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15……ハイヌウェレ1/2

 地下駐車場の蛍光灯は今が昼なのか、夜なのかを曖昧にさせた。

 理子は携帯電話を助手席に放り投げると、ハンドルに額を押し付けた。重くため息をつく。

「楽しみにしてたんですよ、本当に」

 健太が行きたいというから仕事を切り上げて来たのに、その健太が重い鬱を発症して、行くのを断った。それが先ほどのこと。

 彼から理子に対するお願いは珍しかった。だからこそ、彼女はそのお願いに色めきだち、喜びに震えた。

「楽しみにしてたのに………………うぐうううううううう!!」

 理子はハンドルに噛み付いて、爪を立てて、地団駄を踏む。合成皮の鼻につく香りが口の中に広がるが、気にしなかった。

 彼が自分との関係をよく思っていないのは理解していた。そもそも、健太にとって性行為も、売春行為も、惨めな頃の反復行為でしかない。にも関わらず、彼がそれを選択した理由は、それでしか自分の存在価値を得られなかったことが大きい。嫌なことなのに、それでしか褒められることを知らない。それでしか自分のできることを知らない。病的にそう思い込んでいる。

 だからこそ彼女は普通のデートを健太が求めてくれたことが嬉しかった。純粋に自分と行きたいという気持ちから出たに違いなかったからだ。

 いい香りのする香水を途中で買った。スーツも新調した。滅多につけない高い下着も今日は身に着けている。正直なところ、ホテルのいい部屋を予約していた。トランクには“お仕置き道具”も入れてある。化粧だっていつもと違う。

 車が揺れるほどに彼女はもがき、ハンドルのへりに何度も額をぶつけた。

 一度、額が少しズレて短くクラクションを鳴らす。そこで彼女は動きを止めた。

「あーもう、馬鹿らしい。ご飯食べて、お土産包んでもらって帰りましょう」

 ころりと気持ちのスイッチを切り替える。昔から理子は絶望や悲しみに強かった。母の折檻(せっかん)がある度に、こうして気持ちを切り替えて耐えた。動揺を引きずって、失敗すれば折檻が酷くなる。動揺は動揺を呼び、失敗は失敗に繋がり、折檻は更なる折檻を運ぶ。だから、理子は自分を助けてくれる兄がいなくなってからは、感情だけを切り取って、心のゴミ箱に捨てる術を身につけた。

 いつもの冷静な理子に戻ると、ホテルのレストランフロアに向かった。予約とは違い、一人であることを告げると受付の女は一瞬、憐れむような目で理子を見た。

「おつれ様は後から来られるのでしょうか?」

「いえ、来ません」

「なるほど、分かりました」

 ああ、フラれたんだなこの人。そんな目で理子を射抜く。

 理子は他人の同情など気にしない。他人に興味がないのだ。自分の自由を束縛されないかぎり、理子は他人がどう思おうが気にしなかった。気にしたところで、それがどうにかなるわけではないと諦観しているからだ。心に少しでも負荷がかかれば、条件反射のように脳みそが感情を切り取った。しかし、健太のことに関しては違った。健太のこととなると、感情を抑えることができなかった。

 いつもなら、不真面目なボーイがいたところで気にしない。喧嘩を売るような真似もしない。足の悪い少女が不機嫌面で歩いているのを笑われているのを見たところでどうとも思わない。自分と重ねることもなかったはずだった。

 どうして自分はこんなにも怒っているのだろうとすら彼女は思う。健太を心の底から愛してるからだ。そう誰かが答える。

 好きな人といられないから、とても悲しい。好きな人が自分を見ていないから、とても悲しい。愛しているから、彼に憎まれたい。心の底から気持ち悪がられ、憎悪され、嘲られ、軽蔑されたい。憎しみは愛と対極の偽りざる純粋な感情だから。

 そんなことを思いながら理子はボーイの男を罵る。生き方を否定する。その無様な姿を見て、健太は自分をどんな風に笑ってくれるだろうと思いながら。

「あのさ」

 赤いカーディガンを羽織った人懐っこい顔つきの少女が割って入った。パッチリとした目で、理子とボーイをじっくりと見る。

「もう、その辺にしておいたらどう? 私ね、この前、本で読んだんだよね。分類学の本でさ、そこに“人間はみんな、遠い親戚なんだ”って書いてあったのね。アフリカのイブって知ってる? ああ、だからね、血の繋がった同胞(はらから)で喧嘩してもしたかないってことをいいたいわけ。世界中のみんなが今よりも少しだけ優しくなるだけでさ、随分、違うと私は思うのね。喧嘩することが生産的なら、それは意味があるとは思うけど、私には喧嘩することが生産的だとは思えない。なにより、見てても、してても、楽しくなんてないからね。だから喧嘩なんて止めよう?」

