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11……こんにちは。夢と現し世の世界。

 いつも由紀は見る度に思った。きっと自分はあの公園で遊んでいる子供のように汗を流すこともないだろう。きっと自分はあのカップルのように公園のベンチで日差しを眩しそうに見つめることもないのだろう。きっと自分は芝生の上に転がって、犬の生暖かい舌ベロに頬を舐められて笑うようなことはないのだろう。青々とした匂いのする木陰で、おにぎりを頬張ることもなけば、夕焼けを見上げて、心が洗われるような気持ちになることもないだろう。そう思っていた。

 人生とは耐えることなのだ。辛いことを耐え忍ぶ。それが人生。

 雨の中で踊ることを楽しむ知人の話しを由紀は鼻で笑った。何が面白いのかさっぱり理解できなかった。正気の沙汰とは思えなかった。しかし、今ではよく分かるのだ。理論や理屈ではなく、ただ喜びとして感じる何かを。

 健太の押す車椅子に揺られ、彼女はまどろんだ。今日という日を最後まで噛みしめたい、楽しみたい。そう思うも、瞼は重く、徒労と疲労は耳元で休息を囁く。

「普通のことなのに、なんてこともない当たり前のことなのにね、不思議ね。凄く楽しかった。体を動かすのだって、ただ疲れるだけだって思ってたのに、ホント不思議」

「寝てていいよ」

 健太は由紀の頭を撫でた。

「寝たら、夢に目が覚めちゃう」

「現実に目が覚めるんじゃなくて、夢に目が覚めるんだね」

「私ね、きっと気味悪がられるものだと思ってたわ。犬の散歩してたお爺さんにも、サッカーしてた子どもたちにもね。でも違うのね、彼らを気味悪く見てたのは、差別してたのは私の方なんだって気がつかされた」

 由紀は途切れ途切れに言葉を繋ぐ。首を揺らして、現実と夢を行き交う。

 その間で由紀は何度も何度も今日を反芻(はんすう)した。口の中をカラカラにして、バットを振った朝。車椅子をかっこいいと言ってくれる子どもたち。犬を見つめていると触るかいと言ってくれた老人。小さな柴犬が頬をペロリと舐めて、頬に鼻を寄せてくれた感触。懐かしい芝生の手と腰を刺す刺激。風に揺れる草木の匂い。氷の溶けた妙に水っぽい緑茶の味。口一杯に広がる梅干しの味。酸っぱいと顔をしかめる様子を見て、笑う健太の顔。障害者扱いをまったくしない、してくれない健太の顔。どこかで空気を揺らす飛行機の音。琥珀色の夕日。じゃあねと言ってくれる子どもたち。またねと言ってくれる子どもたち。熱の覚めた地面の感触。蛍火のように煌々と光る外灯。さあ、帰ろうと白い手を差し出す健太の顔。

 忘れたくなかった。一ミリも、一バイトも、一ピクセルも()せることを許したくはなかった。帰りたくなかった。今日という日を延々繰り返したいとすら思った。

 何度も目をほぐしながら、首を振りながら、眠気を覚まそうとする。しかし、眠気は遠ざければ遠ざかるほど、より強い高波となって再び彼女を襲った。

「……こんな日が明日も続くかな」

「続くよ、君が望むなら」

「うん……」

 かくんと落ちた顔をそっと健太は手で支えて笑った。


 由紀をソファに寝かせて、健太はベランダに腰掛け、煙草に火をつける。煙を一度も肺に入れたことはない。ただの格好つけ。

 グリム童話のように明かりが道標のように点々と奥に伸びている。由紀の家の庭はあまり広くはなかった。周りを囲っている壁に描かれた精巧な森の絵が奥行きがあるように見せているだけ。

「野球なんてしたくない、外なんて出たくない、か」

 健太からすればこの庭は自然に触れたい、外に出たいという欲求の現れとしか思えなかった。彼女は手が届かないから、手が届くミニチュアをここに用意したにしか過ぎない。小さな川のせせらぎを作り、藻に覆われた木々を植え、芝生を敷いて、花を添えた。それでも彼女は満足できなかった。綺麗な森ではあったが、本当の美しい森ではなかったからだ。

 天を突くような青々とした広葉樹もなければ、枯れ枝もない。雨の日に腐った枯れ葉の匂いが交じることも、この庭では感じることもない。

 だから今日という日を彼女は喜んだのだと健太は思う。全てが初めて見るもので、触れるもので、本当に求めていたもの。それは自然で、生々しく、力に溢れている。触れる度に驚きが、喜びが溢れた。そんな中で体を動かして、息を吐いて、汗を流す。生きているという実感を初めて感じたはずだと健太は思う。

「でも次は何をしたらいいんだろう」

 セミ取りにでも行こうか。そんなことを思いながら健太は笑って、ぐっと背を伸ばした。煙草の吸殻を携帯用灰皿に入れて、リュックから薬を取り出し、手に空けた。

 ミネラルウォーターを手にしたところで、自分を覆う影に健太は気づいた。

「おはよう。まだ今日のうちだよ」

「ねえ、健くん。それなに」

 四つん這いになって、健太の手の中を不思議そうに由紀は見つめていた。

「これ? これはお薬だよ。前にいった、先生から……あっ」

 最後まで聞くことなく由紀は健太の薬を取り上げて、投げ捨てた。アームに処理をするように命令して、由紀は健太をじっと見た。

「健くん、これ本当に健くんのいう先生って人から貰ったの?」

「そうだよ。ちゃんとした医者だよ、その人」

「健くんさ、あの薬、子供の頃から常用してるってわけじゃないよね。ADHDには見えないし、ナルコレプシーでもないよね?」

「いってることがよく分かんないけど――」

「――じゃあ、コンサータなんて飲んじゃダメ。その先生からもらった薬って今ので全部? 違うでしょ、全部出して」

 有無を言わさない雰囲気に押されて、健太はしぶしぶ薬を出した。いくつかの薬は先程と同じように処理された。

 何か鬼気迫る様子に、健太は何も言えなかった。

「これとこれは飲んでもいいけど、それ以外はダメ。あと一度に二個も三個も飲んじゃダメ。分かった?」

「わ、分かった」

「あと今度、その先生って人に会わせて」

「どうして?」

「どうしても」

 ゾッとするような、初めて会った時のような、そんな淡々とした口調で由紀は言い切った。

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