13……こんにちは。優しい隣人。
由紀は左手首の時計を見つめて、ため息をつく。今から帰って食事を取るにはやや遅い。かといって、このままレストランで独り食事をするというのも、後ろめたさのようなものを感じてしまう。
横目で眺めるバイキングの列では気品の漂う雰囲気の男女が楽しげに皿に料理を取っていた。高級ホテルの一流レストランで行われるバイキングという物珍しさは、金と暇を持て余した者達に概ね好評のようだった。並べられた料理の質は当然として、庶民のそれと決定的に違うのは桁違いの入場料を取る部分と、常に客について回る黒服のボーイ達の姿だった。彼らは客の代わりに皿を運び、料理を取り、さらに飾り付けを行うコックでもある。
本当であれば、横の席には健太がて、件の女医がいたはずだった。こんな場所を選んだのは自分が立場ある人間であるということを暗に示唆するためであったのと、何もかもお見通しだぞという圧力を与えるためだった。それが健太の不調により、ご破算になったのが十五分前の話し。電話の向こうで健太が重苦しく謝っていた声を思い出して、由紀はまたため息ついた。
「ここにもウチの野菜入れてるって自慢したかったのに……」
由紀は手をついて、赤い絨毯の上を足で歩く。皮膚に似せたシリコンを張った義足と義手の慣れない感触に自然に歩けているだろうかと不安になった。顔半分に至っては特殊メイクだ。
こうした手合いの高級店は障害者の客を嫌った。売っているのは料理だけではないのだ。彼らは店の雰囲気というものも商品として扱っている。完璧な人間しか入ることのできない場所という優越感が本当の商品なのかもしれない。だからこそ、不出来なものが、自分たちの領域に混ざっていることが彼らには耐えられない。由紀は少し引きずって歩くような自分の姿を一瞬、軽蔑めいた目で捉えた客の顔を見て、そんなことを思った。
杖か何かを持ってきたかったが、そんなことをすれば来店拒否されるのが目に見えていた。緩やかな列に流されながら、彼女は何も食べずに帰れば良かったと少し後悔する。
「いえ、結構ですよ。子供じゃありませんから」
子供に言い聞かせるかのような優しい声が背後でした。見るとフォーマルなスーツに身を包んだ青白い顔の女がボーイがついて回ることを断っていた。
自分が皿を持つこともできない子供だと言われているように感じた近くの客が、その女にきつく目を細める。由紀は心のなかで彼女がブラックリストに入っただろうことを確信した。和を乱すものは何であれ、排除されるものだ。
「お客様、困ります」
ボーイの男は冷や汗を掻きながら、狼狽えた。女は周りの視線に気にすることなく会話を続ける。
「困るって君がですか? それともこの店が? それとも他のお客が?」
「ですから、お客様……」
「君は自分でお皿を持つこともできない人間よりも優れていると思いますか? 思いませんか?」
周りの動きが止まり、更に視線がきつくなった。ボーイの同僚は対岸の火事とばかりに目を背けている。
由紀は自分の担当の男に指示を出しながら、横目でやり取りを見続けた。
「……私共はお客様よりも優れているとは思いません」
「そう、君はそんな客よりも優れていません。では、仕事に誇りをもっていますか?」
「もちろんでございます」
女は口元を手で隠して笑った。
「何かおかしな点がございましたか?」
「もう一度いいますけど、……私達は自分で皿を持つことができる。子供じゃないんですから。料理を切り分けることだってできる。何故、周りの人達はそうしないのか、分かりますか? お金を持っているからですね。お金を持っている人間は子供でもできるような馬鹿馬鹿しいことをあなた達に押し付けることができる。いうなれば、ここは未来ある君達の若さを無駄に浪費させ、つまらないことを押し付けて、その様子を楽しむ動物園なんですよ。客の残した残飯や飲み物を“まかない”という言葉で誤魔化して口にする時、君たちは自分の首の鎖の存在に気づく。普段、見て見ぬふりをしているそれを。檻の中の動物だということを。はっきりと自分が社会の中で、小さな存在であるということに気づく。自分は一生、こんな立場なのだろうということに気づく。誰かに頭を下げ続ける人生なんだということに気づく。私たちは頭を下げられる側の人間であって、君たちは下げる“動物”なんですよ。そんなあなた達が自分の鎖のデキを誇っていることがね、私、おかしくて」
