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14……こんにちは。違う私。

 ワイングラスを緩く揺らしながら、女は町並みを見下ろす。頬はやや赤く、先程から饒舌だった。

「だから、私、彼のこと凄く好きになって。分かります? 論理じゃないんですよ、こういうの。分かります? ねえ?」

「分かった、分かったからさ、ほら、チーズお食べ」

 クラッカーの上に彩られたチーズにモソモソと齧りつきながら、女はワインを水のように飲んだ。

 乱れた女に由紀は心の中でも笑う。よく飲むね、一杯、一万円のワインだよそれ。

「初めて心が分かる人に出会えて、気になったってのは分かるんだけどさ、でもそれがイコールで好きになるって違うんじゃないの?」

「違うんですよ! 違うんです! 外見から好みだったんですよもう」

「ふうん、顔で選んだんだ」

「ち、違います! いや、違わないんですけど、でも……でも、いいじゃないですか、そういうきっかけがあっても。外見を好きになるのも、内面を好きになるのも、声を好きになるのも、仕草が好きになるのも全部同じですよ。うん、同じだ同じ! もちろん、内面だって好きですよ。なんていうんでしょうね、“捨てられて拾われたけど、また捨てられた犬”みたいな感じが、こう……。でね、今までの経験を総動員で口説いたんですよ。でも、彼、凄くガード硬くて、なかなか体を許してくれないんです!」

「女のいうセリフじゃないね」

 硬派な男性なのだろうと由紀の中で妄想が膨らむ。メガネをかけた言葉少ない長身の男性。指はピアニストのように細いが、包む手は大きく、また声は冷ややかだ。彼はいつも自分よりも先に起きて、朝食を作ってくれる。健康管理に厳しく、また甲斐甲斐しい。

 ふと自分の趣向が混ざり始めていることに気づいて、彼女はグラスを持つ手を止めた。思った以上に酔っているようだった。

「それで結局、その人とは上手くいってるの?」

「いってる……んでしょうか?」

「だってお弁当作ったり、夕飯を一緒に食べたり、一緒に夜の散歩に出かけたり、その人のお姉さんと妹さんだっけ? 親戚に顔見せだってしてるよね。それってもう付き合ってるっていうんじゃないの? それに……」

 一瞬目を逸らして、由紀は再びワインを煽る。顔が赤くなったのはワインのせいではなかった。

「セックスだってしたんでしょ?」

「そうなんですよね、体の付き合いもあるんですよね。だから付き合ってるはずなんですけど、なんか不安なんですよ。彼、友達がいなかったはずなんですけど、最近になって急に友達ができて、しかもそれが女の子で、お金持ちみたいなんです。いくら聞いても、人のことをベラベラ喋るものじゃないとかいって教えてくれなくて。でも、そういう誠実なところもステキっていうんでしょうかね、ふふふ。あ、でも酷いんですよ。私にケーキ買ってきてくれたと思ったら、その女の子のあげる“ついで”で、余ったのはお姉さんにあげて、さらに余ったのを私にいつも世話になってるから、とかいってくれるんですよ!? 酷いと思いません?」

「うっわあ、それは酷いね。デリカシーゼロだよ」

「私って何なのって思っちゃいますよ。この差はお金ですかね、やっぱり。お金持ちはお金持ち同士で付き合ってくださいって話しですよね。何でよりによって彼なんでしょう? まあ、ですからね、もう私、その女のこと、さっさと殺してしまおうと思ってるんですよ」

 深く酔った様子で女は言った。皿を取り下げようとしていた店員の顔に驚きが浮かぶ。

 由紀も流石に驚いたが顔には出さなかった。そのまま、これもお願いと下げられた皿の上に自分の皿を乗せた。

「男の方にも問題はあるけどさ、でも彼女がいるのに近づく女の方もちょっと変な感じするよね。殺しちゃってもいいんじゃないの、それ?」

「殺すのは凄く簡単なんですよ。いつでもできます。……ただその後のことが大変なだけで」

「証拠隠滅がってこと?」

「まさかあ! 彼に対する影響ですよ。凄く腹の立つ話しなんですけど、その人、彼に対してすごくいい影響を与えてるみたいんなんです。彼、いろいろあって心がとても(もろ)いんですね。いつも薬を手放さないくらいに。だから、ちょっとでも、彼が辛い気持ちになるようなことはしたくないんですよ。あのオモチャだって、そのために修理したんだし、ああでも、本当は彼にはない方がいいんじゃないかなあ」

