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12……こんにちは。天死。

 街灯の無機質な白い明かりに髪をなびかせながら健太は暗闇の中、走った。こもったような熱に汗が流れ、頬を伝う。そんな健太の横を病院の駐車場から出た車が通り過ぎる。面会時間にはギリギリだった。

 敷地内を走り、薄暗い自動ドアを抜けて、エレベーターを上り、早歩きで病院内を進んだ。看護師が忙しなく通り過ぎる。

「……ふう」

 姉の病室の前で健太は浅く息を吸った。外とは違う独特な薬品臭さが胸いっぱいに広がった。先程から息が長く続かない。頭の奥がぼんやりとして視界にもやが掛かったような錯覚があった。走ったからでも、由紀と朝から遊んでいたからというのも違った。

 重苦しい手を動かして健太は扉を引いた。白熱灯に頬を照らされながら、夜空を眺める姉がいた。側には理子がパイプ椅子に腰掛け、同じ方向を見ている。喉を震わすように、二人は鼻歌を奏でていた。

 理子はハッキリとした音調で空気を震わす。健太の姉は消え入りそうな音で喉を震わす。

「ちょうちょ」

 少しもたついた口調で姉の唇から言葉がこぼれた。

 健太は息を止めて、音を殺して、そっと側に寄る。荘厳(そうごん)な何かを汚してしまわないように。

「蝶々の季節ですね」

 いつもと変わらない声で、視線も変えることなく、理子は答える。

「星の瞬きが夜のチョウとなって、草木の甘さを知らしむるのでしょう」

 ぼんやりとした表情を一転、顔いっぱいの笑顔にして姉は理子を見た。声のない大きな笑い声が幻聴となって健太の耳に届く。それは遥か昔に、遠い昔に聞いた姉の笑い声だった。

 健太は泣きそうになった。言葉を喋ったことにではない。体を動かすことすら満足にできなかった姉が姉らしく、人間らしく動いている。そのことが酷く胸を打ったのだ。

 不思議だった。嬉しかった。今夜の姉はとても人間らしかった。健太は思わず、姉の名前を呼んだ。

「……おかえり」

 健太の声を聞いて、姉はそう呟く。しかし、笑顔はすぐにぼんやりとしたものに戻ってしまった。目の光が消えていくように、意識が奈落の底に堕ちていく。健太がいくら名前を呼んでも、もう答えない。反応を示さない。

 理子が(なだ)めるのも聞かず、健太は半ば、半狂乱になって姉の名前を呼びつづけた。

「健太くん、落ち着いて。もう、沈んじゃいましたから」

「先生! 今、姉さんが! どうやったんですか、ねえ、先生」

「……少し場所を変えましょう」

 病室を出て、二人は談話室に向かった。明かりは既に落とされていて、テレビもついていない。ナースセンターから差し込む光を頼りに理子はパネルに手を()わし、明かりをつけた。

「健太くんに見せるのはもうちょっと後の予定だったんですけど」

「先生!」

 鼻息あらく、掴みかからんばかりの勢いで健太は彼女に詰め寄った

 いつも以上に落ち着いた様子で理子はゆっくりと息をしながら健太に答えた。彼女は人が他人の呼吸に無意識に釣られてしまうことを知っていたのだ。

「健太くん。今日、薬、飲んで、ない、ですよ、ね?」

「…………はい」

「ないよりはマシです。これ飲んでください」

 白衣のポケットから理子は薬を取り出して、手に空けた。銀色に光るプラスチックの表面にパキシルの文字。受け取り、健太は談話室の水で薬を流し込む。

「健太くんが思ってるほど、お姉さん、壊滅的な状況じゃないんですよ。まだ頭のなかには意識とか動いている部分がある。ただ上手く表現できないだけで。少し前にそのことに気づいて、どうにか意識を戻せないか、彼女が反応する言葉でコンタクトを取っていたんです。健太くんの方も落ち着いて、もう少ししたらサプライズとして見せてあげようと思ったんですけど……」

「どうすれば、俺にも姉さんと話しができますか?」

「何ともいえないです。こういえば必ずこう返ってくる……といったようなものじゃありませんから。彼女が見た今日の看護婦の雰囲気、料理の匂い、頬に当たる陽の光、雲の動き、夕闇の色、そんな些細なことが関係してるんです。それに今の健太くんの状態じゃ、お姉さんには面会させられませんよ」

 苦虫を噛み潰したような顔で健太は顎を引かせた。自分の状態を今一度、思い出す。薬がなければ、まともに歩けない。まともに会話できない。考えることも上手くできない。廃人と変わらない自分。うだるような夏の夜の寝苦しさを何倍も凝縮したような辛さにすぐ、死にたくなってしまう愚かな自分。

 沢山の出来事が重なったせいで健太の心は酷くねじ曲がり、まともに機能しなくなっていた。ぐにゃぐにゃに絡まったハリガネのような心を薬の力で無理にまっすぐにしているに過ぎない。

 いろいろな病名を説明してくれた理子のもの憂鬱げな顔を思い出す。本来なら何年も入院しなくてはいけないものだったが、理子がそうならないように手を回してくれたのだ。

「……姉さんは大丈夫なんですね?」

「そうです」

「……もしかしたら治るかもしれない?」

「そうです」

「……また前みたいに暮らせるかもしれない?」

「健太くんがいい子にしてたら、すぐですよ」

 健太は思い出す。姉とキャッチボールをした日のこと。姉とピクニックにいった時のこと。家族みんなで海に出かけた日のこと。キャンプ、夏休みの図書館、セミ取り、夏祭り……。

 残酷だった。ぞっとするほどその思い出は残酷だったが、健太は思い出すことを止められない。二度とそんな気持ちになることなんてないのだろうと思っていたはずだった。家族の思い出、それは健太にとって忌むべきもので、呪いに等しいもの。

「先生……、僕はどうすればいいんですか? 僕は何をすればいいんですか? 教えてください!」

 それなのに涙は止まらなかった。言葉は止まらなかった。記憶が流れることを避けられなかった。

 健太は跪くように彼女の白衣にしがみついた。白熱灯の無機質な光を後光のようにして、彼女は笑った。手のひらを彼に近づける。

「健太くんがいい子にしてたら、すぐですよ。ほら、お薬飲んでください」

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