 歯を見せて少女は笑った。それに伴うように理子の作った支配される側とする側の空気が一瞬で崩壊する。

 怒り覚めやらぬ彼女は終わってなるものかとさらに口を開く。しかし、声を発するよりも、少女が理子の口に投げ入れたイチョウ切りのパイナップルの方が早かった。

「お姉さん、スマイルスマイル」

 左手の人差し指と親指で彼女は理子の頬を持ち上げる。

「ね? それにね、私は足が少し不自由だからさ、こういうボーイさんには凄く助かってるし、感謝もしてる」

「……そうですね、あなたがそういうのなら、ここまでにしておきましょう。でも、次に彼女の足のことを笑ったら、もう容赦はしませんよ」

 理子の悔し紛れの呪い。けれども、少女は少し寂しそうにするくらいで、笑顔を崩したりはしなかった。

「えー、お兄さん、私の足なんか見てたんだ。もしかしてロリコン?」

 おどけた彼女の口調に周囲で小さな笑いが広がった。

 少しも動揺が見られないことに理子は驚いた。男性が少女を笑っていたという直接的な攻撃と、少女の足が笑われるものであるという間接的な攻撃を合わせたものだが、空気が悪くなるどころか、少女はそれを笑いに変えた。誰も傷つかない方法で。

 強固な精神がなければ、できはしない芸当だ。

 支配権はもう戻らない。その空気を感じて理子はそっと場を後にした。


 理子は、先ほどの少女と同じテーブルで食事を取っていた。

「急に誘って大丈夫だった?」

「……実は彼と待ち合わせだったんですけど、振られてしまって」

 力なく笑う理子に少女は目を丸くした。

「わあ、やっぱり彼氏さんいるだね! それもそうだよね、すっごい綺麗だし、正義感もあるし、仕事もできそうだし。私はさ、昔からこんなのだから、そういうのに凄く憧れるよ。ああ、そうそう。待ち合わせで思い出したんだけど、えっと、私の方はね、食事会を兼ねた話し合いの予定だったんだけど、ご覧のとおりでさ。もう酷いよね、こんないい所、予約したっていうのに。あ、予約っていえばね、この前――」

 好奇心の塊のような笑顔をころころと変えて少女は話した。

 理子は応対しながらほぅと内心、感嘆する。

 少女はたくさんの話題を一度に話す。相手はそのどれかに反応しなければならない。相対する者は選択肢から必然的に自分の好きな話題や、得意な話題に向かう。ある程度、会話が続き、相手の趣向が確定した瞬間、彼女は話題を提供する者から、話題を提供される者に転じる。その時、少女に気分良く聞かせてやっているつもりでも、その実は、少女の顔色を伺い、聞いてもらっている立場に変わっている。それは理子の知らない状況支配の仕方だった。

「あなたのそれ、人の心が分からないんじゃなくて、人に興味が持てないだけでしょ」

 幼い顔つきながらも、その思考は老獪だ。理子は微笑んだ。

「はい、そうです。私は他人に興味がありません。人の死も、生も、私にとっては同じくらい意味のないことです。目の前で人がはねられて死ぬのも、地球の何処かで人が死ぬのも同じじゃありませんか?」

 少女のころころと変わる仕草は、理子の直感では嘘だった。驚いた表情も、困った表情も、笑う表情も、すべて見せかけのものだ。十分前に笑った声と、今笑った声はきっと同じ音域で、同じテンポのもの。彼女はきっと、誰にも心を開かない人間なのだ。人間というものを信用していない。

 社交的な外面とは違い、その内面性はとても陰気で、神経質なのだろうと彼女は思う。先ほど即座に指輪を隠した仕草から、少女の片鱗(へんりん)を理子は捉えていた。

 他人への異常な恐怖心と劣等感。強固な外面の向こう側には何があるのだろうと理子は垂涎(すいえん)した。その先を見ることができれば次のステージに自分は行ける。その経験は健太の心をもっと理解させてくれるだろうと。

「……初対面の人にそんなことハッキリいえるって凄いね」

「それはお互い様ですよ。あなたは名乗らない。私もあなたが名乗らないなら、名乗りません」

「うん、私は名乗らないよ。でも、だからこそ、お互いに遠慮なく言い合える。その本質は……」

 ――どうせ、二度と会うことはないから。

 二人は声を重ねて笑った。

お酒は二十歳になってから。

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