狼狽えはボーイ達に伝播する。自分の過去を顧みて、希望のない己を自覚し、視線を下げた。対して、客のほうは随分と上機嫌だった。ここぞとばかりに、ボーイに指示を出す。自分たちが彼らを支配する側の人間だということを彼女の言葉で強く再認識したからだった。
「君の年収ほどの金額を私達はほんの少しの時間で使い切る。君が必死に働いている間、私達は椅子に腰掛けて、ゆっくりと甘いコーヒーを口に運ぶ。それも君たちのような人間に運ばせたコーヒーで」
「……」
「君は本当は何になりたかったんですか? 子供の頃、何になりたかったんですか? 今は、そのなりたかったものになれていますか?」
「もう、その辺にしておいたらどう?」
生き方を否定されるほどのことを、その男がしているとは由紀には思えなかった。それ以上の言葉はただの拷問でしかない。
立場の弱い人間が責められている姿をニヤニヤと眺めている他の客の顔も、彼女には堪えた。外に出歩いた時にたまに感じる周りの視線、それと今を重ねてしまったのだ。
それはまるで、小さな虫をジワリジワリといたぶる子供のようで。それはまるで、不幸を見ることで安全な自分の愉悦に喜ぶ獣のようで。
「私は足が少し不自由だからさ、こういうボーイさんには凄く助かってるし、感謝もしてる」
「……そうですね、あなたがそういうのなら、ここまでにしておきましょう。でも、次に彼女の足のことを笑ったら、もう容赦はしませんよ」
ボーイは由紀の足を見て、隠れて笑った。そのことが許せなくて、女はボーイを責めた。そう女は動機を語る。
そのことに由紀は驚いて、ボーイを見た。彼はこわばったような顔で由紀を見て、視線を逸らした。その反応に彼女は女の言葉が真実であることを知り、助け舟を出したことを後悔した。
事態が収集した空気を察したのか、今まで隠れていたフロアマネージャーらしき男が何食わぬ顔で、責められていた男の仕事を引き継いだ。
――お客様、食前酒などいかがでしょうか。
フロアマネージャーに由紀は、先ほどの女を知り合いということにして、テーブルを同じにしてほしいと伝えた。
テーブルにやってきた女は開口一番に謝罪した。
「私の勝手な気持ちで、見ず知らずのあなたを衆目にさらしてしまった。本当にすみません」
「やっぱり、やり過ぎだったとは思うけど、でもね、そういう気持ちは嬉しいものだよ。ありがとう。よければ奢らせてもらえる?」
女は驚いて断ったが、既に払ってしまったとぼける由紀に申し訳なさそうに納得した。
「それよりも、急に誘って大丈夫だった? 誰かと待ち合わせとかじゃなかった?」
「……実は彼と待ち合わせだったんですけど、振られてしまって」
整った顔を力なく沈ませて笑う女に内心、由紀は焦る。ただの食事で来るようなところではなかった。何か重要な、それこそプロポーズか何かが控えていたのではないか、と邪推してしまう。
由紀は必要以上に顔を浮かせて、おどけてみせた。
「えっと、私の方はね、食事会を兼ねた話し合いの予定だったんだけど、ご覧のとおりでさ。もう酷いよね、こんないい所、予約したっていうのに」
「その相手はあなたにとって、敵対する相手だったんですね。それも凄い強敵」
「えっ?」
「それ」
ワイングラスに口をつけながら彼女は由紀の服装を指さした。赤いカーディガンに白いワンピース。
「赤は血。つまりは生命の象徴。力強さや攻撃を意味する色。白は無垢。つまりは誠実さの象徴。正しさや調律を意味する色。その白に黄色い刺繍やビーズがありますよね。黄色は警戒の色。黒い色であるレギンスが肌を覆っていることから、自分の心を強く制御したい意思が感じられます。それと怯えも。総合するとあなたは相手に不信感や敵意を持っている。不安や心の制御を意味する色から、あなたは一度もその相手に会ったことがないことが分かる。相手は女性ですね。どうですか、当たってましたか?」
「……凄いね。うん、凄い! わー、面白い! なになに、そういうのって、こんなにピタリと当てれるものなの?」
