイを落としてしまったという可能性のほうが現実的なのだ。
「ち、違う、違うんだ! だって、俺は部屋には先生を入れてないし、ここではそんなこと絶対、だって、こんな」
そして健太はお互いの関係を少女に伝えていない。伝えられていない。過去を含めて。それらが露見することを恐れている。
それはつまり何を意味するのか。理子は安堵しきった顔で押入れの隙間から二人を見つめた。
「じゃあ、何でケイタイがベットの下にあったの?」
「そんなの俺だって分かんないよ!」
「じゃあ、健くんは先生って人と何も関係がないんだよね?」
「そ、それは」
健太はどんどん青ざめていく。溺れかけた子犬のように必死に空気を求めている。彼女にはウソをつきたくないという気持ちと、彼女にはウソがバレてしまうという気持ちと、真実を言いたくないという気持ちが混ざったような、なんとも形容しがたい顔を作った。
理子はその顔を見て酷く興奮した。自分のことなど忘れて興奮した。いつもの気丈な健太からは想像もできない表情だった。迷子の子供を彷彿とさせる不安で一杯の顔。
「さっき、ここではそんなこと……っていったよね。っていうことは健くんさ、別のところでは先生と“そういう関係”ってことでしょ。ねえ?」
「ゆ、ゆ、ゆ、由紀には関係ないだろ!! そうだ、由紀には関係ない! な、何だよ、さっきから人のこと探るみたいな口ぶりでさ! 俺と先生がどんな関係だって、俺がどんなことをしてるかだなんて、どんな気持ちでいるかなんて由紀には関係ないんだっ!」
紙を切り裂くような勢いで、健太は少女を見ずに言い切った。
「……なにそれ」
少女は笑う。腕の付け根をさすって笑う。
「酷いよ、それ。友達だと思ってたのに」
もう一度、酷いよと呟いて、少女は部屋を出て行った。
誰もいなくなった部屋で、健太は顔を覆って崩れ落ちる。自分の言葉の醜さに泣かずにはいられない。嗚咽を堪えられない。絶望を避けられない。
初めてみた健太の弱々しい姿に理子は涎をこぼして見入った。押入れの隙間に顔を押し付けて、見つめる。
同時に頭の隅で思った。少女が冷静なら、あるいは健太がもっと落ち着いていたら自分は彼らに捕まっていた。そうならなかったのは二人が目の前の事実を確認しようとせず、そこから生じる仮定に目を向けたからに他ならない。端的に言えば互いを信じる心が足りなかったのだ。
自分は絶対にそうはならない。健太を信じられるし、仮定になど目を向けない。睡眠薬を手にバラバラと開けて、深い眠りについた健太の涙の痕を指でなぞりながら、理子はそう笑った。
健太と少女の鎖は切れた。精神的な影響でみれば良くなかったが、それは自分が埋めればいい。少女と同じようにとはいかないにしても、少女のようなやり方ならマネできないこともなかった。
「おやすみなさい」
手の甲にキスをして、理子は音もなく家を出た。少女がいた。
「死は常にネガティヴよね。昔からどんな伝承も伝説も、死はネガティヴなものって伝えてる。だから、死は何も救わない。そう思ってた。でもね、思い出したのよ。ハイヌウェレ、知ってる?」
「え?」
「ハイヌウェレは死ぬことで……殺されることで恩恵を人間に与えた。だからどうだって思うかもしれないけど、死は幸福に繋がることもあるっていう例があるだけで、私の精神は違うの。そう、死は幸福に繋がる、お前の死は幸福に」
少女の腕がボトリと落ちた。蛇の抜け殻のように、中身がない。義手の“ガワ”に目が奪われている理子の首に金属製の指が食い込む。キュルキュルと音を立てて、三本の指が喉を絞った。
「か、あ、くあっ」
「お前が健くんにあんな酷いことをいわせたんだな。死ね」