 グズグズとテーブルクロスを指で突きながら女は唇を尖らせた。

 応対を続けつつ、由紀は彼女の言葉が冗談なのか、本気なのかと考えあぐねていた。

 冗談ならそれで良かった。しかし、その言葉が本気の意味を持つのなら、自分に良くない影響を与えることは必須。ならば、早々に距離を取るべきだろうと由紀は考える。確かに女の思考や、その観察力は由紀にとって興味深いものだった。

 女の思考を端的にまとめれば“人間はどのようにすれば怯えるか”ということと“人間はどのようにすれば支配できるか”の二つしかない。そこに愉悦を感じたいという気持ちや、憧れを求めるといった利己的な気持ちはない。ただ純然たる好奇心と、安全に生きるための方法として、それを選択したにすぎない。何故ならば、彼女には同情も、同感もないからだ。由紀の知る限りで、そんな人間は二人としていなかった。明らかに女は通常から“外れ”ていた。

 人と意思を交わすことは、影響を受けるということ。影響を受けるということは相手の思考を自分に取り込むことでもある。それが成長。由紀はそう信じる。成長はより深い思慮を与えてくれる。

 しかし、影響を与えてくれる相手が人の皮を被った怪物ならば目を閉じるべきなのだ。怪物と対峙し続けた結果、己も怪物になってしまっては意味がない。

「単純な好奇心からなんだけどさ、どうやって殺すつもりなの?」

「剥がし続けるんですよ」

 即答だった。

「剥がす?」

「ええ。人間誰しもが、いろんな鎧を着ています。服と言い換えてもいいですよね。サラリーマン、主婦、女子高生、男、女。それらは趣味や、好きなものや、嫌いなもの……といった沢山もので身を包んでいます。それらをね、剥がし続けていくと、芯の辺りにその人を形成している部分があるんですね。原風景、あるいはトラウマなんて呼ばれるものです。それに触れるんですよ、からくり人形の歯車を無邪気に(いじ)るみたいに」

「……そうするとどうなるの?」

 心臓の音が高鳴った。由紀の本能がそれを避けるべきだと伝えている。彼女は間違いなく怪物であり、その言葉は真実だ。それも残酷な。

 しかし、好奇心が抑えられない。

「さあ、どうなったんでしょうね。過程までは分かりません。結果しか私は知りませんから。ただ、歯車を弄られた時計は崩れて動かなくなるし、人形は二度と踊り出さない。そういうものじゃないですか?」

「あなた、やっぱり怖いね」

 何故、実際に実験したかのように答えたのか。結果はどうだったのか。誰をいつ、どこで、どのように“剥がした”のか。由紀は疑問を口にしたくて堪らなかったが、耐えた。それ以上、知ってしまえば自分のどこかに怪物を産む。世の中には知らない方がいいことは確かに存在する。

 少し前に女の口から出た同調できない、悲しいと思えないという言葉が、薄ら寒い何かのように思えて、由紀は身震いした。サイコパスという(たぐい)の人間がいるのなら、彼女はその典型なのだろうと思う。そして遅まきながら確信する。この女はきっと既に何人か人を殺している。

「もうこんな時間」

 うとうとしていた顔を上げて、手首を裏返す。カルティエの時計だった。

 女は立ち上がると背筋を伸ばして、由紀に頭を下げた。

「今日はありがとうございました。奢ってもらっておいて、失礼かもしれませんけど、先に帰らせてください。私、明日は仕事なんです。すみません」

「いいよいいよ。私も無理に付き合わせてごめんね」

 由紀はマネージャーを呼び止め、タクシーを手配させる。もう既に酔っている様子ではなかったが、万が一を考えてのことだった。

 店の外まで見送る道すがらだった。由紀の口から自然と言葉が出た。

「私達さ、友達になれたかもしれないね」

 彼女に何か似た部分を感じたのだ。きっと知れば知るほど相容れないと思ってしまう確信があったが、その本質や執念めいた何かを欲求する心根は酷く似ているように思えた。

「……そうですね。なれたかもしれませんけど、でも、私、私と友達になれるような人とは友達になりたくないですね」

「あはは! そうだね。私も私と話しが合う相手なんて、ろくな人間じゃないって思うもん」

「ええ。また会いましょう……なんて言いませんよ? おやすみなさい」

「あははは! そうだね、二度と会いませんように、だね。おやすみ」

 自動ドアがその口を閉じて二人の世界を分かつ。

 由紀はふと健太のことを思った。そんな面倒な男よりも健太を彼女に紹介してやれば、良かったのではないかと考える。性格はひねくれているものの、顔だけはいい。少しねじ曲がって入るものの、誠実さも備えている。

 フロアマネージャーが不安そうな顔で自分を見つめていることに彼女は気づく。どうしてだろうと思い、自分の顔が不機嫌そうに歪んでいることに気づいた。

「え、何で?」

 由紀は分からなかった。

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