「若い子の間で一時期流行るじゃないですか、こういう色占いとか夢占いって。それの応用が今のです。……なんていってみたいものですけど、実際のところは、かなり当てずっぽうですよ。色以外のものも当然見ていますから。男性を意識したものじゃない服装と、薄めの化粧から相手は女性だろうとか、こんな圧迫感のある場所に普通、気心の知れた友人とは来ないから相手は仲良くないのだろうとか、そういう感じにです」
「それで当たるんだから、凄いよ。私の知り合いにも同じようなことをする子がいるけど、やっぱりそういうのって観察なんだね」
「ええ、そうですね。重要なのは観察です。例えば、あなたが人差し指にしている指輪。指は本質的な性格を表しています。親指は不安、人差しは恐怖、中指は強い怒り、薬指は感情、小指は緊張」
由紀はどきりとして、指を隠すように握りこぶしを作った。
「私は怖がりってこと……? でもそれってバーナム効果って奴じゃないの? ほら、あなたはこういう性格ですっていわれると、誰にでも当てはまることなのに、自分にピッタリ合ってるって勘違いしちゃうみたいな」
「そうかもしれません。でも、そうじゃないかもしれません。その答えはあなた自身が知っている」
「そうかも。……うん、そうかもね。ねえ、そういうのってどこで勉強するの? いつ身につけたもの?」
「誰かの心が知りたいんですか?」
「……あなた、怖いね」
微笑みを崩さないまま、料理を口に運ぶ彼女に、由紀は本心から言った。底がまったく見えないのだ。表情は常に変わらず、声色も変わらず、挙動に一切の思考が見えない。普通はそんなことはありえない。何かしら挙動や仕草に思考や動揺が現れるものだ。靴で歩けば、足音が鳴るように。それが彼女にはなかった。それどころか、こちらを観察して、言葉の裏に隠された真意だけを突いてくる。
何もかも丸裸にして、一切を隠し続けるその様子は由紀の瞳には不気味に映った。
由紀の言葉にハタと動きを止めて、女は眉を寄せた。
「……ごめんなさい。そういう病ですね、これは。人の心を知らない間に覗いてしまう。人の心をえぐってしまう。それなのに私は他人へ心を開かない。だから私は友達ができないんですね。私、人の心が分からないんです。同感できないというか、同調できないというか。昔から、悲しいと涙を流す人の気持ちが、これっぽっちも理解できなかったんですよ。だって、そうじゃないですか。私は、その人じゃないんですから。勝手に相手の立場を想像して、勝手に気持ちやこれまでの経験を想像して、それでその人の気持ちになって涙を流す。それって妄想と何も変わらないと思うんですよ。同じ意見を口にして、私と仲良くなれると誤解した人がいたとしても、その答えを決めた経験や、思想や、立場というものは全く別のものですよ。ただ結果が同じであったというだけで」
「それでも、あなたは人を知る努力した」
「そうですね。それではいけないと思いました。人間は一人で生きているわけじゃありませんから。だから人間心理をとことん学びました。論文は“間接的に人を傷つける言葉とその支配”なんてものを書きました。でも結局のところ、私は知識で知ることができても、本質的に人を理解することはできませんでした。冷徹な人間のように思うかもしれませんけど、私自身は喜怒哀楽を感じます。他人を傷つけたという罪悪感も感じます。ただ同調できないというだけで」
由紀もワインを煽った。喉の奥がカッとなって、勇気が湧く。いつだってアルコールは由紀に勇気を与えてくれた。無神経でいられる勇気を。
「あなたのそれ、人の心が分からないんじゃなくて、人に興味が持てないだけでしょ」
「はい、そうです。私は他人に興味がありません。人の死も、生も、私にとっては同じくらい意味のないことです。目の前で人がはねられて死ぬのも、地球の何処かで人が死ぬのも同じじゃありませんか?」
「……初対面の人にそんなことハッキリいえるって凄いね」
「それはお互い様ですよ。あなたは名乗らない。私もあなたが名乗らないなら、名乗りません」
「だからこそ、お互いに遠慮なく言い合える。その本質は……」
――どうせ、二度と会うことはないから。
二人は声を重ねて笑った。




